質問された内容に、番号をつけさせていただいたうえで、私なりの応答を以下のようにまとめました。
@「弁証法的理性批判」について貴兄のご見解をうかがいたい問題点というのは、貴ウェブサイトへの投稿にも書いたとおり、ただ一点、以下のように集約されます。「各国のサルトル研究者、殊に竹内芳郎氏のような日本のサルトル研究者は一体、弁証法の意味を理解しているのだろうか?」
@について、竹内芳郎、そして近年(2011年4月)『サルトルとマルクス』(春風社)を著した北見秀司など、かなり深いところまで弁証法を理解していると考えています。北見秀司に関しては、『サルトルとマルクス』を通読したかぎりでの私自身の判断です。
竹内芳郎に関しては『サルトルとマルクス主義』、『マルクス主義の運命』、『国家と文明』、『具体的経験の哲学』などを繰り返し読んでの判断、ということになりますが、それらの著作の要旨は、拙HP「竹田青嗣氏への手紙」において抜粋・紹介しています。
A「弁証法的理性批判」で試みられたのは、自身の実存主義とマルクスの弁証法的唯物論を弁証法的に止揚することでした。
Bここで重要なことは、マルクスが「資本論 Vol. 1」の土台となった「政治経済学批判」を書いた1850年代後半は、第一次産業革命が成熟期を迎えていた時代で、第二次産業革命はまだその揺籃期にありました。その意味で、私は、「弁証法的理性批判」は「政治経済学批判」に代表される弁証法的唯物論を第二次産業革命がもたらした産業構造の変化に対応させる試みだったと言えると考えています。
A に関して異議はありませんが、Bのように判断される論拠は何でしょうか。少なくともサルトル自身、そのように明言したことはないと思います。
実を言うと、『経済学批判』で定式化された「史的唯物論」には根本的な理論的欠陥があったため、第一次産業革命とその時代に生きる人々の現状や実践さえも明らかにできない「定式」だった、と私は考えています。なぜならそれは、生産力が生産関係(生産様式)と照応したり矛盾を引き起こしたりといった「実践的惰性態」のレベルにおける理論(仮説)でしかないからです。
『弁証法的理性批判』(以下『批判』)の意義は、「史的唯物論」における上記の欠陥を乗り越えたところにこそあり、具体的には、次の点に要約できると考えています。
経済の構造(生産様式)と「認識を含む人間の実践」とのダイナミックな相互関係を弁証法的に明らかにすることで、社会や歴史を解明していく「発見学」として史的唯物論を再構築したこと。(マルクス主義の理論的欠陥は<認識論>にあると見て、<史的唯物論>の中に「時代によって限定された人間の実践である認識」を包摂し、実践弁証法によって<史的唯物論>を再構成したこと。)
〔拙論文でも引用した『批判』の意義:竹内氏の要約(一部)〕
(加工された物質としての実践的惰性態)の水準にあっては、いかなる特定の歴史的社会の経済機構にも還元できない「原始的疎外」なるものを摘出することによって、人間疎外のおよぶ射程はどの範囲のものか、社会主義社会でも疎外はありうるか(…)などを問題にし得る基礎的地平を開きえたし、また、歴史の法則性なるものを疎外論から把握してゆくことによって、史的唯物論を実証主義的にではなく弁証法的に構成する使命を真に果たすことができた。
つぎに、(社会的存在としての集合態)の水準では、社会的存在または階級的存在を惰性的な集合態として捉えることによって、ブルジョワデモクラシーの礼賛論やプロレタリア革命の「自然成長性」論などに痛撃を加え、(…)大衆社会論の射程をはかる理論的装置を準備することもできた。
最後に(集団的実践)の水準においては、革命的実践集団を社会力学的に研究する道を拓くことによって、マルクス主義が単に資本主義社会のみならず共産党および既存の社会主義社会そのものを、つまり自己自身を研究対象とすることがはじめて可能となり、かくして結局、以上の(…)構造的 = 社会主義的人間学の総体をもってして、史的唯物論は「社会学的研究の落丁」という積年の貧血症から快癒する方途を、己の基礎理論そのものという最深部において準備することができるようになった。
以上のように、人類史の未来をも理解可能にするような形で、史的唯物論を哲学的に基礎づけ再構成していくことが『批判』の意図でありかつ意義であったと考えるのです。
