環境問題はなぜウソがまかり通るのか』について考える

                       

以下の考察は、ベストセラーになった武田邦彦氏の著作『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社)についての批判的な検討を意図したものである。

 

 今月(2007年9月)のはじめ、私は、書店でアル・ゴア氏の『不都合な真実 ECO入門編 地球温暖化の危機』を買おうとしたのだが、そのすぐ横に積んである『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』が目にとまった。「環境問題は人をだましやすい!」からはじまって「資源7倍、ごみ7倍になるリサイクル」「地球温暖化を防げない京都議定書―」「アル・ゴア氏にとっての『不都合な真実』も次々に明らかになる」等の刺激的なコピーが並んでいる。自分自身、環境問題への真摯な取り組みの必要性を強く感じていたこともあり、正直なところこの本の表題やキャッチコピーの印象は悪かった。しかし、それを購入して読むことにしたのは「異論によって自分自身の認識・意見を鍛え上げていくこと」は大切であると感じたからである。実際、この著書を読むことで学べることはあった。「知らず知らずのうちにウソをつく」ことをなくすためにも事実を確認することが大切である、ということも感じた。しかしながら、内容にさまざまな問題があり、マイナスの影響を多くの人たちに与えることも危惧された。

 

 例えば「環境問題を自分の問題としてとらえ、真剣に取り組んでいきたい」「アル・ゴア氏の『不都合な真実』を読んで行動に一歩踏み出すこと大切さを感じた」と考えている人たちに戸惑いを与え、「何をしてもあまり意味がないのか」という無力感を与えかねない。また、「今君たちが一生懸命やっている環境配慮活動はすべて無駄なのだよ」というシニシズム(冷笑主義)を広げかねない、という危惧である。

 

 Introduction「環境問題が人をだます時」で武田氏は「地球にやさしいはずの環境活動が錦の御旗と化し、科学的な論議を斥け、合理的な判断を妨げているとしたらどうだろうか。環境活動という大義名分の下に、人々を欺き、むしろ環境を悪化させているとしたら−。」という問いかけを発し、「(…)国としての誠実さこそが日本を救う。だから、まず私自身が誠実でなければならないのだ。(…)読者の方にとっては驚く内容が多いと思うが、事実を知ることはいつの世でも大切である。」と述べている。

 

 著者のそのような意図を疑う理由は特にないが、ある部分で「正しい」理論も少し具体的・実践的に視野を広げて見直すと「妥当でない(正しくない)」あるいは「有害な」言説となることもありうる。私は、環境に関する「科学的な専門家」でも何でもないが、それでもわかるような問題点がこの著書の中には数多く含まれているのである。

 

 わたしがこのような考察を文章にする意図は、『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』に学ぶべきは学びつつ自分なりの異論を明確に提示することであり、そのことを通じて「危惧したような事態」に少しでもブレーキをかけることである。たしかに、このような著書が出されたことは、「本当の意味で環境にいい活動・生活」について問い直すチャンスであり、私のような人間にとっては異論によって自分自身の認識・意見を鍛え上げていくチャンスでもあった。

 

 不毛な論議や、いたずらな無力感、シニシズム(冷笑主義)に陥ることなく、子孫のためにもこの自然環境・社会環境をよくしていくこと、そのために私たちが一緒に力を合わせていく方向へ歩んで行きたいものである。

第1章「資源7倍、ごみ7倍になるリサイクル」の中で展開されている「リサイクルしたほうが良いものと悪いもの」がある、という主張についてはそのとおりであろう。第1章の「表題」の表現も含めて、ところどころに乱暴と思える主張もあるが、リサイクルすればいい、という風潮を問い直していくための一石としていけばよいとは思う。

 

第2章「ダイオキシンはいかにして猛毒に仕立て上げられたか」は、報道機関に強く自戒を求める内容であった。マスコミ等の影響力が時に暴力的な意味を持つ、ということについては、情報の送り手も受け手も充分に考えなければならない問題であろう。

