教育詩』(マカレンコ)と私

 

                               

1、『教育詩』との出会い   

 

 「この本を読んでみるといいよ」。『教育詩』(犯罪経験を持つ青少年の集まる「コローニャ」という施設での「実践記録」)を大先輩から勧められたのは、20年以上前のことだった。当時、2回目の学級担任を終えた私は、「正直もう担任などできないのではないか」と思っていた。徹底して「集団づくり」を進めたつもりのわがクラスは結局バラバラになり、当時の私にとってあまりにも大きな挫折に打ちのめされていたのである。

 

学生時代にルソーの直接民主主義思想に感化された私は、卒業後、「集団づくり」「生活指導」こそルソー的民主主義を子どもたちが体得できる道だと信じ、強力に実践を進めた。なまじ「信念・確信」を持っていただけに、始末が悪い。私の「集団づくり」は全く柔軟性を欠いていたため、結局、指導は生徒たちに拒否され、学級は崩壊状態になっていったのである。「自分は教員に向いていない」と、辞めることを何度も考えた。

 

 そのような一番苦しい時期に、私は勧められた『教育詩』をむさぼるように読んだ。そして、読み終わった時、マカレンコの実践のすごさに圧倒され、感動していた。何と素晴らしい集団だろう。そして、登場人物である青少年は何と生き生き輝いていることか。ここで彼らは農作業、演劇などを含むさまざまな「部隊ごとの活動」や、施設内での問題をテーマに「指揮官会議(ソビエト)」、そして、その上位の決定機関である「総会」で徹底議論しながら集団的実践をすすめていく。

 

総会における議論と決定を経てこの集団は統一した活動を行うのだが、そのメンバーは集団に飲み込まれるどころか、集団が活動的・前進的になればなるほど、一人ひとりが強烈な個性を浮き立たせる。@集団が力強く活動・成長し、さらにそれがメンバーの生き生きとした成長につながっていく『教育詩』の描写にはなんら不自然なところはなく、教育の理想がそこに具現しているように私には見えた。そのなかで強く印象に残ったのは、そのような素晴らしい教育実践家であるマカレンコにも「いったいどうすれば教育が成立するのかわからず、苦しみ悩む期間が本当に長く続いた」ということ、そして、その苦しみを突破する意志を失うことなく、ついに乗り越えていったことだ。

 

その後、私は『教育詩』の実践と「私の実践」を自分なりに徹底分析し、マカレンコの実践における優れた点や学べる点を書き出した。さらに、『教育詩』以外のさまざまな実践記録を読み、その優れた点を書き出しながら自分なりに実践の見通しを切り開いていくことができたのである。『教育詩』は、私自身が一番苦しい時期をのりこえていくためのエネルギーを与えてくれた、忘れられない「作品」だったのだ。

 

2、マカレンコの実践

 

さて、マカレンコにとっても一番苦しい時期、コローニャは「笑いも喜びもない」ものにおちこんだという時期に、彼は何と軍事教練をはじめる。「コロニストはこういうことには乗気になった。作業を終えてから毎日一時間か二時間ばかり、広い正方形の庭で全コローニャをあげて教練をおこなった。(…)子どもたちはこの遊びが大好きになり、まもなくわれわれの手にほんものの銃が与えられた。」A

 

意外にもこの「軍事教練」が発展して、コローニャの全メンバーが総会民主主義にもとづく集団を形成していくのである。実際、メンバー(コロニスト)はいくつもの「部隊」に編成され、部隊ごとに任命された指揮官が指揮官会議で農作業や演劇活動等の方針を議論・提起していく。各部隊の指揮官は一切特権を与えられないが、その部隊の活動については全面的な責任を持つ、という体制がつくられ動いていくのである。B

 

さらに、この集団は必要に応じて「混成部隊」といわれる臨時の作業部隊を次々に形成し、それが重要な役割を果たす。このような一定期間内の臨時作業の中で、「常設部隊」の指揮官はしばしば「混成部隊」の指揮官の指導を受けることになるのである。「この体制のおかげで大多数のコロニストは、たんに働くだけでなく組織者としてのしごとも行うことになった。…おかげでわれわれのコローニャは1926年にはどんな任務に対してもすぐに調子をととのえ臨機応変の策をとりうる能力」Cを持つことができただけでなく、「これはコローニャにひじょうに複雑な従属の連鎖をつくりだし、この連鎖につながれている個々のコロニストはもはや集団からぬけて集団の上に君臨することなどはできなくなった」D(まさに対等平等でダイナミックな集団が形成された)というのである。