C問題はそこから先です。残念ながら、20世紀を代表する優れた知性の持ち主であったサルトルは、IBM PC が発売される2年前、画期的な通信プロトコル TCP/IP の実用化により Worldwide Web が世界中に張り巡らされる10年前に世を去りました。
D問題は竹内氏も含めてサルトル研究者を自認する人達が、サルトル主義という古色蒼然たるドグマにしがみつき、「弁証法的理性批判」をもう一段階 Transcend して第三次産業革命の時代にふさわしい理論を構築することなど考えてもみないということにあると思います。
さて、Dについてですが、「サルトル主義という古色蒼然たるドグマ」にしがみついていたとしたら、『国家と文明』や『具体的経験の哲学』の諸論文(竹内芳郎)、『サルトルとマルクス』(北見秀司)で展開された諸論考は生まれなかったでしょう。いずれも、サルトルやマルクスの思想をこの「現代の新たな状況」と格闘しつつ「その現実を踏まえて鍛えなおしていく試み」だったと考えます。(北見秀司の場合は、現実に即してサルトルとマルクスを再解釈したもの、といった方がいいかもしれません。)
ただ、Yさんとしては「Worldwide Web が世界中に張り巡らされ、一気に進行した「情報革命・第三次産業革命」を踏まえて、根本的な理論的再構成が行われていないことが不満なのでしょう。
しかしながら、私自身は個人的にHPなどを作成してはいるものの、「情報革命・第三次産業革命」を過大評価すべきでないと考えています。
情報技術というのもあくまで「人間によってつくられ、存続(発展)していく技術」であり、基本的には「実践的惰性態」の一契機ではないか、というのが私の見方です。したがって、それはある場合には人間の個人的・集団的実践によって活用され、乗り越えられる契機であると同時に、別の場合には人間を支配し疎外する契機にもなる、と考えるのです。もちろん、新しい技術であるという意味では、新しい仕方で活用され乗り越えられる、新しい仕方で人間を支配・疎外する、ということになるわけですが、以下、具体例を挙げながら述べてみます。
1)「個人的・集団的実践によって活用され、乗り越えられる契機」という側面
事例@「自然Energieに関する総理・有識者open懇談会」
上記懇談会は2011年6月12日に開かれた注目すべき企画で、その現場はinternetで中継、誰でも視聴できるだけでなく、twitterを通じて多くの人たちが菅首相や問題提起者に対して自由に質問や意見を出し、会議に参加できるようになっていました。
つまり、現総理に直接意思表示しつつ〈公論〉を形成していく〈直接民主主義〉=〈参加民主主義〉を垣間見せる画期的な取り組みだったのです。(『討論 野望と実践』1131頁でも紹介)
これは、直接民主主義を実現する上で、IT技術が有効に活用されている実例であり、このような取り組みは引き続き追求していくべきであろう、と考えています。
事例A 反原発demo
一時期は参加者20万人にも達したこのdemoは、twitterをはじめとするinternetの情報を媒介にして多くの人々が集まった取り組みで、IT技術が〈直接民主主義的〉な運動に直接つながっていた例です。
このような事例@、Aは近年の動きですが、「IT音痴」である竹内芳郎が(1972年段階で早くも)直接民主主義の技術的条件として近代技術とくに情報技術の駆使を挙げていることは事実として押さえておいていいでしょう。(『国家と民主主義』35頁)
2)人間を支配し疎外する契機にもなっている側面
ところがこのような技術の発展も、「資本の論理」に貫かれている限りにおいて、多くの人間を支配・疎外する主客転倒状況の「歯止め」になっていないことも残念ながら事実です。
事例@ IT技術の発展は、いち早くトフラーが予兆していたように、「在宅」で仕事をする「特定企業に属さない労働者」を数多く生み出しましたが、例えばPCによって作り出された「作品」が買いたたかれ、恐ろしく低い価格で売買される「価格破壊状況」や、企業から仕事の依頼がなされた場合、相当に条件の悪い無理な依頼であっても断れない状況が次々に生まれています。
IT労働者の貧困を生み出す、中間搾取:「IT派遣」の全面禁止を!
