「北海道報告と静岡報告を読んで」

                                  

 「高校生活指導」110号に掲載された「私たちの問題意識」(北海道高生研常任委員会)及び、112号に掲載された「私たちの問題意識を読んで」(高生研静岡支部常任委員会)という、二つの支部の主張に対して、私個人の見解を述べたいと思う。

1、静岡報告に対する疑問

 教師の権威を問いながら教師が「断固として要求する」その根拠は何なのか、あるいは要求の「正当性」はどこにあるのか、という問題を投げかけ、我々の「内なる校門」を打ち崩すべきだ、と主張する北海道報告に対して、静岡報告は、以下のような見解を述べている。

 「実践の場面で問題なのは、要求の「正当性」よりも要求の目的なのである。」

(93ページ)教師の要求の「正統性」(社会的に認知されたもの、としての性格)は、「学校教育という公的な制度」からくるものである。「教師の人格,生きざま」だけを抽出して「指導の権威」や「実践」について論ずるのは危険である。(94・95ページ)

 このような静岡支部の見解は、それ自体としては、常識的に理解しやすいものであり、ことさら反論する必要もなさそうにみえる。だが、これを、北海道高生研の「私たちの問題意識」に対する見解として見るならば、疑問を感じないわけにはいかない。

 どのような疑問なのか。そもそも静岡支部の見解は、「私たちの問題意識」と充分にかみあっているのか、実は北海道高生研が提起した問題の重要な部分が見逃されているのではないか、という疑問である。

2、北海道報告の核心

 それでは、北海道報告は、一体何を訴えているのか。最初の一章と、末尾の二行を読んだかぎりにおいては、その問題意識の中心が、我々の「内なる高塚高校校門」を見すえ、それを打ち崩していくこと、であることは、疑い得ないように思われる。事実、89ページには、次のような文章がある。「教師が「生徒のため」と思いこんでいることが、必ずしも「生徒のため」になるとは限らない。それに気づかぬことが、私たちの「内なる校門」だとすれば、間違いなく、私たちの「内なる校門」は、広くかつ不断に、私たちのなかに、再生産されています。(・・・・)私たちは、しかもそのことに気づかず、「支配者」としての高みから生徒に「断固たる要求」を突きつけ、生徒が動いてくれないとグチを言っているようなことが少なくないのでした。」 この文章に見られるように、我々は、自らの「内なる校門」に気づかないまま、知らず知らずのうちに「支配者」として生徒に対しているのではないか、という問題を北海道報告は提起しているのである。言いかえるならば、それは、「支配者」としての自己に埋没してしまわないために、我々は、自らの「内なる校門」を見すえていかなければならない、という主張なのである。提起されたことがらの全体は、この主張にそって理解されるべきであろう。

3、指導の「正当性」「目的」「価値」を疑う

 それでは、「内なる校門」を見すえる、というのは、どうしていくことなのか。北海道報告が提起することは、第一に、我々が生徒に対して行う「指導」や「要求」の「正当性」について(さらには、おそらく「教えるべき者」としての自己自身の立場についても)徹底的に疑ってみることである。そして、そこには常に疑わしい部分が存在することを自覚することである。

 静岡報告は、この提起に対して、「実践の場面で問題なのは、(指導や)要求の「正当性」よりも要求の「目的」なのだと、主張する。だが、この主張は、北海道報告を充分に受け止めていないように思われる。なぜなら、北海道報告のなかで、「疑うべき」とされている対象は、指導や要求の「正当性」だけではなく、指導において目指すべき「価値」や「目的」(例えば「一人はみんなのために、みんなは一人のために」といった人間関係をそだてていく)をも含んでいるからである。そこで主張されていることは「要求」の「正当性」にせよ、めざすべき「価値」や「目的」にせよ、それらは「科学」によっても(「制度」や「権力によっても)根拠づけられない、ということであろう。だが、それにもかかわらず、現実の指導が、なんらかの「価値」や「目的」を目指して行われているとすれば、それらはどこからくるのか。結局、個々の教師自身が、具体的な指導に向けて自らが目指すべき「価値」や「目的」を選び取っているのである。「教師は、自己自身の「価値」を持ってたたかっていくほかはない」(103ページ)という北海道高生研の提起は、そのように理解するべきであろう。

4、「一個の人間」としての「呼びかけ」

 以上のように、要求の「正当性」、指導の「目的」が絶対的な根拠をもたず、「価値」は個々の教師が選び取っていくものだとするならば、このような「価値」を他者(ここでは生徒)とともに共有していくための営みは、一個の人間(教師)から対等な他者(生徒)に向けての「呼びかけ」という性格をもたなければならない。(そして、この呼びかけは、ある場合には「哀願」という形で、またある場合には「説得」や「討論」という形で、またべつの場合には相手の自由を前提とした、「要求」という形で実現されるであろう。)

