竹田青嗣氏への手紙

(『人間的自由の条件』『よみがえれ 哲学』を中心に)

 

 はじめまして。私は鳥取県の高等学校で高校の教員をしております。

突然で申し訳ありませんが、貴方の出されたいくつかの著書に関する私自身の感想等、ぜひお読みいただければ、と考えファイルを送らせていただきます。

 

 竹田さの著書を私自身は10冊あまり読ませていただきましたが、最初のころ印象に残っている言葉は『哲学入門』の中の「耳学問のすすめ」です。たとえ「原典」にあたらなくても自分自身や世界について「強く深く考えるために」ために「哲学者」の思想やキーワードが役に立つのであれば、そのことは本人の人生にとって意味を持つのではないか、という趣旨の「すすめ」に共感いたしました。現在45歳になりますが、私は20年あまり前、教育学部の社会科(倫理・社会)の研究室に所属し、文学部の教授の講義も受講しながら「JPサルトルにおける自由と状況」というテーマで卒業論文を書きました。明解に表現しようと努力しつつも苦労した記憶があります。

 

 一時期『ソフィーの世界』がベストセラーになりましたが、竹田青嗣さんの「わかりやすく表現」されている著作は哲学にたくさんの人たちが触れ、関心を持っていく上で本当に意味のあるものだと考えています。また、「現代思想と対比しつつ、現象学や近代哲学の意義を紹介」することで浅薄な近代批判の思潮に一石を投じ、まちがいなく多くの読者にその問題意識が共有されているだろう、と思っています。私の場合、現代社会、倫理の授業でも『初めての現象学』等、いくつかの著作を活用させていただいています。

 

 さて、2004年度に発行された『人間的自由の条件』(そして西研氏との対談である『よみがえれ、哲学』)ですが、ルソー、ヘーゲル、マルクスを高く評価していた自分としても賛同・共感できる多くの点がありました。

 

 彼ら〔カント・ヘーゲル〕にとっては、「人間の自由な権利」が「市民国家」によって初めて確保されるものであることは自明のことだった(『人間的自由の条件』16頁)ということ。人間は「自由」な存在であるために、その自立的な意志を発動させて道徳的存在〔他者を尊重する主体〕となる、というのではない。むしろ、他者を自由な人格であると見なそうとする「自立的な意志」の相互性(「自由の相互承認」)だけが、まさしく人間の「自由」をはじめて確保し保証する(30頁)というヘーゲルによるカント批判のポイント、など深く納得できるものでした。

 

 「自由の相互承認」というのは『弁証法的理性批判』でサルトルが述べた「相互性」の人間関係に近いのではないか、とも考えていますが、それは竹内芳郎氏も『討論塾 天皇的精神風土との対決』の中で述べておられるように「人権」をも基礎づけるものでもあろうと考えます。

 

 また、『よみがえれ、哲学』の対談の中で述べられている点「観念論のポイント」(45頁)「理性的な議論では解決し得ないような、異論の対立をどう解くか。『純粋理性批判』は、これに体系的に首尾一貫して答えようとした見事な解答例であること」(47頁)「ルソーの主張の核心」「政治権力の正当性の原理は広範な人民の“合意”と“一般意志”であるということ」(54頁)、「ヘーゲルの主張のポイント」「ヘーゲルはルソーの社会の原理を、人間の“自己意識”の原理とつなぎ合わせた」ということ(63頁)、「人は互いに自由な存在であることを認め合うならば(自立的な意志として自由の相互承認を成立させるならば)そのとき初めて「法」や「権利」というものが実効性を持つ。

 

→その前提によって、その決まり(ルール)を破ったとき、破った人間は罰せられることを引き受けるということが、(当為や要請ではなく)自由意志の必然的帰結として出てくる」(145頁)

ということなど、当為や要請を持ち込まず「近代における自由の解放」を説明する竹田青嗣さんの一貫性を感じました。

 

 さらに、『人間的自由の条件』の結論部分でマルクスによる資本主義社会の「仮象暴露」を評価されるとともに、社会変革の必要性に言及され、ヘーゲルとマルクスを対立させることなく現代的に再生させるべきことを示唆しておられることについても、共感して読ませていただきました。

 

 しかしながら、「仮象暴露」というマルクスの営みが「認識論的に」どのように位置づけられるのか、「資本という暴れ馬」がどのように位置づけられるのか、ということなど疑問に思うことがいくつかありました。私自身は、ヘーゲル・マルクスの強靭な理論(弁証法)を現代に再生していくためのすぐれた取り組みとして、サルトル(『弁証法的理性批判』)や竹内芳郎(『マルクス主義の運命』『サルトルとマルクス主義』『国家と文明』)を高く評価しています。竹田青嗣さんも「サルトル・竹内芳郎の理論と対決(あるいは吸収)し、新たな理論形成に生かしていただけないものか」と、期待する気持ちを持っております。

 

 私は、自分なりにサルトル・竹内両氏の理論を理解しているつもりですが、主にその観点から『人間的自由の条件』『よみがえれ 哲学』に対して以下のような疑問点を持っています。(「敬体」ではなく「常体」で箇条書きにします)

