生きづらさをかかえた生徒から学校を見直す

〜「特別支援」からはじめる学級・学校づくり

 

18歳を市民とする学校とは、どのような学校だろうか。個性ある多様な生徒が市民として受けとめられ、市民として成長できる学校である。それは、生徒も教職員も「豊かさや喜びを予感」できるような学校づくり・学校変革によって実現されていくのではないだろうか。

 

1.はじめに

 

発達障害を抱えるAが入学したときに、もう一人支援の必要な生徒として性同一性障害が疑われるBが入学してきた。特別支援コーディネーターとして私は、この二人が本校に入学してきたことに、ある希望を抱いた。これを機に発達障害の生徒や性同一性障害の生徒など、様々な生徒が生き生きと生活できる学校を作りたい、というものである。このような生徒たちが伸び伸びと生活できる学校であれば、誰にとってもきっと居心地の良い学校になるであろう、そんな期待があった。しかし、残念ながら、Bはスカートをはくと気分が悪くなるため、まず制服が障害となり、5月早々に転校していった。そのため、私の中では、Aだけは何とかこの学校にいてほしい、Aが居られない学校、Aが排除される学校にはしてはならないという思いが強かった。

 

「Aから学ぶ姿勢でやっていきましょう。」と4月初めの職員会議で呼びかけたが、このことばを少し奇異に感じた人もいたかもしれない。言った本人ですら、その意味を明確にわかっていなかったが、Aの特性をまず理解し、Aの困っているところから出発したい、という思いであった。

 

「『特別支援』からはじめる学級・学校づくり」を模索することを通して、教職員個々の姿勢を問うと同時に学校のあり方を問い直していく「新しい学校づくり」の展望が見出せるのではないか。本基調では、「発達障害のある生徒から学ぶ」ことがなぜ他の生徒にとっても居心地のよい学校づくりにつながるのか、ということを明らかにしていきたいと思う。ここでは、障害、とりわけ「わかりにくい」障害である発達障害のある個人が抱える「生きづらさ」をともに考え(受け止め)ながら、学級・学校の変革を目指した実践「Aから学ぶこと」を中心にとりあげ、それを通して問題を提起したい。

 

2.実践の概要「Aから学ぶこと」

 

「アスペルガー」及び「ADHD」と診断されているAが入学し、私は特別支援コーディネーターとしてAに関わってきた。まずAの特性などの情報を中学校の担任から聞き取り、「Aから学ぶ姿勢でやっていきましょう。」と4月当初の職員会議で話した。しかし、入学後トラブルは続出した。昼休みに教室でBとぶつかり、Bが「こういうときは謝るのが常識だ。」と言い、興奮したAがBを殴ってしまった。このときにはクラス委員長のCが二人に割って入り、黒板を使って時系列にAとBの問題を整理して、互いに謝らせたことがあったと担任から聞いた。(注1)

 

しかし、この件は私には何も聞かされないまま、学年主任訓戒という処分になった。このようにトラブルを学年で処理することが続いたため、何回目かのトラブル(教科書投げつけ事件)のときに、生徒指導部長に「この生徒を処分するのは適切ではないと思います。まず、私にAと話しをさせてください。」と話し、初めて対面することになった。

 

面談する前には、養護教諭と作戦を練り、特性に合わせてどのように話を進めたらいいか、相談した。面談では、学校生活全般についていろいろ聞きながら、本人の口から困っていることを聞き出していった。ホワイトボードを使い、発言を書きながら整理をし、褒めるポイントも探しながら聞いていた。この面談には担任も同席していたが、Aがいつもの攻撃的な話し方ではなく、穏やかな話し方だったため「マジックです。」と言われた。彼は「常識、普通・・」などの言葉に反発するのだが、彼の発言を引き出していけば、こちらの考えを押し付けることはないことに私も気づいた。

 

ところが、9月の体育祭の片付けの後、クラスの生徒たちが教室で記念写真を撮ろうとしたところ、Aが「片付けが終わって、何もないところで写真を撮る意味がない。」と発言し、写真を撮ることを嫌がり、カメラの前に立ちはだかった。そして、「撮りたくなければはずれていてもいいよ、」がだんだんエスカレートしていき、「出て行け、」「死ね、」などの激しいことばの言い争いになっていった。このとき、Aは障害に対するからかいを受けたと感じ、机の上にあったハサミを手にし、「ここでみんなを殺さなければならない、」と言った。Aとしては威嚇のためであったが、危険に感じた4、5名の生徒が取り押さえようとして、もみ合いになったとき、Eが怪我をしてしまった。

 

その後、別室に入れられたAと対面したときには、かなり興奮しており、教頭が「お前も努力しろ」などと発言したため、「今までどれだけ努力してきたと思っているんだ。まだ(多数派の)お前たちに合わせろと言うのか」と泣き叫んだ。Aは翌日から自宅待機となり、主治医と相談しながら対応を考えていくことになった。医師が同席したケース会議では、「ルール作り」を教員と行いながら限界設定をしっかり作り、障害を開示して周囲にヘルプを出せるようになれば彼はやっていけるだろうということ、クラスが彼を排除せず受け入れられる集団になることが誰にとっても居心地のいい集団になること、などのアドバイスがあった。  

 

Aとのルール作りは私が中心になって行い、「絶対に暴力をふるわないで、学校生活に参加できるようになること」をAの目標に定め、暴力とは何かから確認していった。

丁寧にルール作りをした後、復帰にむけて保護者会を開いた。医師も同席し、Aの母親からは障害名をオープンにしてもらい、医師が発達障害について説明をした。学校側からは教頭が説明をしたが、事件について詳しい説明がなく「障害のある生徒だからご理解をお願いしたい。」ということを繰り返すばかりでその場を治めようとする意図が見え見えだったことから保護者からは「一方的だ。」との批判を盛んにあびた。保護者の意見は「アスペルガーは恐い」、「A以外の生徒へのケアをしてほしい」、「障害があるなら進路変更してほしい」などの意見が相次ぎ、医師からは「アスペルガーの人が暴力的であるというのは偏見です。」との発言もあったが保護者会は長時間に及んだ。