 

ただ、第3章「地球温暖化で頻発する故意の誤報」以降の記述、展開にはもちろん学べる点もあったが、問題点も多いと感じた。地球温暖化問題など特に気になった点を中心に述べていきたい。

 

第3章「地球温暖化で頻発する故意の誤報」に関して

 

「温暖化で一体、我々はどうすればよいのか?」

 

 武田邦彦氏は、134頁で温暖化の本質について次のように述べる。

 「石炭や石油は何億年という長い時間をかけてつくられてきた。それを今の人類は200年で使い尽くすと言われている。例えば、2億年かけてつくられたものを200年で使うとすると、その倍率は100万倍である。地球の空気の中にある二酸化炭素を2億年かけて植物の体に移し、それを200年で戻そうとしているのである。やっていること自体は問題ないが、そのスピードが速すぎ、その量があまりに巨大すぎるというのが地球温暖化問題の本質である。」

 

 上の記述はまったく妥当な見解であり問題も明確である。しかし、この後の展開の中で論述の力点は「問題をいかにして解決(あるいは軽減)するか」という方向ではなく「すでに流通している情報のウソや疑わしい点を暴く」ところに置かれてしまっている。その結果、まったく妥当な問題の把握から出発しているにもかかわらず、問題の解決や軽減にマイナスの影響を発揮しているように見える部分が多々ある。

 

「節電すると石油の消費量が増える?」(136頁)

 

ここで武田氏が述べている趣旨は、「節電をしてもあまったお金を銀行に預ければ、それが民間企業への融資等に使われた上に、後々自分で引き出して使うことになるので、結果として石油の消費量が増える→したがって節電すれば石油の消費量が増える」というものである。 

 

しかしながら「問題の解決(軽減)のために、二酸化炭素の排出を可能な限り減らす」という立場に立てば、むしろこの主張から何をすればいいのかが見えてくる。質素な生活をし、余ったお金は(しっかりと調査・確認をした上で)自分が支持できる団体(例えば、持続可能な農業を軌道に乗せるべく日々奮闘している団体、それらの活動をコーディネートしている団体、NPOや企業も含めて環境への配慮を真剣に進めている団体)に投資・融資・寄付などをすればよいのである。

 

ちなみに、私自身、節電などできる限り質素な生活に努め、通勤や外出にもJRやバス・自転車を用いるようにしているが、上記のように自分が節約して生み出されたお金がどのように使われるのかを考える必要がある。この点で確かに武田氏の主張はもっともであるが、経済原則のもう一つの面に目を向けていないのではないか、と思える。それは、需要がなければ供給は増やせないということである。つまり、多くの消費者が「できるだけ質素な生活に努め、不要なものは買わない」という消費行動をとれば、民間企業は仮に多くのお金が銀行にあったとしてもその資金を使って設備投資⇒生産拡大をどんどん進めていくわけにはいかない。逆に、多少高くても地元産の(旬の)安心できる農産物を買う、という消費行動をとれば地域の農業を支え・発展させていくために役立つ。結局、考えるべきことは自分のお金をどのように使い、どのような消費行動をとるかであり、やり方によっては環境を良くするためにしっかりと寄与できるわけだ。 

 

「森林が二酸化炭素を吸収してくれるという論理の破綻」(139頁)

 

 武田氏の主張を要約すれば、「成長の過程で木が吸収した二酸化炭素は、最終的に分解される時点で同じ量の二酸化炭素を出す→したがって木は二酸化炭素を吸収しない」ということであり理論的にはそのとおりだともいえる。しかし、間違いなく成長過程で二酸化炭素を吸収するわけだから、現時点で二酸化炭素の増加を軽減するためにできることはいくつもあるはずであり、その展望をこそ示すべきなのではないのか。

 

@    現在荒れている人工林を間伐によって手入れし、できるだけ長期にわたって生き生きと森林が成長していくように管理する。(いくつかの自治体では、このような取り組みを進めていくために「森林環境保全税」を設置し、森林の管理に力を入れている。また、一部の間伐材をガードレール等に活用している→分解される時期は将来になる)

