2015.03.28

 

報道機関の在り方を問う

 

 12月の拙ブログ記事で以下のような國分氏の指摘を取り上げそのままにしていましたが、その主張はますますリアルなものとして迫ってきているようです。

 「こんな話をしたのは、確実に何かが次第におかしくなってきているが、日常は続いているというこの状態がまさしく今の日本に当てはまると思われたからである。私はいま、日本が少しずつおかしくなってきていると感じている。現在の政府は、この1年あまり、歴代の日本政府であれば「さすがにそこまでやるのはマズイ」と判断して自制したであろう政策や法案を次々と実現させている。しかも、マスメディアに圧力をかけ、広告代理店の知識を使って世論を導き、政府批判が忌避される雰囲気を作り出している。(・・・)」

 

 確実におかしくなっているかに見える状況。なぜ歯止めがかからないのでしょうか?

 海外のジャーナリストたちは、日本の報道機関が権力をチェックするという機能を失っているのではないかと指摘しています。

 

 日本で「政権批判報道の自粛」ムード拡大? 海外メディア懸念

 国内でもかろうじて地方メディアを中心に政権への批判的な視点が提示されてきました 

 「安倍政権の顔色をうかがう日本のマスメディア」への批判報道相次ぐ

 

  しかし、何よりも私たち自身が「知る権利」をもっと強く主張すべきではないでしょうか?

 書いてからずいぶん経過してしまいましたが、去る2月1日、私があるコラムに投稿した文章を転載しておきますね。ご一読いただければ幸いです。

 

〔コラムの文章〕

 

 最悪の結果となった「イスラム国人質事件」。報道には当初から強い違和感を覚えた。とりわけ事件が公表された初期、マスコミは政府の広報機関のように「発表報道」を垂れ流した。政府対応を支持する国民はなんと6割。戦時中の大本営発表を連想させる。

 

▼昨年十一月には拘束されていた湯川さん・後藤さん。有効な対応もできないまま、なぜ首相は緊急性のない中東訪問をし、「相手」を挑発するような会見をしたのか。確かにイスラム国の行為は許せない。しかし、この団体を生み出した背景には、日本政府が全面的に支持を表明したイラク戦争がある。

 

20065月、NHKの「その時歴史は動いた」は、現地を取材し、ベトナム戦争の真実を伝えようとする報道機関と米国政府との対決を描いていた。戦争の発端=トンキン湾事件の真相を暴露(機密文書をスクープ)した報道機関と政府との対決は連邦最高裁判所に持ち込まれる。

 

▼「報道機関は政府に奉仕するのではなく、国民に奉仕するものである」。判決は下され報道機関が勝利、ベトナム戦争は終結する。だが、この番組の終盤、湾岸戦争・イラク戦争時の政府による情報統制(政府は軍事施設へのピンポイント爆撃の成功映像を意図的に流し、この戦争はクリーンな正義の戦争というイメージ操作を行った)が浮き彫りにされていく。

 

▼「知る権利」がいかに重要なものか、歴史は多くの教訓を残している。報道機関の健全さに疑問を持った時、我々はこの権利を強く主張するべきではないか。「政府発表の背景にある事実を調査・検証せよ、」と。

 

現在も、そして今後も、私たちは報道機関を監視しながらこの「知る権利」を主張し続けることが大切ではないでしょうか。

 

 

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