 

結論としては、クラスの生徒に面談を行い、保護者にもアンケートを行い、不安に思っていることを明らかにして、それについて対応を考えていくことになり、Aの復帰は先のことになった。

 

その後の生徒の面談とアンケート結果からは、授業妨害と暴力行為への不安が多く語られていた。復帰には反対の意見が多く聞かれた一方で、「クラスの一部や他のクラスには、彼を面白半分にからかっている者がいる。」というのも幾つかあった。保護者アンケートからは「恐ろしい、心配、」といった反対意見もあったが、「復帰を応援したい。」「彼を排除した経験ではなく、一緒に苦難を乗り越えた経験をさせたい。」といった復帰に賛成の声も聞かれた。

 

クラスでは、Aの復帰前に自分たちだけで話し合いをしたいという強い意見があった。そこで、クラスの話し合いをする前に、私と担任から話をした。私からは、Aの暴力行為は障害からくるものではなく、コミュニケーションが上手く取れないことからくる二次障害であり、コミュニケーションのとり方を身に付けていけばいいこと。わがまま、自己中心的と思う人もいるかもしれないが、これは彼の性格ではなく、周囲の状況や相手の感情を読み取ることが苦手であるという、障害の特性からくるものであること、など障害の特性を伝えた。担任からは、あの事件を振り返ってみると彼に対して、「死ね。」「出て行け。」など人として許しがたい発言があったことは事実であり、もちろん暴力は絶対に許してはいけないが、彼だけが悪者になるのはおかしいのではないか。「からかい」や「わざとイライラさせていた」こともアンケートから事実として出てきている。事件が起こる前と比べれば学校としても体制を整えたから、もう1回チャンスを与えてもいいのではないか、と話した。

 

その後、生徒たちだけで話し合いが行われ、教師とAだけでルール作りを決めてしまわないで、「自分たちもルール作りに関わりたい。」と担任に要求した。そして、早速C、D、Fの三人がAとのルール作りに参加することになった。

その日に行われた2回目の保護者会には、担任の強い要望から校長も同席することになり、アンケートや聞き取り調査の結果の報告、Aとのルール作りの報告などを行った。保護者からは依然として、学校の決定は一方的であり不安は解消されていないとの反対の声があがり、厳しい意見が続いたが、怪我をしたEの母親の発言が会議の流れを変えた。息子が怪我をして帰ってきたとき、「Eは決して乱暴な子じゃないから、絶対に大ごとにしないでよ。わざとじゃないから、心配いらないよ。」と話してくれ、「自分は本人をよく知らないが、息子の言う事を信じます。」と言った。他の保護者からも復帰させてみましょう、との意見が相次ぎ、復帰することになった。

 

復帰してからは、毎日放課後に振り返りの時間を持ち、授業の様子を聞き取り、「困ったこと」「良く出来たこと」「学校や先生方への要望」などをシートに書き込み、教員が聞き取ったシートは授業担当者の間で回覧している。この振り返りシートは彼の特性を理解する貴重な情報源にもなっており、情報の共有化に役立っている。また、このシートを使って、良くできたことを意識させ、学校にヘルプを出していいよ、というメッセージを送っているつもりだ。

 

教員は「チームA」という名前を作り、週一回対応を話し合ってきた。チームAは、担任、副担任、教頭、養護教諭、コーディネーターで構成されている。Aの母親は、最初の保護者会で復帰に反対する声が多かったことが、彼を一番変えたのだと言っていた。このままの自分では周りに受け入れてもらいないと考えたようだ。主治医からは現在の様子について「彼は家族以外の人間はすべて敵であると思ってきたが、今は違う。自分を助けてくれる存在だと認識している。」と言っていた。今の彼は、「周りに迷惑をかけないこと」を常に意識していて、少し窮屈そうにもみえる。しかし、彼なりの考えを貫き通しつつ、周囲にも受け入れられる状況を作っていきたいと思っている。

 

3.生きづらさの「共有」へ

 

(1)最初の対話で

 

入学後、周りの生徒とのトラブルが続出したというAであるが、年度当初については学年だけで「対応」が行われていた。早川が初めてAと話をしたのは、「教科書投げつけ事件」の後である。ここでまず注目したいのは、「Aは(暴力を仕方がないと肯定するなど)なかなか自分の主張を変えない」と学年主任から聞かされていたにもかかわらず、早川とAとの間に最初から「落ち着いた対話」、「相互の理解」が成り立っていることである。早川は、「Aから話を聞くときには、ホワイトボードに彼の意見を順に書いていった」。

 

一般的に、発達障害のある個人に対しては「視覚情報を用いて分かりやすく伝える」ことが大切だという。しかし、ここではそのような「表面的な技法」ではなく、「早川がAとやり取りしたことの全体」の意味を確認したい。つまり、このやり取りの中で行われているのは、第一にA自身の現実の体験(およびその体験についてどう考えているか)を丁寧に聴き取っていくことである。そして第二に、そのような体験をホワイトボードに書き出し、整理していくことによって、Aの体験を早川と本人がともに理解し、今後の方向性に関する提案と合意を成立させていることである。

 