 

A    地元の森林を計画的に活用し、計画的に植林を行う。できれば、100年以上の長期にわたってつぶれない家屋等を伝統的な工法で建設し、最終的に発生する廃材は燃料として活用する。熱帯材が減少するなか、地元の森林の活用は政策として具体化していくことが必要である。これが進めば海外から輸入する木材の量が減少し、輸送に必要となるエネルギーや排出される二酸化炭素も減少する。

 

アル・ゴア氏は『不都合な真実』の中で、森林の保全政策を進めている国とそうでない国の現実の植生を映像で示しているが、森林の破壊や乱伐をやめて長期にわたって森が生き生きと成長していくような政策をとることは、現時点での二酸化炭素排出量を減らすことにつながるはずである。武田氏の述べ方は、森林保全政策に意味がないかのような誤解を与える。

 

極端な話、「地球上の森林すべてが火事や乱伐によって壊滅したとしても、それまで森林が吸収した二酸化炭素を放出するだけだから二酸化炭素の量は変わらない」と理論上は言えるが、そのような言説は有害無益であろう。森林を壊滅させるのと、長期にわたって生き生き成長する森林を育て増やしていくのと、どちらが地球環境の急激な変化を抑制できるのか? あまりにも自明ではないか。

 

「形だけの環境改善を我々は望んでいるわけではない」(143頁)

 

 表題を見ればそのとおりである。しかし、すべて十把ひとからげにして「形だけ」だと断定することにいかなるメリットがあるというのか。しかも、以下のような意見は十分な根拠に基づいたものではなく多分に直感的なものではないか。たとえば、次のような記述−「つまり、本気でやる気がなく、ただ言っているだけなのだ。」「(誰も環境なんかよくしようと思っていませんよ、と発言した)その先生は政府や専門家、マスコミの本音をお話になり、自治体の職員は庶民の感情をそのまま言ったともうけとめられるであろう」これなどは武田氏の憶測、まして、全員の本音がそうであるというのはまったく不確かな憶測に過ぎない。

 

「人は信じるな」といわんばかりの主張を撒き散らすことが、果たして著者の望むような社会を作っていくことにつながるのだろうか? 武田氏は、森林や環境を本気で保全しようとする自治体や各種団体(NPOだけでなく公的機関の職員も)の活動、それを支持する報道機関の人々の姿勢をもう少し調べ確認していってはいかがだろうか。(例えば、鳥取県や島根県には「森林保全の必要性について報道するだけでなく、実行委員会の中心となって森林保全活動を推進し、社員が汗を流している地元の新聞社」も存在する。)

 

ちなみにわが鳥取県も「森林環境保全税」を導入した都道府県のひとつである。地元の企業やボランティアの支援、地元紙の報道なども背景に、森林の公益性や保全活動の大切さについての県民の意識は高まりつつあるようである。この取り組みは、長期的には木材の地産池消を目指したものである(県産材を用いて家を立てた場合には60万円の助成がなされている)が、たとえすぐに県産材の活用がうまくいかなくとも、間伐・手入れをすることで長期にわたって生き生き成長する森林を育てることは、二酸化炭素の排出(増加)のスピードを大幅に遅らせることができる。

 

確かに、国の動きは鈍いと感じられる面はある。片山前知事や橋本高知県知事を含めて複数の人たちが地方からの問題提起・発信の重要性を強調している。

 

「科学的知見に反する現代のおとぎ話」(145頁)

 

「水の中に含まれる水素を使おうとしたら…水素と同じ量の二酸化炭素が出る。」

 それは、そのとおりだろう。いかなる方法で水素を得るにしても、エネルギーが必要なことは確かだ。しかし、たとえば「天然ガスから水素を取り出す」という方法を用いた場合、環境負荷の軽減(二酸化炭素の削減)につながらないかどうかは、きちんと数値を出して検証すべきであろう。 

