上野千鶴子さんへの疑問

                           緑のお兄さん

 正直言って私、「西部ブロック通信」第15号に掲載された上野さんの文章を読んで少々「カチン」ときました。「知性・論理において自分は優位にある」とか「教えてあげる」という姿勢がみえみえだ、と感じたからです。(例えば、「ここまで言っても、まだものわかりの悪い人たちのために、一つだけ…」といった言葉) 

   

 そんなつもりはない、ということなのかもしれませんが、あの文章のいくつかの表現にカチンときてしまう、私のような短気な読者がいるということについても、若干のご配慮をいただきたいものです。

 

 もっとも、この文章の本題は、あくまでも「黄色いお兄さん」の主張に対する上野千鶴子さんの反論についてのコメントですので、とりあえずは、前者のポイントらしきものを挙げてみましょう。

@上野氏が「自分は論理と概念しか、相手に手渡してやれない」と語る時、それは「論理と概念は人間にとって力をもたらすもの」という普遍的価値信仰が込められているように思われる。

Aだが現実に多くの生徒は、自分が「論理」と「概念」を駆使する能力が劣っている、

という思いに傷ついており、しばしばそれらに対する拒絶反応を示す。

(現実の学校の中で「論理」や「概念」は抑圧的に働いている。)

Bそもそも学校の中におけるマイノリティー(社会的弱者)とは、「自分の論理と概念

の能力を使って、決して勝者になれない者」のことではないのか?

C今の学校現場のような強い優劣関係が働いている場において、「手渡すものが論理と

  概念しかない」という方法によって問題を切り開くことは不可能ではないか   

   

 以上のような主張に対して、上野さんは反論していくわけですが、私の見るところ上記の@,Bに対する反論は明解です。

 

・すべての「論理」と「概念」は、それが公共的なものである点において、なにがしか

「私」にたいしては抑圧的だが、抑圧的な「論理」と「概念」を解放的な「論理」と「概念」に置き換えていくことは可能だ。このことは、「論理」・「概念」を普遍的価値として信仰することとは根本的に違う。

 

・教師の役目は、「論理」と「概念」を形成する能力(情念をも含めて論理的に言語化

する力)を、子どもたちに伝えることではないか。「論理」「概念」の能力に絶対的な優劣をつけるのは誤りで、自分は学生の知性を疑ったことはない。

 

 しかし、このような主張は、あとのAとCに関して「黄色いお兄さん」や一般の読者を本当に納得させるものになっているのでしょうか。少なくとも私にとっては、充分に納得できない部分が残ります。

 

 まずAについてですが、これは、現実の学校の中で教員が生徒に対して「論理」や「概念」を与えようとしても、さまざまな拒絶反応に出会うという体験(「論理的な言葉」で語りかけ「論理」や「概念」の力をつけさせようとしても、最初の言葉そのものが生徒に届かないという体験)から出てきた主張です。したがって、この主張に対して「反主知主義」であるとか、「非論理」や「情念」にたてこもる立場である、と一方的に規定し、それを否定しただけでは何の解決にもならないわけです。もっとも、そのような状況を生み出した責任は、頭の使い方を教えなかった高校教師にもある、とみることは必要でしょう。しかし、上記のような具体的な経験をふまえて(想像して)立論することなしには、上野さんの言葉は多くの読者に対して「届く言葉」にはならないでしょう。ちょうど学校現場で教員の「論理的」な言葉がなかなか生徒に届いていかないように。

 

 次にCについてですが、これはA以上に根本的な疑問であると言えましょう。私自身は黄色いお兄さんに賛成で、「手渡すものが論理と概念しかない」という言葉に対しては、「かなり一面的ではないか」という違和感を感じます。もっとも、その言葉は「実体としての論理・概念を手渡す」ということではなく「論理や概念を形成する力(情念をも含めて論理的に言語化していく力)を育てていく」というかなり広い意味に理解しなければならないでしょう。

 しかしながら、AやCの疑問に本当の意味で答えていくためには、「支配的な論理・概念に対抗する解放の論理・概念とはいかなるものか」「現在の状況の中で、いかにすれば後者の論理・概念を生徒たちに伝えることができるのか」ということを明らかにする必要があるのではないでしょうか。その事によって上記の「違和感」も解消されるはずです。

 

 それでは、「支配的な論理に対抗する解放の論理」とはいかなるものなのでしょうか?それが「具体的経験(生活)に根ざした論理」であるということは、一つの重要なポイントとして挙げられるのではないかと思われます。

(例)公共事業で、生活の場を奪われようとしている農民と議員とのやりとり。

 

「皆さんの代表が決めたことですから、それに反対することは議会制民主主義に反することです」という議員に対して農民は「あんた方に水道や道路のことはまかせた覚えはあるけれども、命まで預けた覚えはねエ」「あんたらがわれわれに「ご理解」を求めるのは、一方的な決定を白紙に戻してからの話だ」と言い放ち、議員が黙る。

