ルソーの『社会契約論』と教育

 

 U高校の「夢の駅前公園づくり」の実践と、「民主主義」の原理を明確化していったルソーの『社会契約論』の内容とを結びつけて述べてみたいと思います。

 私は200年以上前にルソーが主張した核心部分
政治権力や法の正当性の根拠は広範な人民の“合意”と“一般意志”(=“すべてのメンバーの共通利益とは何か”を考えつつ“公論”によって形成された人々の総意)である」という原理(→注)は今なお有効であると考えています。

 そして、「すべてのメンバーの共通利益」を判断する基準として重要なものが広義の人権(自由権、社会権、そして政治的意思決定に参加する市民権)だといえるでしょう。この原理そのものは近代から現代への歴史の中で「普遍的な原理」として確立されてきたものだと考えます。

 さて、記録の中には細かく記載されていませんでしたが 「高校生が駅前に広場をつくる」実践の場合、「通学に不便をこうむっていた高校生が自分たちの利益を要求として提起する」ことから始まって、「(高校生の利益にかなう)
“跨線橋”の設置によって不利益を受ける少数者についてどう考えるか」を論議していきます。

 そして、「車椅子」の個人や「一輪車」で線路を渡っていた人たちの視点を取り込み「エレベーターで“跨線橋”に上り下りできるようにしよう」という発想にたどり着くのです。(実践の指導に当たったKさんに直接聞いた話)

  ここでは、明らかに「公共性」に関する「公論」が成立しており、
最初は自分たちの利害しか発想の中になかった高校生が視点を普遍化していく(少数者を排除しない本当の「共通利益」を実現する方法をともに探っていく)という過程が見られます。

 「高校生が駅前に広場をつくる」実践はまさに高校生が各々の「人権」を取り込みながら「民主主義」を学び、創造していく実践なのです。

(注)
 “すべてのメンバーの共通利益とは何か”を考えつつ“公論”によって形成された人々の総意が大切だと述べるルソーは、 「人民主権」(「国民主権」)を文字通り実現する原理は「直接民主主義」だと主張します。

 ルソーによれば
主権とは社会的な意思決定権であり、「具体的行為(行政)」は代行できても「意思決定(立法)というものは原理的に代行不可能」です。そのことをもって、彼は人民主権を実現する原理は直接民主主義以外にないことを主張するのです。

 「議会制民主主義」の歴史的な意義は認めるにしても「国民主権」を実現する原理としては不充分なものであること、そして、それを充分なものとして
絶対化・自己目的化すれば、ただちに議会は「人民の意志を代表して踏みにじる機関(ルソー)」となってしまうことにはもっと注目されてもいいと思います。

 

 そして、子どもたちが(「1947年教育基本法」の教育の目的にも明記されている)「平和的な国家および社会の形成者」となっていくことは、ルソーの言う「直接民主主義」の主体(社会的な問題について直接に学習・判断・意思表示していく主体)へと自己形成していくことだ、と言えるのではないでしょうか。

 「国民投票」や「住民投票」などある意味で特別な場合(制度として直接民主主義が採用されている場合)だけでなく、社会的・政治的判断や意思表示の主体、さらには社会を創造・変革していく主体としての自己形成こそが民主的訓練の目標でしょう。

 そのことは民間教育研究団体である「高生研」が結成されてかなり早い段階で明確にされていたように思われますが、U高校のD‐proの実践は「高生研第40回大会基調」でも以下のように取り上げられています。

 D‐proの実践は、遮断機のない踏み切りを使い、・・・危険で不便なこれまでの通学路を安全で便利な通学路にしてほしい、という生徒と職員の長年の共通の必要にもとづいて展開したものだが、「なぜ自分たちが使う駅のことについて参画できないのか」という生徒の疑問が「社会参加」の出発点におかれている。

 この「社会参加」の実践が、子ども・青年の必要を基盤として展開されたことを「基調」は指摘するとともに次の点に注目します。

 D‐proの実践では4月14日の段階〔実践記録(上)〕の段階ですでに生徒会長や校風委員会委員長らが教員と一緒に「市長交渉」を行い、高校生でありながらいわば「大人」扱いされ、交渉の中で「対等」に扱われている。(・・・)

 この時点で、建設課長から、設計に高校生の意思を反映させること等が確認され、同時に市長から「芝生の管理を(地域で)引き受けてほしい」とその後の責任まで要求される。
 
U高D‐proのメンバーは、この決定に参画することで「市民」として社会に参加していく権利とそれを行使していく責任を自覚していく。


 上記のように、U高校の場合は、教員と市長とのあいだで「子どもたちを育てるという観点で接してほしい」という話が事前に行われていたということもありますが、大切な場面で「大人として扱い決定に参加する権利を認めると同時に責任を要求すること」が重要なポイントとなっています。

 「政治的に無関心な個人」を育てていくのか「社会に参加していく個人」を育てていくのか、U高校のよういかなくても、教育においては重要な視点であると思います。