 

例えば、東京ガスが開発した家庭用の燃料電池コージェネレーションのエネルギー効率が71%、大阪ガス製(ガスエンジンを用いたコージェネレーション)のエネルギー効率が85%となっていることを見れば、天然ガスを直接用いるほうがよりエネルギーの活用という面では効率的だと考えられ、使用エネルギーの節減については優れているようだ。ただ、最終的に活用されるエネルギーの量と排出される二酸化炭素量はイコールとはいえない。(燃料電池の場合エネルギーと水しか発生させない過程も含んでいるのだから。) 

 

また、いずれの装置においても一般の電気温水器などと比較して二酸化炭素の排出量は大幅に削減できるようなので、質素な生活によって余ったお金で(老朽化した温水器に替えて)家庭用コージェネレーションを購入するというのも有力な選択肢であろう。

 

「新幹線を使えば飛行機よりも二酸化炭素の発生量が十分の一になる?」

 

「鉄道網整備には多大なエネルギーを消費している」という指摘はその通りであろう。

しかし、鉄道網の整備されている現時点で、時間的な条件等に問題がない場合どのような交通機関(車、飛行機、鉄道)を用いるのがよりよいか。地下鉄網が整備されている首都圏での通勤に、車と電車のどちらを用いるのがいいのか、無駄な二酸化炭素の放出をこれ以上増やさないためには自明ではないだろうか。

 

 どうするのがより良いか?(よりましか?)という視点が示されないため、シニシズム(冷笑主義)に陥る危険性が大である。また、著書全体として「おまえら全くわかっていない。俺はわかっているよ。」といった優越感を伴ったメッセージを感じるのは私だけだろうか。最悪の場合、「何をやっても無意味だよ」という風潮が広がりかねないことを危惧する。

 

 

「地球温暖化はどの程度危険なのか」 151頁

 映画『不都合な真実』で映示されていたグラフからは現在の二酸化炭素濃度が過去65万年の中で異常に突出していることが読み取れた。だが、確かにシダ植物の全盛時代であった「古生代石炭紀」の二酸化炭素濃度ははるかに大きく、平均気温35度という高温期にどんどん光合成を行いながら巨大な植物が繁茂したのであろう。事態を冷静に把握するためにはより大きなスケールで地球の歩みを振り返ることが必要だ、という主張は理解できる。

 

 ただ、冒頭でも引用したように「地球の空気の中にある二酸化炭素を2億年かけて植物の体に移し、それを200年で戻そうとしているのである。(…)そのスピードが速すぎ、その量があまりに巨大すぎるというのが地球温暖化問題の本質である」とすれば、そのスピードをいかにして緩和するか、ということは重要な問題ではないのか?

 

 また153頁には「騒がれている地球温暖化というのは現在の15度が最大で17度になるぐらい」とあるが、そのように断定する根拠は明確なのか。おそらくIPCC第4次報告を充分検討されないまま著書を発行されたのであろう。「報告」によると2度上昇以内というのは、現在のエネルギー浪費型の経済活動や生活を転換できた場合の数値で、転換できなかった場合は4度前後上昇する(最悪6.4度)ということである。

 

 「あまりに変化が急速であるため1度2度であっても問題だ」とする武田氏のことであるから「今世紀末に4度上昇」の悪影響を否定されることはないであろう。4度上昇という予測は大き過ぎる、という見方も当然あるが「永久凍土の溶解に伴う二酸化炭素の大気中への放出」(実際に観測されている)などを考えれば、「不安をあおるために誇張された数字だ」などと断定することはできないであろう。

 

 また、武田氏は「数メートルの海水面の上昇」という主張は非科学的と断定するが、必ずしも断定できない根拠をIPCC第4次報告から抜き出しておこう。

 

@「古気候に関する情報によって、(・・・)長期間にわたり、現在よりもかなり温暖だった最後の時期(約125,000年前)には、極域の氷の減少により4〜6mの海面水位の上昇がもたらされた。」