 

T.弁証法の復権とヘーゲル・マルクス主義の再生に関して

 

1,ヘーゲル哲学の乗り越えと再生について

 

 西研氏(『よみがえれ哲学』)によればヘーゲル思想の利点と弱点は次のとおりである。「あらゆる世界像や社会制度をすべて精神の現象(精神の具体的な現れ)と見なすことで、それらを内的に理解しうる道を開いた。しかし『精神が自己認識に至る過程』という巨大な過程を想定するがゆえに、閉じた体系が可能になってしまった。」148

 

 このような弱点を乗り越えつつ「ヘーゲル復興(リサイクル)」を果たしていくためには、「社会制度や歴史の内的な理解をすすめながら且つ“閉じた体系”を作らない理論(弁証法)」を探求していく必要があるのではないか。

(サルトルの『弁証法的理性批判』とはまさにそのような理論ではないかと考える。)     

                           

2,認識論の問題について

 

 竹田青嗣氏が『人間的自由の条件』の中で「認識主体の被拘束性について明らかにしたマンハイムの見解」に注目した点には洞見を感じる。しかしその理論を史的唯物論とからめて発展させることが大切なのではないか。いいかえるならば「他者のみならず歴史によって自らの認識をきたえあげる道」を切り開いていくことが大切なのではないか。『人間的自由の条件』はマルクスを評価しているにもかかわらず史的唯物論に対する見解が明らかでない。

 

(竹内芳郎氏は『マルクス主義の運命』中の論文「唯物論のマルクス主義的形態」「弁証法の復権」「マルクス主義における人間の問題」や『サルトルとマルクス主義』において「認識主体を史的唯物論の中に包摂し、おのれの認識も含めて時代的な制約を可知的にする道」「実践弁証法として認識論を形成する道」を模索し理論化している。)

 

3,マルクス主義の乗り越え

 

 竹田氏自身がヘーゲル・マルクスの時代的な制約を語りつつも、それをどう認識論の中に生かすことができるのかが見えない。確かに、両思想をヘーゲル、マルクス自身が生きた時代のなかに位置づけてその意義を明らかにしようとした記述には説得力がある。しかし、竹田氏のその様な考察(知的な営み)そのものが認識論的にどのように位置づけられるのか明確でないように思われる。そこを明確にした上で、両思想を批判的に乗り越え新たな理論を形成することが大切なのではないか。

 

(JPサルトル『弁証法的理性批判』、竹内芳郎『国家と文明 歴史の全体化理論序説』

はその壮大な取り組みだと思われる。)

 

 私自身は以下に要約するような竹内芳郎氏の見解に賛同する。

「唯物論のマルクス主義的形態」

・認識論を(認識主体を)はじめから史的唯物論そのもののうちに包摂する

(歴史の中での人間の実践的な「自覚」として認識問題を取り扱う)

・この包摂によって今度は逆に史的唯物論の中に「主体性の契機」を奪還する

 以上のことを通じて得られる成果

 

 認識は、@歴史のうちに条件づけられた人間の有限な視点からする有限な認識、として位置づけられると同時に、A認識という実践を行う主体的な存在として「人間の主体性」が史的唯物論の中に位置づけられる。

 

※ 投射論的認識論

 竹内氏は人間の認識のイメージを物体へのスポットライトの投射に例える。そうすることで「認識対象(認識されるもの)の客観性と認識主体(認識するもの)の能動性=実践性とが同時に明らかとなるだけでなく、現象(認識されたもの)と物自体(まだ認識されぬもの)との質的同一性も、スポットライトを与えられた物体(または部分)とまだ与えられない物体(または全体)との関係としてみごとに説明されるし、かつ両者の弁証法的関係も部分と全体の弁証法、さらに進んで主体と客体との弁証法(認識における客体に対する主体の否定性とその否定を介しての主体への客体の開示)として、この上なく明らかになる。」

 

(「弁証法の復権」より・・・われわれの認識がつねに対象それ自体についての認識であり、その意味ではあくまでも客観的でありながら、同時に、投光器としての認識主体の存在論的諸条件によっていつも拘束され制約されており、その意味ではあくまで有限であり部分的である、ということを意味する。「ある限定された視点・観点からの認識」

 

 人間的認識の深化の方向には二つの道がある。第1は、対象をよりよく認識するために様々な媒体を創造すること〔例えば肉眼に替る顕微鏡の使用、科学上のモデルの設計、実験など〕。第2は、認識対象よりも認識主体の方へ目を向け、おのれ自身を制約している諸条件を自覚し、自覚することによって従来の認識方法を改変すること。従来の科学、特に自然科学のとってきた道は主として前者であり、これに対して、後者を問題にしてきたのは主として哲学である。)

 

「史的唯物論」は歴史を解明するための社会科学上の「作業仮説」として位置づけられる。この「仮説」の妥当性について、竹内芳郎氏は『国家と文明 −歴史の全体化理論序説−』のなかで徹底的に再検討し、その再構成を試みている。

 

「唯物論のマルクス主義的形態」

 