そして、早川は事件のことをまず聞くのではなく、学校生活について聞き取る中で、本人が一番困っていることとして「他の人とトラブルを起こしてしまうこと」を聞き出した。生きづらさや困っていることを共有しながら、どうしたらいいのかを考えていった。一緒に考えながら、Aにとってそれまで「対立する存在だった教師」が、「ともに考える存在」になったのではないだろうか。「教科書を投げつけたこと」は「友達と話したかった」からであり、勝手な解釈ではあるが「暴力はダメだから教科書を投げた」という、興奮したときでも抑制の力も働いていることに早川は気づいた。それをきっかけに、どうしたらいいか具体的な方法を考えていった。「友達と仲良くなりたい」「自分をわかって欲しい」という気持ちを理解しつつ、どう行動していけばいいのか、それを話し合っていったのである。

 

(2)職員の気づきと連携

 

まず、Aに対する早川の関わりが、「養護教諭と相談し作戦を練った。」という小さな協力関係から出発していることを強調したい。そして、そこから始まった早川とAとの「落ち着いた対話」、「相互の理解」は学級担任の「マジックです」という驚きを引き起こす。これは「Aは頑固で自分の考えを曲げない、人の話を聴かないと思っていたのにきちんと落ち着いた対話ができるのではないか!」という驚きであるが、それが、早川・養護教諭・担任の緊密な連携の出発点になっている。こうして、早川を中心とする学校づくり・職員集団づくり実践が始まるのである。

 

後に、学級へのアンケート結果に見られた「支援を受けなければ生きていけないやつはダメだ」、という一部の生徒の回答に対して「排除の体質が問題だ」と担任は気づいたという。そのような「気づき」の出発点は、早川とAがやりとりする上記の場面で「普段と全く異なるAの姿」を発見したことである。つまり「理解可能で通じ合うことが可能な存在」としてAをとらえることができたからこそ、担任は「理解しようともしないで排除する体質は問題だ。」と気づくことができたのである。 

 

それでは具体的なAの言動をどのように理解すべきだろうか。「常識」という言葉に対するAの過敏な反応の背景には、おそらく「常識外れの言動のある生徒」として排除されてきた体験がある。これまで「自分は理解されない」という原体験を積み重ね、一方的に「外から」意味づけられてきたAは、意味づけしようとするものをにらみ返したり威嚇する以外の方法を持たなかったのである。しかしながら、早川によってA自身の体験がていねいに聴き取られ、それが整理されていくことによって、Aはそのような「絶望的な認識」から解放され、早川と落ち着いた受け応えをすることが可能になる。「早川と本人のやりとりから担任もそれに気づいた。」ということが、その後の担任のAに対する関わりや「早川との連携」を積極的にしていくことになるのである。  

 

(3)チームとして取り組む

 

早川はまず養護教諭との連携していくのだが、それでも最初は個人で動いてしまっているところがあり、教科担当者は不満をもっていた。授業でのAの言動に担当者は困っていたのである。「Aはわがまま、自分勝手に自分の主張ばかりする。」と理解されていなかった。早川に対してもトラブルがなくならないと、厳しい目が向けられていた。しかし保護者会で学校への批判が集中したことから、チームとしてやらなければならない、と教員の意識が大きく変わっていった。

 

まず、「チームA」が作られ、会議が週1回行われた。そこでは対応を考えたりするだけでなく、Aの考えの面白さを共有したり、成長を発見したりする場にもなっている。そして、早川と教頭、養護教諭はついA寄りの話をしてしまうが、担任はクラスの生徒の思いを代弁し、学年主任は保護者の思いを代弁してくれる。話は思うようには進まないが、多様な考え・視点に立った議論が成り立ち、バランスのとれた話し合いが成立している。

 

また彼の復帰後、毎日振り返りをしているのだが、それならば、ワークシートを作ろうと思い、少しでも良かったことを見つけられるように、「今日、良かったこと、よく出来た事」の項目を意図的に入れた。なかなか自分では良いところを見つけられることの少ないAであるが、「こんな対応が出来たのはスゴイね。」と小さなことでも言葉にして、書き込むようにしている。そして、最後に「学校や先生方への要望やこうして欲しいことはありますか。」と聞いている。これは「ヘルプを出していいよ。」というメッセージである。そして、この振り返りシートを最初は「チームA」だけで回覧していたが、担任の提案で教科担当者全員にも回すことになった。このことによって、教科担当者も自分の授業のどこがAにとってわかりにくかったのか?どこで困ったのか?Aはどのように考えてこの行動をとったのか、などがわかるようになり、これが大きく理解を広げることになっていった。Aの思いを読み取ることで、Aの考えも一理ある、と気づき始めたのである。そしてAの「当たり前を問う」考えを面白いと捉える教員も出てきて、この回覧を楽しみにする人もでてきた。

 

また、彼から聴き取ったことを、意識的に直接担当者に伝えるようにした。「○○先生の授業の説明がとても分かりやすかった。」「この場面で声を掛けてもらって、安心した。」と言っていましたよ、などと伝える。その場で担当者からも彼の授業の様子を聞き、情報を共有し、ともに成長を喜ぶことも出来るようになってきた。また、逆に愚痴を聞くこともあるが、話を聴き取って、Aと担当者がつながる道を探って声を掛けている。「チームとして取り組む」ことは人と人をつなげることであると考えている。思いを聴き取って伝えていくことがここでは大きな役割を果たしている。

 

そして、中でも教頭の変化は大きい。事件直後は「お前も努力しろ。」とAに無理解な発言をし、Aが「(多数派)のお前たちにまだ合わせろというのか。」と泣き叫ぶことになるのだが、Aと毎日のように関わっていく中で、Aが「教頭先生が一番の理解者だ。」と話すまでに変わる。そして教頭も「Aと出会ったことで自分自身が救われた。」とその後話してくれた。Aと関わることで、なぜ教頭は救われたのだろうか。教頭は自分自身もAと似たところがあると感じていたようだ。しかし、思いが共有できたから救われたのではなく、Aの生きづらさを理解し、自分が関わり方を変えることでAも変化していき、Aが今まで出来なかったことが一つひとつ出来るようになり、Aや教員とともに喜びあえる。そんな自分自身の変化に気づいたからではないだろうか。