 

しかしながら、組織はあっても動かない(動きを止めてしまう)集団は山ほど存在する。なぜ、コローニャという集団はこれほどまでに生き生きと活動し、個人を成長させることができたのか。

マカレンコは言っている。「人間というものは、もし前途に喜ばしいものが何もなければ、この世に生きてはいられないものである。」そして前途に喜ばしいものが得られるという「展望」こそ極めて重要だとして次のように語る。「はじめに喜びそのものを組織し、それに活を入れ、実在としてうちださなければならない。第二に喜びの最も単純な種類を、もっと複雑で人間的に意義のある種類にねばりづよくかえていかなければならない。」E

 

コローニャが集団として生き生きと活動し続けたのは、そこに「喜びと展望」があったからである。マカレンによれば「けっこうな食事からも、サーカス見物からも、池の掃除からもはじめられる」が、コロニストたちが最高の「展望」である人格の価値に目を開いた大きな機会は、「ゴーリキーの夕べ」だったという。

 

「わたしはゴーリキーの生活と創作について子どもたちに語った。(…)数人の子どもが『少年時代』の一説を読んだ。新人のコロニストたちは目を大きくひらいて私の話を聞いていた。かれらはこの世界にそんな生活がありうるとは想像もしていなかった。」F「マクシム・ゴーリキーの生活はまるで私たちの生活の一部になった。彼の物語の部分部分は(…)人間の価値の尺度となった。」G

 

作品や手紙などを通した「ゴーリキーとの出会い」がコロニストにとって決定的な意味を持っていたことがうかがえるが、「ゴーリキーの夕べ」は、人格の価値に目を開かせただけでなく、コローニャにおける集団活動の土台である「文化と遊び」を創り出していたとも考えられるのである。(「夕べ」ではゴーリキーの作品と同時に『トム・ソーヤーの冒険』のような冒険物語も朗読されていた。)

 

そして、そもそも、集団的活動の出発点になった軍事教練自体が「遊び」だったことにも注目すべきだろう。そのことは『教育詩』前半でほかならぬマカレンコ自身が語っているのである。「こうしてコローニャに、のちにわれわれの音楽の根本的なモチーフの一つとなった戦闘遊びの基礎が築かれたのであった」Hと。

 

 以上のように、当初、展望の見えない現実に苦しみ悩み続けたマカレンコは、コロニストとともにそれを突き抜け、「喜びを組織する遊びと文化と自治活動」を統一的に発展させていく。活動的・前進的になればなるほど、一人ひとりが個性的に成長していく素晴らしい集団を形成していくのである。このような『教育詩』の実践は、現代においてなお、われわれに多くの示唆を与え励まし続けてくれる。

 

  さらにいえば、彼の集団主義を教育研究運動(全生研、高生研運動)の中で実践化していったのは、おそらく日本だけではないだろうか。

 対等平等の関係を形成する集団の教育力に着目したこのような実践・運動の積み上げは、再評価されていく歴史的必然性があるのではないか。私はそのことを確信している。 

 

                                              

※『教育詩』は著者マカレンコが「ロシア革命後のウクライナにおいて未成年の法律違反者を収容した労働・自治の少年施設でかれらの再教育に取り組み、その実践を集団主義教育として」展開した実践記録(『生活指導事典』80頁)。戦後日本の「生活指導運動」、「集団づくり実践」に大きな影響を与えた。

@サルトル(『弁証法的理性批判』)によれば、主体的な「同等者集団」においては集団が「統一されるほど各成員は似なくなる」。つまり、自由な自己表現を許された対等平等な集団そのものが、各個人の個性を際立つものにしていくのである。この集団においては絶えず規制者的第三者(リーダー)が入れ替わる。

A『教育詩』T 160

BCD『教育詩』T 174176

F『教育詩』U 144

G『教育詩』T 73

H『教育詩』T 160

参考文献:『学級集団づくりの方法と課題』竹内常一