事例A 米国の例 (NHKスペシャル ワーキングプアV:「紙屋さんのHP」より)
(番組で)アメリカは「日本よりもワーキングプア問題がすすんだ」国として紹介されていた。それは、先ほど述べたようにホワイトカラー層もあっさりとワーキングプアに転落していくからである。
番組で追っていたのは、銀行のシステム管理にかかわっていたIT技術者(プログラマー)、ブライアン・ラフェリーさん(46)だった。
彼は700万円の借金を負って大学に入り、IT技術を習得。年1000万円の収入を得ていたようなまさに「勝ち組」だった。しかし、その部門がインドへ移転してしまったことにより失職してしまうのである。(・・・)
借金をして大学に入り高い技術の持ち主として働いていた人間が、グローバル競争の波に洗われて、インドに仕事を奪われ、いとも簡単にワーキングプアに転落してしまう様を克明に描き出している。
以上のように、(人間を利潤追求の手段にしてしまうという)資本制生産様式の本質が根本的に変わらないからこそ、「働く貧困層」の拡大が未だに解決できない問題として存在しているのではないでしょうか。『資本論』が2000年代に入ってから欧州や日本で盛んに再読されている背景もそこにあると考えられます。
さて、「共産主義者と平和」の中で、サルトルの挙げている下記資料中のタイピストが、現代のIT派遣労働者(あるいは特定企業に属さないIT労働者)と重なって見えるのは、私だけではないと思います。
ある雇い主がタイピストを一人募集する。(・・・)同じ能力、同じ資格免許状を持った30名が応募する。雇い主は彼女たちを一度に召集し、彼女たちが望む報酬を彼に知らせるよう、ただ頼めばいい。そうすれば恐ろしい逆ゼリがおこるだろう。雇い主は―うわべは―需要と供給の法則が働くようにしただけだ。がタイピストは皆、最も安い賃金を望むことで、他人にそして自分自身にもまた暴力をふるい、屈辱の中で労働者階級の生活レベルをより引き下げることに貢献する。結局、最低生活費より少ない報酬、すなわち自分自身を含めた皆に破壊的作用を及ぼす報酬を望む者が雇われることになるだろう。
しかも雇い主は、そのような破壊的行為を彼自身が振るうことはしないように努めているのである。(以上)
事例B internetのmaleによる上位下達の官僚制的支配の強化
官公庁、民間企業を問わず、よく聞こえてくる言葉として「PC導入後、確実に仕事が増えて厳しくなった」というものがあります。PCのmaleが、上からの命令を数多く効率よく「指示」していく手段として多用されているためです。結果として官僚制的な上からの統制はより効率化され、強化される傾向があります。
以上のように見てくると、『具体的経験の哲学』(1986年)「〈産業社会〉超克の課題とマルクス」の竹内氏によるトフラー(『第三の波』)批判は、概ね妥当であろうと考えるのです。
現代を解明するためには、「情報革命」や「実践的惰性態としての情報技術」を射程に入れることは当然必要であるにしても、私は、以前ご紹介した拙論文「市場原理主義と社会主義 『国家と文明』を中心に」の論旨(市場原理主義や、「資本の論理」をどのように相対化し歯止めをかけていくのかという方向性)を根本的に修正する必要はないのではないか、と考えているのです。