 

マラソンの練習では、ぶつぶつ理屈をこねながら、それでも教頭が一緒に歩くことでグランドを歩きつつ、Aは走ることへの恥ずかしさを乗り越えようともがいていた。そのAが初めて走る瞬間に立ち会ったのも教頭であり、それを嬉しそうに早川に報告したのだ。入学当初はトラブルの多かったAではあるが、教頭自身が対応を変え、見方を変えていくことで、Aを理解しAの伴走者になりうることができたのだ。Aと出会うことで、教頭自身がAに「一番の理解者だ」と言われるまで変わることができたこと、これが救われる思いにつながったのではないだろうか。 

                (はやかわ けいこ)

 

4、「事件」を機会に

 

さて、実践の大きな転機は体育祭後の大事件であった。それは早川にとって、彼の「生きづらさ」を受け止めていこうという覚悟を固める決定的な機会になったのである。

この事件の対応について、議論の末、Aを「謹慎処分」にするのではなく「自宅待機を続けながら、医師とも相談し、今後の対応を考えていく」方向に進む。早川は、Aに対する「処分」は不適切であり、Aに対する周囲の無理解と対応にも問題があったと主張した。ここで「処分」の流れに乗せてしまえばAが排除されていく危険性がある。どんなことがあっても、Aが排除される学校にはしてはならない、という早川の一歩も引かない決意である。流れは、個人と集団の問題として、ともに考えていこうという方向に変った。 

 

早川らは担当医の助言(障害を開示して周囲にヘルプを出せるようになれば社会に出ても彼はやっていける、彼を排除せず受け入れられるクラスになることが誰にとっても居心地のいい集団になることだ、)を受けて、障害名を開示する方向へ踏み出す。また、「Aの学校復帰にあたってはルールづくりを教員と行い限界設定(これは絶対してはいけないという行為の明確化・合意)をしっかりとしていくこと」という助言を受け、早川はAとの対話を繰り返し、ルールづくりを進めていく。 

 

そして、復帰に向けての第一回保護者会を開くが、学校代表の教頭は詳しい説明をせず「障害のある生徒だからご理解をお願いしたい」と繰り返すばかりで不調に終わる。保護者からは「一方的だ」との批判が盛んに出され、「アスペルガーは恐い」「A以外の生徒へのケアをまずしてほしい」などの発言が相次いだ。結論として、クラスの生徒に面談を行い、保護者にもアンケートを行い、不安をさらに明らかにして対応を考えていくことになる。

 

この保護者会は、学校・学級の変革につながったという積極的な意味と同時に、危険性や問題点が存在した。 

 

問題点とは、事件のあとにはっきり障害名を開示し、教頭は時系列に事実を説明さえしなかっため、「アスペルガーは暴力的で恐い」、「障害があるなら進路変更してほしい」といった保護者の発言・不満が噴き出し、それが後々まで学校・教職員を委縮させたことである。保護者会後、学校にとってはトラブル再発の回避が重要な関心事となった。職員は休憩時間のたびに教室にはりつき、一日の振りかえりをシートに記入させるAへの「指導」は長期間にわたって続く。「グループ学習からはAを外した方がいい」、「学校祭の取り組みは別室でさせた方がいい」といった意見が繰り返し職員から出たという。

また、保護者会の最中、学校だけでなくAの母親が非難の矢面に立たされたことは明らかである。母親とAとが保護者会から受け取ったのは「本人が自分を変えなければ受け入れられない(学校にいられない)」という強いメッセージであり、二人とも精神的に追い込まれたであろうことは容易に想像できる。 

 

しかし、まさにそのような問題点と不可分の形で保護者会の積極的な意義が見いだせる。まず、医師の説明を中心に「発達障害」をどう理解していくべきか、という問題提起が行われ、障害名も含めて問題を開示した結果、学校の退路が断たれ、教職員集団をあげて学校変革へと進む契機になったことである。保護者会で、学校のあり方が厳しく問われたことによって、「チームとしてやらなければならない」という方向へ教職員の意識が変わっていった。   

 

第二に、「A以外の生徒へのケアを」という保護者の要求を機に、全生徒との面談・保護者アンケートが行われ、生徒や保護者のさまざまな本音や要求(Aを排除すべきでないという意見も含めて)が引き出されていったことである。生徒からは、「誰かと言い争いになる」、「授業中の独り言がうるさい」といった不安・不満と同時に親たちが先に「障害名」を知らされたことへの疑問や、クラスでルールやどう接するかについて話し合うべきといった強い意見が出され、それを受けて生徒だけの話し合いが行われることになる。

 

ここには、学校や教職員の思惑を超えた生徒の動き=自発的でダイナミックな生徒自身の動きがみられるのである。

 

5、学級づくりの観点から

 

(1)生徒の動きの解釈と、早川実践の課題

 

@当事者はだれか? 

