Yさんからの質問  その1(一部)

実のところ、「弁証法的理性批判」について貴兄のご見解をうかがいたい問題点というのは、貴ウェブサイトへの投稿にも書いたとおり、ただ一点、以下のように集約されます。「各国のサルトル研究者、殊に竹内氏のような日本のサルトル研究者は一体、弁証法の意味を理解しているのだろうか?」 

釈迦に説法になりますが、サルトルの「存在と無」は、いわばカント等の観念論とベルクソンの形而上学を止揚する試みであったと思います。その17年後に出版された「弁証法的理性批判」で試みられたのは、自身の実存主義とマルクスの弁証法的唯物論を弁証法的に止揚することでした。

ここで重要なことは、マルクスが「資本論 Vol. 1」の土台となった「政治経済学批判」を書いた1850年代後半は、第一次産業革命が成熟期を迎えていた時代で、第二次産業革命はまだその揺籃期にありました。

その意味で、私は、「弁証法的理性批判」は「政治経済学批判」に代表される弁証法的唯物論を第二次産業革命がもたらした産業構造の変化に対応させる試みだったと言えると考えています。問題はそこから先です。残念ながら、20世紀を代表する優れた知性の持ち主であったサルトルは、IBM PC が発売される2年前、画期的な通信プロトコル TCP/IP の実用化により Worldwide Web が世界中に張り巡らされる10年前に世を去りました。 

サルトルの死後20年以上経過した現在でもウェブ上には、欧米を中心に「サルトル・ファン・クラブ」的なサイトが数え切れないぐらい存在します。いつの時代にもこのように軽薄な Cultists は後を絶たないのだから、この際彼らのことはどうでもよいのですが、問題は竹内氏も含めてサルトル研究者を自認する人達が、サルトル主義という古色蒼然たるドグマにしがみつき、「弁証法的理性批判」をもう一段階 Transcend して第三次産業革命の時代にふさわしい理論を構築することなど考えてもみないということにあると思います。「弁証法的理性批判」を初めて日本に紹介した当の本人が弁証法の何たるかを理解していないのです。

 

〔Yさんの質問の趣旨をまとめると、以下のようになるであろう。「情報革命の進行」という新たな現実を踏まえて『弁証法的理性批判』の理論的再構成が必要になっているのではないか。新しい現実に直面したとき、新たな段階へと自らを発展させる理論こそが弁証法であり、日本のサルトル研究者は『批判』を文字通り弁証法的に再構成する仕事が必要だったにもかかわらず、それを怠ってきたのではないか、ということ。〕 

この質問への応答 

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