A「氷床コアのデータによれば、その期間における極域の平均気温は、地球の公転軌道の違いにより現在より3〜5℃高かったことが示されている。」

B「グリーンランドの氷床や北極の他の氷雪域の観測された海面水位上昇への寄与は多くとも4m程度である可能性が高い。南極からの寄与もあった可能性がある。」

C「最近の観測結果が示唆する氷河に関係した力学的な過程によって、昇温によって氷床の脆弱性は増加し、将来の海面水位上昇がもたらされる可能性がある。しかし、()その規模についての一致した見解は得られていない。」

 

 以上のことから読み取れることは、(1)今世紀の温度上昇に伴う「極域の自然な氷解」の結果生じる海面上昇の規模がIPCC報告では最大58cm」との予測が存在するにしても、「力学的な氷床の脆弱化と氷の流出」については厳密な予測が不可能であるということ、(2)125,000年前の古気候に関する情報から類推して、極地の3〜5℃の温度上昇が4〜6mの海面水位の上昇につながることもありうる、ということである。

 

〔ちなみにIPCC第4次報告書によると、現在のエネルギー浪費型の経済活動や生活を転換できなかった場合、今世紀末に気温は4度前後上昇する(最悪6.4度の上昇)ということである。〕

 

IPCC報告からの引用文Cに記載されていたような「力学的な氷床の脆弱化と氷の流出」については『不都合な真実』の中でアル・ゴア氏がその可能性〔グリーンランド内陸の氷河に生じた裂け目が流水とともに地下に向かって拡大し、氷塊が岩盤から滑り落ちる〕を図示している。南極大陸における棚氷の崩壊も、温度上昇による自然な融解ではなく「力学的な氷の脆弱化・崩壊」として理解できる。 

 

また、2007年8月17日の各紙の報道によると、北極海の氷の縮小がIPCCの予測をはるかに超えた速度で進んでいるという。その背景としては北極海周辺の気温上昇または海水温の上昇が考えられる。これらの情報を考え合わせると、今までの「常識」だけで「グリーンランドや北極海沿岸の氷河の減少により4〜6m海面が上昇する可能性」について100%「非科学的」と断定することはできないのではないだろうか。

 

「京都議定書くらいでは地球温暖化を防げない」 156頁

 

 そのとおりであるが、「京都議定書で地球温暖化を防げる」といった嘘をつく科学者や政府関係者が横行しているならともかく、とりたてて強調する必要もないことである。

 2012年以降の削減の枠組みが国際的に論議されつつあることからしても、上記のような誤解についてはそれほど心配される必要はないと思う。

 

EUは独自の試算により産業革命開始時から2℃を越えて温度上昇が生じると、大きな悪影響が発生すると判断している。(気候変動ファクトシート)また『ニューズウィーク(日本版)』(平成19年2月7日号)は、2℃以上の気温上昇が生じれば、永久凍土の氷解→二酸化炭素の大気への放出→温暖化・氷解の加速という悪循環によって重大な影響が生ずる、という趣旨のことを述べている。「(グリーンランドの)氷床の融解が一定以上進むと、太陽光を反射する氷の冷却作用が弱まる。その一方、黒っぽく露出した地面や海水が、熱を吸収するようになる。すると凍土に閉じ込められていた二酸化炭素が大気中に放出され、極地の温暖化を加速する。氷は自己増殖的に解け始め、それがさらに地球の温暖化を促進させるという悪循環に陥る」というわけだ。

 

そして、EUが算出したシミュレーションによると、大気中に含まれるCO?の量現在は380ppmを、約450ppmで安定させることができれば、50%の確率で2度上昇を回避できる。そのためには、CO?の排出量を1990年水準の半分(50%削減)にする必要があるというのだ。

 