 

さて、これまで生活指導運動は学級づくり・集団づくりにおいて、「学級内のトラブルも含め、自分たちの問題として議論していくこと」、「具体的な生活・人間関係の中で子どもたちが成長していくこと」を重視し、それに関与・支援していく実践を進めてきた。

 

早川実践の場合はどうだろうか。一連の経過を見ると、保護者会直前の学級の生徒だけの「話し合い」が、第二回の保護者会を導いていることに注目したい。

まず、生徒たちはそもそも「事件の報告や対応の説明は、なぜ保護者がはじめなのか、」という疑問を持ち、「教員がルールを勝手に決めないでほしい」、現実に教室でAと関わるのは自分たちだ(自分たちこそが当事者だ)から、「自分たちもルールづくりに関わりたい」、「自分たちだけで話し合いをさせてほしい、」という要求を出してきた。

 

報告には、生徒による話し合いの中身は記録されていないが、話し合いの後、「力になるよ」とAに声をかける生徒が主導権を握る。注2)それはなぜだろうか。おそらくC・Dなど数名の生徒とAとの間で形成されていた「私的なつながり」が大きな意味を持ったと考えられる。そのことは、初めて早川と話をした時のA自身の発言(「CとDが『話を聞くよ』と言ってくれると落ち着く」)からもうかがえる。

 

そして、クラスの生徒が(Aの復帰を前提に)Aをどう理解しどう接するかを話し合う場合、「どうすればいいのかわからない」という生徒の発言よりも「このように話をよく聞けば落ち着いてやり取りできる」、「トラブルが起こった場合も(Cがやったように)問題を整理していけば互いに理解できる」、といった(Aと私的なつながりのある生徒の)発言が説得力を持ったのではないか、と考えられる。 

 

そして、「話し合い」の直後に開かれた第二回保護者説明会でEの母親が伝えたE自身の言葉(「Aは決して乱暴な子じゃないから、絶対に大ごとにしないでよ」)は「保護者会」の流れを変える。それだけではない。生徒同士の話し合い後、「Aの復帰を応援してよ!」と保護者に要請した生徒は他にもいるのである。学校に対して生徒が要求・実現した「話し合い」、そして直後の家庭での生徒と保護者の対話は、第二回保護者会の流れを左右したと考えられる。

  

さらにその後、「ルールづくりに参加した生徒たち(C、D、F)」は、「復帰時に本人と話し合いをして、どういうときにどんな声かけをしたらいいのかということを確認し」、「大変な時には自分たちをもっと頼ってほしい」といって彼を支え、Aもそれに応えようとしている。また、FはAの中に自分を見てAを理解しようとする〔「昔の自分を見ているようだ」〕注3。彼らの発言や行動は、Aの「生きづらさ」を受け止め一緒に考えていく営みと言える。

 

Aは保護者会を通して事実上「自分を変えなければ受け入れてもらえない、」という苦しい状況に追い込まれた。そのAが、少しずつ「成長」しながら学校に通い続けることができた要因として、C・D・Fらの支えは大きな意味があったと考えられる。そして、最初は私的な関係の中で形成されていたAと周囲との相互理解・相互承認(注4)が、一連の動きの中で、次第に学級全体へと拡大していくのである。 

 

生活指導運動が学級づくりにおいて目指してきた「学級内のトラブルも含め、自分たちの問題として議論していくこと」、「具体的な生活・人間関係の中で子どもたちが成長していくこと」が、早川実践においては、生徒のトラブル、第一回保護者会、生徒自身の自発的な動きと話し合い、第二回保護者会、さらに新たな学級・学校づくりへとダイナミックな動きとして具体化されていることを強調したい。

 

A生活指導実践としての課題

 

しかし、同時にいくつかの課題を指摘したい。このような生徒たちの注目すべき自発的な動きをさらに積極的に評価し(重要なものとして位置づけ)、学校の問い直しにもっと踏み込めたのではないかという指摘である。

 

生徒だけの話し合いの直前、早川が生徒に要請した内容は「ここはできるようになったなぁ」「これはダメだよ」等判定員になって、Aにフィードバックしていくことだった。確かに、ここではまず「Aに対する理解」、そして「好意的な判定」が要請されてはいるものの、あくまで周囲は判定する側、Aは判定される側にとどまってしまう。 

 

しかし、「生徒だけの話し合い」の中では「Aとの関わり方」等、周囲の課題に関する議論もなされており、対等平等の関係を築いていく萌芽はこの時点で既にあったと見ることもできる。とすれば、早川や担任が「生徒だけの話し合い」の内容をC・D・Fから聴き取り、周囲の課題も含めその後の学級づくりに関する意見、Aとの関係のつくり直しに関する意見を求めるべきだったのではないか。 

 

また、学校はトラブル再発回避のために、次年度の学校祭ではAに別室作業を指示し「隔離」する。(Aの部屋に行って一緒に作業する生徒が多数出てきたのは救いであるが、)こうした学校の「委縮した状況」を軌道修正し、Aと周囲の生徒との対等平等な関係を築いていくためには、当事者である生徒(A・C・D・Fら)をチームAの話し合いに参加させる(少なくとも大切な判断材料とするために意見を聴き取る)ことが重要だったのではないだろうか。

 

このように、生徒の自発的な動きを積極的に評価し、方針決定に際して生徒の発言権を保障することは、生徒自身が当事者として学校変革に参加することにつながる。また、Aと周囲の生徒の対等平等な関係性を追求することは、Aだけでなく他の生徒の成長に欠かせない視点である。

 

(2)「生きづらさ」を意識した学級づくり

 

さて、「生きづらさをかかえた生徒から学校を見直す」というのが本基調発題のテーマであるが、「生きづらさ」を抱えた生徒はAのように診断・告知がなされているとは限らない。むしろ、診断されていない「特徴のある生徒」が多いことを考えると、「障害の開示」とは全く異なる道筋で学級づくりが追求されなければならないだろう。

 

例えば近年「特別支援教育」の側から、学級内の良好な人間関係づくりのために「ソーシャルスキルトレーニング」が推奨されている。確かに、診断の有無にかかわらず、また「定型発達」の生徒も含めてこのトレーニングをすることで社会性を身につけるためのさまざまな気づきが得られるとも言われる。 

 

しかし、生徒会行事や文化活動を通して行う「従来の生活指導・集団づくり実践」の有効性こそ強調すべきではないか。基本的に「ソーシャルスキルトレーニング」というのは、学校の現実(集団行動等)への円滑な適応を促す手段でしかないと思われるのだ。「適応を目的としたトレーニング」が個々人の本当の喜びになるとは考えにくい。

