コスモスとカオス的存在の弁証法

 

 2013年3月10日、文化人類学者の山口昌男が死去しました。

 私は、それほど熱心な読者ではなかったのですが、学生時代、竹内芳郎の『文化の理論のために』と並行して三冊ほど読みました。 

 内容を理解するにつれて、差別の問題や権力の問題が見えていくような感覚を覚えたものです。

 大学三回生のころのレポートが(黄ばんだ状態で)残っていました。よろしければご一読ください。

〔転載〕

 山口昌男の構造論的文化論について、私なりにまとめると以下のようになる。

 「文化とは、無定形の自然に、絶えず新しい秩序を与えることによって成り立つ」@

 そして、文化の次元での秩序形成は、生物学的次元でのそれとは異なり、意味形成の作用(=人間の周りをとりまく事象に記号をつけつつ、それを類に分ける意識の行為)によって達成される。A 文化とは、このような意味形成作業を通じて秩序(コスモス)と無秩序(カオス)との二つの領域を区別し整除する体系だ、ということができる。 

 

 秩序の形成には光、善、理性等の積極的価値を有するものが属し無秩序の領域にはやみ、悪、非理性等の消極的価値を有するものが属する、といった具合に文化の体系は「相反対立構造」を形成しているのである。そして、秩序と無秩序、あるいは中心と周縁の区分をどのように行うか、ということによって各文化の相違が発生する

 

 以上のような区分、分類のメカニズムによって人間社会の周縁に押しやられた反秩序(カオス)の人格化したものがトリックスターである。

 トリックスターには、異邦人、少数民族、女性、障害者、被差別民、道化師等のさまざまな形態がある。

〔彼らは、秩序が自らを確立するために中心から排除したスケープゴート(生贄の子羊)だ、ということもできる〕

 

 そして、このカオス的存在(トリックスター)は両義的な性格を持っている。それは、一方では秩序に対する脅威として排除されるのであるが、他方では活力を失った(ひからびた)秩序を賦活・更新するために必要なものとして要請される。カオス的存在はケガレでもあれば聖なるものでもあると言う二重性格を持つのである。

 

 山口理論に対する以上のような概観から出発して、秩序(コスモス)がどのようにカオス的(トリックスター的)存在とかかわるのか、ということを検討していきたい。

 「人間は悪の形象なしに、自分の内なる統合感覚を得ることはできない。(・・・)中心をつくり出し、できるだけ象徴的にこの〈中心〉近くに身を置き、〈中心〉の対極概念である〈周辺〉を遠ざけなければならない。(・・・)しかし、同時に人間は、単調さ、不変であること、同じリズムで繰り返される生活のパターンに耐えることができない。(・・・)そうすると日常生活の価値体系はしだいに脅かされてくる。(・・・)なんらかの形を〈周辺的〉な事物に与えて、この事物の活力をこの世界に導入しなければならない」Bと。

 

 つまり、秩序(中心)は周辺的(トリックスター的)存在を排除することによって成立するが、一度成立した秩序はその惰性化、活力喪失のゆえに、再創造を必要とし、そのために周辺的存在を導入する、というわけである。

(このため、カオス的存在は、秩序の側からみて、けがれたものでもあれば聖なるものでもあるというあの二重性格をもつにいたる。)

 このようにコスモスとカオスの弁証法が展開されるわけだが、はたしてそれはいかなる社会においても同様の形態を持つのだろうか。

 例えば未開社会(歴史なき社会)と文明社会(歴史社会)とを比較した場合、秩序とカオス的(トリックスター的)存在との関わり方そのものが異なってくるのではないかと思われるのである

 

 山口はこの差異についてあまり問題にしていないようであるが、歴史社会は〈異物嘔吐型〉、歴史なき社会は〈異物吸収型〉という傾向があるのではないかという簡単な指摘Cを『知の遠近法』の中で行っている。

 すなわち、歴史社会においてはカオス的存在をひたすら排除する傾向があるのに対して、歴史なき社会ではカオス的存在を吸収する傾向がある、ということであろう。簡単ではあるが、的を得た指摘だと思われる。これを延長する方向で考察してみよう。

 〈異物吸収型〉の未開社会(歴史なき社会)においては、カオス的存在に対する許容度が高く、秩序(コスモス)もさほど固定的なものではなく、比較的スムーズにカオスへとたちもどることによって秩序の周期的な再創造が行われ、それが既成秩序の破壊、歴史の形成につながらない、ということが言えよう。

 

 竹内芳郎が指摘するように、〈国家と文明〉の成立以前にあっては、カオスへの許容度が高いと同時にカオスへの郷愁は比較的少ないということ、〈未開〉社会においては一般にカオス=コムニタスが通過儀礼によってあらわれ、それが俗世界のノモスを変革するよりはむしろ周期的に更新するにとどまるということD が言えるように思われる。

 ところがこれに対して、「国家と文明」成立以後の歴史社会においては、公権力、国家権力を中心に強固な秩序が形成され、カオス的存在(社会のはみ出し者、ルンペンプロレタリア、被差別民等)に対する排除と抑圧が激しくなりそれゆえカオスの復権は、しばしば抑圧された人々による既成秩序への反乱・革命という形をとる

 

 「〈国家と文明〉成立以後になると、この〈熱い社会〉における身分または階級の峻烈な制度化に対する怨恨から、カオス=コムニタスへの郷愁が激しくなり、ためにそれへの回帰が既成ノモスの変革を志向するようになる」Eというわけである。

 以上のように、大まかには、カオス的(トリックスター的)存在に対する秩序(コスモス)のかかわりかたが〈異物吸収的〉であるか〈遺物嘔吐的〉であるか、ということが、歴史なき社会と歴史社会との差異を形成する大きな要因だ、と言えるのではないか、と思われる。

 

(註)

@山口昌男『文化と両義性』(岩波書店) 95

A     同 上          9596

B山口昌男『歴史、祝祭、神話』(中公文庫)9091

C山口昌男『知の遠近法』(岩波書店)  269

D竹内芳郎『文化の理論のために』(岩波書店)306307

E     同 上             307