当然、京都議定書などはひとつのステップに過ぎないことになるが、その後もにらみながらEU諸国は着実に二酸化炭素の削減の実績を挙げており、私としてはそのような提言や姿勢を支持するものである。ただ、日本が全く実績を挙げていないのは大変残念なことであり、このままでは国際的な信用も全く失ってしまう、という指摘はそのとおりであろう。

 

根本的には、公費を用いてペットボトルのリサイクルをするというようなやり方も含めて見直しつつ、例えば@リュースびんを用いた商品の税率を極端に下げ、自販機で販売される缶(ましてやペットボトル)など無駄が多く大量生産・大量消費につながるような製品の税率を上げる、A公共交通機関や自転車で通勤する人が優遇され、マイカー通勤者が炭素税など多額の負担を負うようにする、B第1次産業の振興に適切な形で公的予算を支出し、農産物や木材の「地産地消」を進めていくなど、「心がけ」や「掛け声」に終わらせない改革を進めていくことが必要であろう。

 

「地球温暖化よりも大切なこと」 

 

 「地球の気候が急変すれば気象災害も起こるし、南の国ではマラリアも増える。水位の低いところや(…)水面ぎりぎりの所は水浸しになる。(…)原因は日本やアメリカを中心とする先進国の人たちの無制限なエネルギーの使用だ。」(164〜165頁)

 

 上記のような主張はいたってもっともだと思われるが、その後一つの結論として武田氏は次のように述べる。「少しでも得しよう、お金をもうけようとしたりせず、人生にもっと大切なこと−家族、友達、ゆったりした時間−そんなことを大切にしていれば、地球温暖化は自然消滅する。“二酸化炭素の排出量の目標”などをつくってしかめっ面をしていると、この問題は解決しない。」(166頁)

 

述べたいことの趣旨は想像できる。「人々が強い危機感(地球環境問題に関する)に追い詰められて心の余裕を失い、数値目標達成に振り回されるようなことになれば、結局、人として生きていくうえで大切なものを見失ってしまうことになる。人生にもっと大切なこと−家族、友達、ゆったりした時間−そんなことを大切にしていくことで、地球環境問題は消滅していくのだ。」ということであろう。なるほど、強い危機意識を背景に自分自身も周りの人も追い詰めてしまうような、一部の環境運動家を私も知っている。また、私自身も『ニューズウィーク(日本版)』(平成19年2月7日号)の主張に触れて、正直「あせり」を感じていた面もあるので自戒したいと思う。

 

 しかしながら、そもそも二酸化炭素削減の「数値目標」をたてて取り組みを進めていくことと、武田氏の言う「人生にとって大切なこと」は両立不可能なのだろうか。私は両立可能ではないか、と考える。

 

環境保全や二酸化炭素削減を目指して真剣に取り組んでいるNPOは、全国で数千は存在するといわれる。活動の中心になっている人たちの多くが共有していると思われる考え方は、いわゆる「スローライフ」の大切さである。「環境運動」を行う多くの人たちは必ずしも眉を吊り上げて自分を駆り立てているのではなく、そもそも人生や生活にとって大切なことは何か、という原点に立ち返りつつ「自然との関わり方」や「生活仕方」の見直しを進めているようにみえる。

 

武田氏の信用しないマスコミがらみではあるが、『NHK地球だい好き 環境新時代』(日本放送出版協会)のなかに具体的な取り組みが数多く紹介されている。私自身も、今は自家用車をほとんど使わず、暑い夏にはなるべく扇風機を用い冷房をつける場合にも設定温度は29℃から30℃、水を含んだ生ごみは庭に浅く埋める等々、できることは取り組んでおり二酸化炭素排出量は一般家庭の3分の2程度かもしれない、と思う。しかし、子どもと一緒にバスを待ったり家庭菜園を作ったり、JRのなかで本を読んだりと、以前よりもゆったりした気分で生活している。

 