 

それに対して、例えば、学校祭で行う演劇等のステージ発表を考えてみよう。発達障害のある個人は、状況の中に自分の行動を位置づけること、前後の状況・脈絡を理解することが苦手だといわれる。そのような個人にとって、演劇の体験(仮構的な状況の中に自分を位置づけて役を演じること)は貴重な体験であり、ある意味それ自体が「トレーニング」にもなる。そして、同時にそれは(多くの場合)、喜びや達成感を生み出す「価値ある活動」なのである。 

 

確かに、発達障害のある子どもは人間関係や行事が苦手な場合がしばしばある。時には、行事やその練習に参加すること自体が難しい場合もあるだろう。しかしながら、人間関係や行事・活動が「苦手である個人」=「参加したくない個人」と考えてはならない。むしろ、「苦手だけれど求めている」場合も多いのではないか。注5)だとすれば、どのように学級づくりを構想するべきだろうか。 

 

一例であるが、これまで私は正副室長や文化委員に対して「どんな学級にしたいか、どんな行事にしたいか」という問いかけをしてきた。生徒同士意見交換をし、「問題が起こっても、それを解決できるような学級」、「いろいろな人がいる中で、それぞれの形で参加・創造していける行事」、「問題を乗りこえて、個人や学級が成長していけるような行事」といったイメージを共有していくことは、学級づくりを前進させる契機になる。 

 

そこで大切なのは、学級(集団)の現状分析である。その一つとして「気になる仲間、生徒は?」という問いかけをすれば、たいていの場合は具体的な名前が出てくるだろう。しばしば、そのような個人は現状のなかで「息苦しさ」や「生きづらさ」を抱えた個人であるが、「どのような形で(行事等に)参加すると無理がないのか」、「本人の特徴や力が活かせるのか」、「達成感・喜びが得られるのか」を考えあっていくことは、同時に個人の苦しさ・生きづらさを集団(自分たち)の問題としていくことにもなる。 

 

そして、生み出された活動を適切に総括するとりくみは、様々な集団的活動・経験を振り返る機会、その意見交換を通して「色々な特徴を持った個人がどのような場面で活躍(力を発揮)していたのか」全員が確認しあう機会、生徒同士の対等平等な関係・相互に承認し合う関係を前進させる機会として重要である。

 

これまで、「生活指導」・「集団づくり」は、学級におけるさまざまな問題の乗り越えを体験・成長できる場面として、行事などの活動を大切にしてきた。このことを、私たちは「学校に舞台をつくる」、と表現した。(1996年大会基調「青年として生きることに応える『舞台』を学校につくろう」)。発達障害のある生徒を含め、様々な生きづらさを抱えた生徒についても大切なことは、「学校に適応させるための生徒指導や個別支援」を繰り返すことではなく、活動や学びの主体になっていく様々な舞台、生きづらさをともに乗りこえる舞台を学校につくることではないだろうか。 

 

もちろん、行事の活動そのものではなく「事件」が相互成長のきっかけになることもある。事実、早川報告のAと周りの生徒・職員との出会い直しの契機は「体育祭後の大事件」であった。(注6)早川実践も含め、当事者の声(例えば「多数派のお前たちにまだ合わせろというのか!」というAの叫び)や生徒自身の様々な要求が表明され、公共的議論を通して対等平等に自分の考えを出し合う実践、そして一人ひとりが尊重される学級・学校へ踏み出していったこれまでの生活指導実践(注7)から、私たちは多くを学ぶことができる。 

 

6、出会いなおす

 

基調発題で中心的に取り上げてきた早川実践の優れた点は、「学級づくり」以上に「学校づくり」の展望を開いているところにある。以下、その点について論じたい。

早川を中心とする様々な連携は、「教科担当をはじめ、いろいろな教員が、その後の彼の変化や成長を目の当たりにし、職員室でも彼の変化や様子を嬉しそうに私に報告してくれることが増えてきている」、という状況につながっていく。ここには「彼の変化」と記載されているが、Aにとって周りの人たちが自分を理解してくれる「信頼できる他者」になっていった、という点が大きいだろう。周囲の生徒とのかかわりや、職員の連携した取り組みを背景に、Aと周囲との関係性こそが大きく変わっていったのである。

 

また、別の意味で劇的なのは、大事件が起こったときに、「もっと努力しろ」と発言するなど彼のことを全く理解していなかった教頭の変化である。教頭は、Aとの会話を楽しみながら、その苦手なこと(生きづらさ)も理解し、Aとともに考えていく「他者」となる中で、「教師としての喜び」を得ることができたのである。これは、年配の教職員も「生徒との出会い直し」を通して劇的に変わりうるという貴重な実例であろう。そして、そのような意味における「喜び」を早川、担任を含む「チームA」が、そして多くの職員が体験し、学校も変わっていくのである。このような学校の変化は、主として授業の変化という形で具体化されるのであるが、早川は体育の授業を例示している。 

 

今まで「体育」は、Aにとって出来ないことばかりで一番イライラを引き起こす授業であったが、彼の特性に合わせてやっていると、彼は新しい扉を次々と開けているように思える。(・・・)マラソンの後の授業では、バスケに挑戦した。ドリブルから担当教諭が丁寧に説明した。「ボールのここに力を加えて回転をつけると・・・」など物理の授業のようだった。4月当初この担当教諭はAがくるとトラブルが起きるので、他の生徒に「逃げろ」と言っていたような人であった。しかし、2月のこの頃の授業のときには、彼の特性を理解して、「Aはこういう説明が好きでしょ?」と(・・・)話してくれた。Aも「体育の先生には説明もなく、とにかくやってみろ、という人が多いが○○先生は丁寧に教えてくれて嬉しい。」と語っていた。  

 