 これは、あくまでも一つの例ですが、具体的経験(生活)に根ざした論理というものは、支配的な論理に対して充分に対抗できるものではないでしょうか。

 

 次に、論理・概念を生徒に伝えていく方法について、「民主主義」を例に述べてみたいと思います。まやかしのものでない「民主主義」というのは、重要な「解放の論理」でありうると思われますが、それはどのようにして伝えられるものなのか。例えばルソーの「社会契約論」で展開されている「人民主権」・「直接民主主義」の論理を理解できるように伝えていく、ということも重要な一つの方法でしょう。しかし、この民主主義を理解するためには、それとは別の道(行動・体験することを通して民主主義を体得する)が必要であると思われます。

 

 8月1日に開かれた高生研全国大会の「北方教育と集団作り」の分科会では、(大まかには)次のような方法が提起されました。@まず生活台(具体的経験)を見つめさせる。(個々人の生活体験についての作文や、地域の人々への聞き込み調査など)Aそこから出てくる共通の問題・課題を確認し、討議・決定を経て、それらを乗り越えるための集団的な取り組みを行う。(生活の中から出てくる問題を素材にしたHRの集団活動や、地域の問題を素材にした演劇の作成・上演など)B行いえた活動・行いえなかった活動について総括を行う。

 

 このような方法は、具体的経験に根ざした「民主主義」の論理を生徒が本当の意味で獲得していくためには、不可欠であるように思います。その際、もちろん具体的経験を論理化し概念化していくことは非常に重要なのですが、「解放の論理」を獲得していくためには「手渡すものが論理と概念しかない」という方法を越えていくことが必要なのではないでしょうか。

 

 次に、論理・概念を生徒に伝えていく方法について、「民主主義」を例に述べてみたいと思います。まやかしのものでない「民主主義」というのは、重要な「解放の論理」でありうると思われますが、それはどのようにして伝えられるものなのか。例えばルソーの「社会契約論」で展開されている「人民主権」・「直接民主主義」の論理を理解できるように伝えていく、ということも重要な一つの方法でしょう。しかし、この民主主義を理解するためには、それとは別の道(行動・体験することを通して民主主義を体得する)が必要であると思われます。

 

 8月1日に開かれた高生研全国大会の「北方教育と集団作り」の分科会では、(大まかには)次のような方法が提起されました。@まず生活台(具体的経験)を見つめさせる。(個々人の生活体験についての作文や、地域の人々への聞き込み調査など)Aそこから出てくる共通の問題・課題を確認し、討議・決定を経て、それらを乗り越えるための集団的な取り組みを行う。(生活の中から出てくる問題を素材にしたHRの集団活動や、地域の問題を素材にした演劇の作成・上演など)B行いえた活動・行いえなかった活動について(討議・決定の過程も含めて)総括を行う。

 

 このような方法は、具体的経験に根ざした「民主主義」の論理を生徒が本当の意味で獲得していくためには、不可欠であるように思われます。その際、もちろん具体的経験を論理化し概念化していくことは非常に重要なのですが、本当のいみで「解放の論理」を獲得していくためには「手渡すものが論理と概念しかない」という方法を越えていくことが必要なのではないでしょうか。

 

 最後に、論理言語の意義を充分に認めながらも、それを具体的経験の中で相対化することが大切だ、という観点から(竹内芳郎「言語・その解体と創造」の受け売りですが)若干の補足をしておきます。いうまでもないことですが、論理・概念というのはいつでもどこでもその力を発揮するわけではありません。

 

 論理や概念を形成する言葉(論理言語)が、純粋にその威力を発揮するのはいわゆる文書態(書き言葉)においてであって、日常のコミュニケーション(話し言葉)の場合は、論理・概念以外の様々な要素(身振り,顔の表情,まなざし,発話のタイミング,声の大きさ,高低,調子,沈黙,間など、どのような状況でどのように話すか)が大きな意味を持ってきます。従って、ここにおいては論理的な言語能力だけでなく、状況に応じた適切な発話を生み出す能力(コミュニケーション能力)をわれわれや生徒がいかに獲得していくか、ということが重要な課題として確認できるでしょう。

 

〔(高生研全国大会での藤本卓氏の報告)「昔、村の寄り合いでは論理ではなくたとえ話によって、説得や話し合いが行われた」といったことも注目に値する〕

 

 また、文書態(書き言葉)のレベルにおいても、具体的経験に根ざし、それを表現する言葉(又は、それを異化する言葉)というのは論理言語だけではありません。直接に想像力や心情に訴える言葉=文学言語(典型的には詩的言語)も重要なものとして確認しておく必要があるでしょう。例として挙げられている「胎児はウンコだ」という言葉もそれ自体は論理・概念ではなく、むしろ後者に属する言葉(メタファー=隠喩)だと思われます。もちろん、時には(例えば上野さんのように解説をする場合)そのような文学言語・詩的言語を論理化・概念化していく力も大切なのでしょうが、文学や詩を読んで共感できるような想像力・感性や、文学言語・詩的言語を形成する力は、論理・概念だけでは得られない大切な力なのではないでしょうか。