 高い数値目標をあげて取り組むことと、いわゆるスローライフが両立するかどうかは、EU諸国、特にドイツの事例が参考になるだろう。ドイツでは「古いものに価値がある」ということでおもちゃや古着を販売するフリーマーケットは大人気、海外旅行よりも国内旅行が奨励されグリーンツーリズムが盛んである。また、農業政策であるが「(ドイツの)州政府はあらゆる方法で農村を支援し、八〇年代の始めには現在のEU(ヨーロッパ連合)の農業政策に先駆けて、環境保全型の農業経営に補償金を支払う制度を実施した。


 このような背景から、八五年のECの「共通農業の政策展望」では、農業の集約化の反省と共に環境保全型の農業への転換が示唆された。(…)EC理事会は八九年バイエルン州から提出されていた「田園景観維持計画」を採択した。」ということである。

 

(『ドイツの分かち合い原理による日本再生論』 関口博之著 より)

1990年比で20%近くの二酸化炭素削減に成功しているドイツの現状から、目標数値にとらわれてあくせく振り回される生活とは別の「豊かさ」を感じるのは私だけではないだろう。

 

 ところで、武田氏は54頁に具体的なデータを示しつつ、一人当たりの資源消費量が日本の2倍であることをもって、「ドイツに学ぶ必要はない」という趣旨のことを述べておられるが、「上記のような取り組みを全く評価できない、」とは言われないのではないか。

 

 私の想像であるが、日本において一人当たりの資源消費量が少ないのは二度のオイルショックを経て、資源を海外に頼る日本企業が徹底的に省エネルギーや生産の効率化に努めたからではないか、と思われる。電化製品の効率化や乗用車の低燃費化なども早い段階で進んでいる。ただし、そのような「企業努力」の一方で「生活仕方の問い直し」はなかなか進まず、家庭でのエネルギー消費量は少なくない。資源消費量が少ないにもかかわらず一人当たりの二酸化炭素排出量がドイツと変わらない(ドイツ2.66トンに対して日本2.64トン『世界国勢図絵』20062007年版)のはそのためではないだろうか。

 

 劣等意識に凝り固まる必要はないが、「学ぶべきは学ぶ」という姿勢のほうがより生産的であろう。

 

第4章「ちり紙交換屋は街からなぜいなくなったのか」に関して

「森林資源破壊の元凶にされてしまった紙」 170頁

 

 171〜172頁の記述の中で武田氏は「日本人が使っている紙の原料のほとんどは先進国の森林から採られたものであり、守らなければならない開発途上国の森林からではないのだ」として紙のリサイクルが実にバカらしいことであり、さらには「環境運動が環境を破壊している」と断じている。ここでは、@環境運動が環境を破壊しているのか、A紙のリサイクルに全く意味がないのか、の2点において述べてみたい。

 

@    環境運動が環境を破壊しているのか?

 次の文章は住友商事のホーページ(環境マネジメントシステム)から引用したものである。

チリ、南アフリカ、エクアドル等における海外植林
森林は、人類の生活を支える重要な資源を提供するとともに、それ自体が持つ多様な機能は、地球環境の保全と密接に関連しています。植林事業は、二酸化炭素の吸収源としての森林の涵養を促進することになり、地球温暖化防止策の一つとしても世界的に注目されています。当社は、製紙原料用チップのサステイナブルな確保を目的として、チリ、南アフリカ、エクアドル等でアカシアやユーカリの植林事業を展開しています。」

 

 現在、多くの製紙会社が熱帯ないしは温帯(主に開発途上国)で植林活動を行っている。このような活動の背景には「環境運動」があると思われるが、森林の成長の早い地域で計画的に植林・伐採を行いパルプの原料を確保する活動は、環境にとってマイナスになるとは言えない。輸送や製紙の過程で二酸化炭素を出すことは避けられないが、バクテリアの分解等による二酸化炭素の発生はなく、植林された木々の生育過程では当然二酸化炭素を吸収する。確かに「紙が熱帯林破壊の元凶」といった誤解の訂正は必要であろうが、「環境運動が環境を破壊している」とは単純に言えないであろう。

 

ただ、計画的に植林・伐採が行われてきた北欧の人工林が無駄に捨てられているというのは問題である。建材やパルプも含めて国内や近隣の国々で適度に活用していくことが望まれる。

A紙のリサイクルに全く意味がないのか?

