以下は「湯浅誠のいう“溜め”」についての説明です。

 "溜め"とは溜め池の「溜め」である。大きな溜め池を持っている地域は多少雨が少なくても慌てることはない。その水は田畑を潤し、作物を育てることができる。(・・・)このように"溜め"は外界からの衝撃を吸収してくれるクッション(緩衝材)の役割を果たすとともに、そこからエネルギーをくみ出す諸力の源泉となる。

                                            (『反貧困』78頁)

 

  溜めの機能はさまざまなものに備わっているということで湯浅はいくつかの例を挙げます。

1、お金(充分な貯金)・・・たとえ失業しても当面生活しながら積極的に次の仕事を探す条件であり「溜め」の機能を持つ

2、人間関係の溜め ・・・頼れる家族・親族・友人がいるというのは人間関係の溜め

3、精神的な溜め ・・・自分に自信がある、何かをできると思える、自分を大切にできるというのは精神的な「溜め」

 

  上記の例だけでなく、色々な面で「頑張る(自己実現や自己表現していく)」ために「必要な一定の条件」、「力の源泉や一種のゆとり」をも含みこんだ概念として、湯浅は溜めという言葉を使います。

 

 意見交換・議論においても「相手が落ち着いて自説を述べられるような(しっかりと自己表現できるような)“ゆとりやエネルギー”〈=溜め〉」を増やしていくべきだ、という考え方から表記のような主張(「市民社会の議論のルール・留意点」」が出てくるわけです。

 

 さて、溜めについて、さらに「貧困」との関連についても補足しておきましょう。

 

  「たとえば、お金持ちの家に生まれて、両親がいい人たちでやさしく、頼りがいがあって、自分も自信満々、いつだって『きっと自分にはできるさ』と思えるような人は、お金、人間関係、精神的な溜めが全部そろっているから大きな溜めに包まれている。

  逆に、お金のない家に生まれて、両親も仲が悪く、自分のことなんてかまってくれない。自分もいつもどうしても「どうせおれ(私)なんて・・・」と思ってしまう人は、包んでくれる溜めが小さい。」

(『どんとこい、貧困!』45頁)

 

  湯浅によれば、「貧困」は、単にお金がないことではなく、公的な福祉からも排除され、頼れる人間関係も「自分にはやれる」という自己肯定感も失ってしまった状態(さまざまな溜めが奪われた状態)です。

 

  逆に言うと、たとえお金がなくても、周囲に励ましてくれる人たちがいて、自分でも「やれる、がんばろう」と思える状態であれば「貧困」ではありません。

 

  例えば脱サラして田舎で暮らし、自分たちで田畑を耕しながら趣味を仕事にしているような人たち、子どもは野山を駆け回って地元の人たちと交流しながら楽しく暮らしているような人たちは、たとえひと月の現金収入が5万円であっても「豊かな暮らしをしている」という言うことができます。

 

 しかし、公的福祉・企業福祉からも、家族関係や友人関係からも排除された状態に陥ると、最後は「自分自身からの排除(自分は生きていても意味がない存在だという感覚)」にいたる、それが「貧困」だ、というのです。

 

  このように、各人が持っている溜めは周りの環境等によって異なるわけですが、湯浅は「社会全体の溜めを増やすことによって個人が生きやすい条件を創っていくこと」を主張するのです。