百人一首大会や普段の授業でも、周りの生徒はAを理解しながら適切に関われるようになった。このような積み上げの中でAと周囲(生徒・教職員)との関係はしだいに好転し、Aを疎外するような声は、なくなっていくのである。 

 

このような変化が生じたのはなぜか? 周りが変わりAと「出会いなおす」ことによって「Aとの相互関係」に手ごたえを感じ、「あいつ、面白いやつだな」という感覚が膨らんでいるのではないだろうか。そして、そのような感覚を膨らませていくことができた大きな要因が、(職員についていえば)Aに関わる様々な情報交換の積み上げである。「話し合う場」をつくること、情報交換という「小さな実践」を積み上げることによって互いが出会い直す「早川実践」は、新しい学校づくりの展望を私たちに見せている。 

 

7、学校の「あたり前」を問う

 

生きづらさをかかえた生徒は学校の「当たり前」を問い直す視点をも提示しており、それにこだわることは学校づくりにおいても重要であろう。例えば、大きな掛け声を出す「集団訓練」について「大声を出す意味がわからない」というAの率直な発言は、それまで「当たり前」と考えられてきた事柄やその根拠について改めて問い直して行く機会になりうる。

そしてまた、「常識を考えろ」・「空気を読め」といったメッセージは、しばしば多数派から一方的に発せられるが、「常識」・「空気」の意味についても対等平等な相互理解を目指していくことが大切であろう。例えば「モニュメントも何もないところで写真を撮る意味がない(モニュメントの前で撮るからこそ記念写真だ)」というAの主張は「モニュメントがなくても(真剣に取り組んできたクラスの)記念写真を撮りたい」という周囲の生徒の気持ち・主張と同じ重みを持つ。主張の内容は逆向きであるが、相互に理解することは可能なはずである。それこそ、(白板等も活用しながら)対象化・整理をすることで、相互の理解を成立させていきたい。 

 

またAは、どの教職員に対しても「おかしい」と思ったことについて面と向かってはっきり言う。(例「(教員に対して)それはひどいです」というAの発言に周りの生徒は「good job」と反応する)。生徒は様々なことを「ひどい」と思いつつも、過度な気遣いから言葉にしない場合も多い。しかし、「意見や要求」・「不平不満」を出していくことは当然の権利である。「そのような発言は、本人だけでなく学級全体にとって大切だ」といった意味づけを積極的に行い、「さからっちゃいけないという学校文化」を問い直す機会にしていくべきであろう。

 

このこととも関連するが、原田真知子は実践記録(注8)の中で、学校の中の「男性性」(大声で威圧しながら行動を規制・統制しようとする傾向)について指摘している。そのような「指導」が当たり前という空気の中では(発達障害のある個人への配慮にも)「あの子だけ特別扱いするのか」という声が生じやすい。そのような状況を突破していく要点は何だろうか。上記の「男性性」を克服し、全ての生徒の思いを丁寧に受け止め、応答していくことである。障害の有無にかかわらず、全ての生徒が自分自身の視点・感じ方を安心して表現し合える(丁寧に受け止められ、応答し合える)場へ学校を創りかえていくことである。そのようにお互いが安心してすごせる場であるからこそ、特徴・生きづらさを抱えた個人を迫害するのではなく、互いに配慮しつつ安心してすごせる関係づくりに向かっていくのである。

 

8、結論

 

さて、高生研における過去の「学校づくり」は、比較的勤務年数の長い教員が「強い主導性(ヘゲモニー)」を発揮してすすめるそれであった。早川実践の場合、そのような従来の学校づくり実践とは別の形で教職員集団が変わっていったように見える。つまり、対立・対決ではなく「新しい出会い」・「出会い直し」を通して教職員が変わり、学校が変わっていくのである。その過程で問われたことは、まず教職員自身が陥りがちな発想(「何がわからないんだ、こんなことも!」といった発想)である。そのような発想と対し方でいいのか、大きな問題があるのではないか、という疑問は、現状の「生徒指導」(学校に適応しない生徒の実質的な排除)や「授業のあり方」の問い直しにつながっていく。

「Aへの配慮を考えていくと、改めてユニバーサルな授業の意識の大切さを感じた、」という早川の同僚の発言のとおり、授業の在り方が根本から問われるのである。ただ、ここで強調したいのは、早川実践において「問うこと」が「教職員は問うべきだ」といった義務や倫理的要請ではなく、「豊かさや喜び」を生み出すという実感につながっていることである。例えば授業の在り方について問いかけ、授業を創りなおすことが、Aをはじめとする生徒との関係において「新しい発見」や、「手応え」を生み出しながら授業を豊かにしていくのである。注9)そこには、支援・被支援の関係ではなく相互関係の変化がある。「教職員と生徒が相互に成長していく実感」が生まれるからこそ「学校のあたり前」に対する問いも広がり、色々な人が共に生きていける「豊かな場」に向かっていく。そのような、「豊かさや喜びを予感させる問いかけ」を通して進めていく学校づくり・学校変革こそが、今求められているのではないだろうか。

 

しかしながら、「そんなにうまくいくのか?」という声も聞こえてきそうである。多くの教職員、とりわけ若い教職員が悩んでいる現実〔学校の「あたりまえ」に(服装指導なども含め)有無を言わさず生徒を従わせなければならない現実、「進路指導」等で生徒を競争に追い立てていくことが求められる現実〕は、変えることなど容易にできそうに思えない。どうにも生きづらい現実・息苦しい現実は圧倒的だと感じながら、その中で生きる(悩む)教職員にとって希望・展望はいかにして開けるのだろうか? 