 史的唯物論は(・・・)歴史と社会の中で生きているおのれ自身についての主体的な自己了解、つまり「自覚」としてのみ成立する。また、およそ「自覚」の構造からくる必須の要請として、おのれ自身を厳密に客観化し、客観そのものの中におのれを科学的に位置づけること−それが史的唯物論の客観主義であり「存在が意識を規定する」というテーゼの真の意味であろう。

 

「マルクス主義における人間の問題」

 あらゆる科学は具体的経験の抽象化として成立するが、そのような抽象化の母体を忘却したとき科学は深刻な人間疎外をもたらす。

 方法的人間主義・・・ 具体的経験の場で感得されるべき生活の充実はいかにして獲得されるか、具体的経験の場で感得されている疎外はいかにして克服されるかを、執拗な科学的抽象化を手段として追求する。

 

『サルトルとマルクス主義』(『弁証法的理性批判』)

 『弁証法的理性批判』の意図は、史的唯物論を『資本論』の弁証法によって再構成することだった。(「精神」や「生産力」の運動ではなく、「認識」を含む「実践」の弁証法を、「構成する弁証法」=個人的実践⇒「反弁証法」=実践が疎外される領域⇒「構成された弁証法」=集団的実践⇒具体的なものの水準〔歴史の場〕という順序で構成する)

 『弁証法的理性批判』のすぐれた論点整理・要約としては『サルトルとマルクス主義』以外に、長谷川宏氏の『同時代人 サルトル』がある。

 

U.歴史認識

 

1,「理想的な」イデオロギーが暴力を必然的にするというのは説得力を持つかどうか。現実の歴史をもっと検証する必要がありはしないか。例えば、「独裁」「恐怖政治」終了後のフランス革命の展開をどのように見るか。7月革命、2月革命はどうか。なぜ、「自由・平等」といったフランス革命の「理念」がその後のヨーロッパ史、さらには世界史において決定的な意味を持ち得たのか。ヘーゲルの『精神現象学』の示唆する「自由の相互承認」という説明だけで充分なのか。

 

2,フランス革命等、歴史的な事件の把握仕方について、ヘーゲルのとらえ方に問題はないか。その点に関する検討は不要なのか。 例)絶対の自由は恐怖政治を必然にする、等

 私見ではヘーゲルの見解には鋭さと同時に抽象的に過ぎる面がある。例えば、モンターニュ派の「独裁」が成立した背景には、対仏大同盟の結成や連合軍のフランス侵入と国内での反乱があったのは周知のとおり。モンターニュ派は「独裁権力」を成立させると同時に、63万人のフランス軍を結成してこの危機を一時的にせよ乗り越えていった。そしてこの結集を生み出すために「下層市民や農民の要求を急速に実現」し(最高価格令、封建的貢租の無条件廃止等)、「反対派の徹底的な弾圧」を行った。市民の多くは、「恐怖政治」におののきながらも「危機的な状況」の中では「反革命派」と見られる「反対派」を弾圧することは「仕方がないこと」だと考えていたという。

 ナポレオンが登場したのも、同じような危機的状況を背景にしていたが「恐怖政治」を行わなかったことは周知のとおり。

 

V.国家論

 「自由の相互承認」(サルトルの場合「相互性」)が現実の国家においてなぜ反対物に転回するのか(転回してきたのか)、明らかにする必要があるのではないか。

 サルトルは『弁証法的理性批判』の中で希少性の環境の中では「相互性」が「敵対性」に逆転してしまうことを解明するとともに、「集団から歴史へ」「制度集団」の中で主権集団(国家)についての解明を行った。竹内芳郎氏は『国家と文明 −歴史の全体化理論序説−』(岩波書店)の中でマルクス・エンゲルスの提起を受け止めつつ分業国家論、幻想国家論を展開すると同時に、人間関係の「相互性」が支配・被支配に転回していく3つの形態について解明した。さらに、(運動の具体的な例示については1970年代という時代の制約はあるが)人類史の新たな方向性(文明転換と支配の廃絶)について見解を明確にしている。『よみがえれ 哲学』の中にも、「環境問題の解決一つとってみても資本という暴れ馬をどのようにコントロールしていくか、という視点が重要だ、」という趣旨の発言が見られたが、竹内芳郎氏の示している結論・展望と通じ合う面もあるのではないか。

 

 以上、大変長々と書籍を引用するとともに私見を述べさせていただきましたが、竹内芳郎氏が「ヘーゲル復興」と評した『弁証法的理性批判』は(難解で未整理な部分も多々ありますが、)竹内氏の関連著書とともにぜひご一読(再読?)いただけないものか、と思っております。竹田青嗣さんがサルトル・竹内芳郎の理論と対決し、新たな理論形成に生かしていかれることについて重ねて期待を表明させていただきます。

 

 いろいろ生意気なことも述べさせていただきました。最後になりましたが、竹田青嗣さんがますますお元気で活躍されることをお祈りいたします。

(「環境に関する取り組み」の一例として、私が所属するNPO「岩美自然学校」など3NPOが合同で出した「岩美町への提言」および、私が5年前に書いた「小論文」も添付させていただきました。よろしければご一読ください。)

                              

 200615日