 北海道報告の中では、大関実践が紹介されているが、およそ教師らしくなく、生徒からもまるで「仲間」であるかのように見られている大関さんが、クラスに向かって「哀願」する場面はこの性格が際立っている。すなわち大関さんは、自分の「指導」の「正当性」を確信して「断固たる要求」をするのではなく、また、「教えるべき者」という教師としての立場に依拠するのでもなく、あくまでも「一個の人間」として、生徒たちに「呼びかけ」を行うのである。そして、我々が「支配者としての自己」に埋没しないためには、このような「一個の人間」としての「呼びかけ」をこそ大切にするべきだ、というのが「私たちの問題意識」の中心ではないか、私には思われる。

5、「制度としての学校」

 とは言え、我々が生徒を指導し、要求するに際して日々「教師としての立場」に依拠しているのもまた、事実である。その意味では教師の要求「正統性」(社会的に認知されたもの、としての性格)は、「学校教育という公的な制度」からくる、といった静岡支部の主張は、充分に納得できるものであり、そのことを無視するならば自己をごまかすことになるであろう。

 だが、そのことは当然の前提として確認するにしても、そもそもこの社会における「制度としての学校」とはいったい何なのか、この「制度」によって支えられている我々「教師」とはいったい何なのか、という問題を避けて通ることはできないのではなかろうか。我々が「支配者」「権力者」としての自己に埋没しないためには、「制度としての学校」を問い続けることこそが必要だ、と思われる。

 会員通信でも引照したが、Pアンダソンによれば、発達した市民社会を持つ高度資本主義社会においては、権力とは、市民社会のあらゆる分野(教育・経済・文化・情報・軍隊・官僚・司法など)に無数のミクロ的諸組織をはりめぐらせている社会関係の総体なのだ、という。言いかえるならば、教育機関をふくむあらゆる分野に、権力を維持し、安定させるようなしくみが、組み込まれているのである。このような状況のなかで学校は、このミクロ的諸組織・制度の一つとして、権力や社会を安定させるべく、子どもたちを社会に順応させていく、という役割を担っている。つまり、権力機構・支配機構の一翼を、学校は担っているのである。そして、あらゆる分野に「競争原理」が貫徹させられているこの社会の中で、「制度としての学校」は、子どもたちを学力競争(及び「秩序」への忠誠競争)にかりたてていく、という役割を現実に果たしている。そのような意味において、「制度としての学校」は、子どもたちを支配し、彼らの具体的生活体験を疎外する、という側面を確実に持っているのである。 だとすれば、静岡報告のように、「学校制度における教師の指導という役割」(94ページ)をそのまま無邪気に肯定することはできないのではないか。我々が無自覚なままで「制度としての学校が保障する“教師としての立場”に安居してしまうならば、“支配者”としての自己に埋没してしまうことになるのではないか。北海道報告は、そのような問題をも含めて、我々に対して提起しているように思われる。

 ここで、北海道報告が、なぜ大関さんという、およそ先生らしくない先生を登場させたのか、もう一度考えてみたい。もし彼女が、「教えるべき立場」に全面的に依拠し「教師」らしい態度で、天狗山登山を「断固として要求」したとすれば、「不満げな顔の生徒がいなかった」などという状況が生み出しえたであろうか。おそらく答えは否である。それはなぜか。生徒たちは、一方では「制度としての学校」にとらわれながらも、他方では、それが自分たちを支配し、疎外するものでもあることを、体験そのものによって感じとっている。そのような生徒たちが、我々の中の「教師くさい部分」「学校くさい部分」、もっと言えば「制度」の中に安居する「支配者」としての側面に対して反発するのは当然であろう。大関さんの「哀願」を子どもたちが受け止めたのは、その中に「支配者」の「断固たる要求」ではなく、「一個の人間」としての真摯な「呼びかけ」を感じとったからなのである。

 確かに我々は、「制度としての学校」が保障する「教師としての立場」に日々依拠している。だが、学校制度が保障する「教える者−教えられる者」という関係そのものを疑い、問い続けることによって「支配者」としての自己に埋没しないこと、自己自身の「価値」を持ち、一個の人間として自分を出しながら、対等な他者(生徒)に対して「呼びかけ」を行い続けること、それこそが大切なのではないか。教師としての「生きざま」を重視する北海道報告もそのような観点から理解するべきであろう。それは決して「指導」の問題を「生きざま」の問題に解消することではないのである。

 以上「内なる校門」を見すえ、それを打ち崩していく、という問題意識にそって、自分なりに北海道報告を読み取る方向で、私見を述べてきた。「要求」とは「個人的なもの」である、という主張の一面性など、細部について異論がないわけではないが、提起そのものの重要性は、しっかり受け止めたい、と考えている。