 

「早川実践」の場合、学校の空気を変えていくことができた要因は、チームA(多様な立場の教職員)を中心にした話し合いによって、(保護者会や学級での話し合いも追い風に)学校の流れを転換できたこと、そして、生徒にかかわる情報交換という「小さな実践」の積み上げである。具体的には、Aにかかわる養護教諭との打ち合わせ(早川・担任・養護教諭の頻繁な情報交換)、「振り返りシート」を活用・回覧して行われた教科担当者の情報共有など。このような積み上げが次第に新しい状況〔教科担当をはじめとする教職員が授業などの在り方を問い直しながら、Aの変化や成長を目の当たりにし、職員室でも彼の様子を嬉しそうに報告する、という状況〕を生み出していったのである。

 

確かに、これは「診断」を受けている生徒A(しかも「大事件」と「保護者会」を通して注目を集めた生徒)に関する情報交換だ、という点では「特別」なのであるが、別の状況においても「今、○○(個人)が困っていること」を軸に、「どう理解し、どう実践していけばいいのか」を問いつつ試行錯誤することが大切なのではないか。そして、そのような試行錯誤を出し合う「情報交換という小さな実践の積み上げ」が、「教職員の孤立・分断」ではなく、ともに幸福を追求し合う学校〔いろんな人(教職員も「不器用な個人」も含めていろんな人)がいる、があたりまえの学校〕を少しずつ実現していく道ではないだろうか。

 

例えば、担任の立場で(早川実践に学びつつ)特別支援コーディネーターや養護教諭・学年主任とつながっていく実践、それを「学校づくり」につなげていく実践も当然、展望できるだろう。そして、そのような小さな連携をつなげて、学校の流れを変えていく話し合いを組み合わせるのである。生徒や教職員の生きづらさの背景にある「学校全体の息苦しさ」について公的な場で議論し、問いなおしていく可能性も開いていけるのではないだろうか。

 

 「生きづらさをかかえた生徒から学校を見直す」具体的な営みは、「生きづらさをかかえた教職員」も含めていろんな個人がともに幸福を追求し合う学校、一人ひとりが尊重される学校づくりにつながっていく。

 

 

注1:この時のクラス委員長Cの行動は、興奮する両者の話を聴き取り、問題に関する合意を成立させた点で注目できる。黒板を用いた時系列での整理は、相手に対する憤りなど混乱した感情を乗りこえて、「問題の状況」をともに対象化し、並び合う関係のなかで共同の認識を成立させていくための有効な実践だった。

注2:「力になるよ」といった発言の背景には個人(例えば発達障害のある個人)への関心がある。『高校生活指導』195号の実践記録「“いらない子”なんていない」の中で、担任の原田真知子は、イブキという「大変な生徒」について「どうしちゃったんだろう、この子」という問い・関心を持ち、それを共有すべく学級の生徒数名と対話を繰り返している。

注3:楠凡之は、一人ひとりの「違い」のもう一歩背後にある「同じ」を発見し共感関係を築くことの重要性を指摘している。『自閉症スペクトラム障害の発達援助と学級づくり』(高文研)。

注4:学級に「相互承認」の関係がひろがっていく前提は、発達障害のある個人の言動(パニック時のそれも含めて)を周囲の生徒が理解していくことである。原田真知子は、実践の中で、発達障害があると思われるヒロト君のパニックに名前をつけることで周りの理解(そして本人自身の理解)を進め広げている。

〔『〈いじめ〉〈迫害〉?子どもの世界に何がおきているか』(クリエイツかもがわ)より〕

(例:負けそうになったときに起こすパニックを「まけパニ」、物をなくした時の「ものパニ」、予定していた順序が変わったために起こすパニックを「じゅんパニ」等々…。)頻発するパニックは当然周りを驚かすことになるが、あわてず深刻にならない形で理解していく、という意味でも、この方法には学ぶべきものがあるだろう。 

注5:『自尊心を大切にした高機能自閉症の理解と支援』(有斐閣選書)には運動会のダンス練習に参加できなくなった「発達障害と聴覚過敏のあるA君の事例」(参加できないけれど参加したかったA君)が紹介されている。聴覚過敏に気づいた担任が「練習は無理しなくていい」と伝え、ホッとしていたA君だったが次第にイライラするようになる。できる形で参加したいA君と担任が話し合って、運動会当日に向けて「応援のための横断幕」を描く作業をすることになった。このような形でも参加していることに喜びを感じたA君は、当日、耳栓をしてダンスを一緒に踊るなど、貴重な運動会を体験する。

注6:「事件」や「いじめ」のない一見“平和な日常”の中にも、「出会い直し」の機会があるだろう。三木裕和は『自閉症児のココロ』(クリエイツかもがわ)の中で、「その子の“特異な楽しみ”を“特異”なまま放置せず、“他者によって共感可能なおもしろさ”として意味づけることが要」、と述べている。 

注7:例えば、『高校生活指導』75号「自分の中にある恐ろしいものは何か!」(軌保学峰)など。同実践は、いじめられていた個人が学級全員の前で発言していること、それを通して対等平等な関係へ大きく前進していることが注目に値する。他の実践例については本大会紀要の「生活指導の実践史に学ぶ」問題別分科会)を参照されたい。 

注8:『高校生活指導』195号の実践記録「“いらない子”なんていない」。

注9:授業をつくるのは教職員だけではない。小学校で長年「問題解決学習」に取り組んできた清水俊皓の実践にも、「自閉症のある子ども」のパニックに対して「あの子はなぜ教室を出ていくのか、どうすればいいのか」といった問いを子どもたちが共有していく場面がある。そして、「今の話し合いは混乱していたよ。誰にもよくわかるように整理して話そうよ(あの子は、話し合いについていけず混乱して出ていったのでは?)」という生徒が登場する(HP「教育の窓 〜ある退職校長の想い〜」)。その発言の背景には、発達障害のある子どもを理解し関わろうとする生徒自身の言動を清水が観察し、「その意義を位置づける(評価する)」丁寧な指導の積み上げがあった。