 

 同じく住友商事のホームページからの引用である。 

古紙再生事業
古紙を使用してパルプを作ると、必要なエネルギー量は、バージンパルプ製造の6分の1から7分の1といわれています。」 (注 : 末尾参照)

 

また「環境白書」によれば、古紙リサイクルの場合75%のエネルギーが節減できるということである。数字に多少のずれはあるが、紙のリサイクルがエネルギー節減につながることは間違いないようである。また、北欧などの遠隔地から輸送するエネルギーも節減できる。製紙会社の示している数値は輸送にかかるエネルギーも考慮している可能性はあるが、いずれにせよ二酸化炭素の排出を抑制するという点では、古紙リサイクルも立派に「環境配慮活動」となっている。(注 : 同上)

 

ついでに言うと「チリ紙交換車」は、私の町にも結構頻繁に回ってくる。「お金になりますか?」と業者の方に質問したところ、「食べていくには困りません」とのことであった。「環境運動」を背景に再生紙の需要が増えたためであろうか。

 

また、私の居住する町でも1〜2ヶ月に一度は子ども会・町内会で古紙回収をやっている。古紙リサイクルに上記のような「環境配慮活動」としての意味があるとすれば、それを子どもも大人も協力しながら「地域ぐるみ」でやっていくことには、武田氏の主張する「古きよき社会や地域」を存続させていく上でプラスになる面も多いのではないだろうか。私自身、町内の大人・子どもと一緒に回収活動をしながら、そのような意義を実感している。

 

第5章「環境問題を弄ぶ人たち」に関して

「石油が枯渇すれば地球温暖化は自動的に解消する」

 

 冒頭、温暖化についての武田氏の考えを引用させていただき「妥当な見解である」とコメントさせていただいたが、末尾(209頁)に述べられている石油が枯渇すれば地球温暖化は自動的に解消する」というのは明らかな間違いであり、そのことは武田氏自身もよく理解しておられるはずである。古生代に1億年以上かけて植物の体に蓄積されたエネルギーは石炭となって地下に埋まっている。

 

石炭は現在、世界の1次エネルギー消費の約3割を占めているが、確認埋蔵量は熱量換算で比較しても石油の3倍以上、可採年数は約200年である。(古生代石炭紀の環境の中で膨大な量の植物が繁茂したことを考えると、未確認の埋蔵量も石油をはるかに上回ると思われる。)さらに、石炭をそのまま燃やすだけではなく(エネルギーを使って)液化・ガス化した後に、石油と同じようにどんどん使われるとすれば、この百年・二百年で引き起こされる急激な変化は大きな問題をもたらすであろう。

 

「石油を使う量を減らすことだ。それぐらいは言い訳せずに子孫のためにやりたいものである」(200頁)という点については大賛成であるが、石炭についても当然考慮する必要がある。

 

 

205頁「農業の衰退と自国で生産されたものを食べないことによる弊害」で主張されている内容、206頁「身土不二的な暮らしの大切さ」(身土不二…自分の足で歩ける3里から4里範囲の地域の食材を食べることがもっとも健康によいという考え方)、「食料自給率を高めることの必要性」や208頁の「工業収益の一部を農業や漁業に還流すべき」という主張については、ほぼ全面的に賛同できる。「身土不二」という言葉に象徴される「古来の生活様式や知恵」に学ぶことも大切であろう。ただその場合、経済や社会の構造が大きく変わってしまっている現在、農業政策等で成果を挙げている他国(EU諸国など)の取り組みにも謙虚に学ぶべきであろう。

 

213頁「安全神話の崩壊と体感治安の悪化」、217頁「失われつつある日本人の美点」で主張されている内容についても、ほぼ賛成できる。

 

 武田氏は215頁で各国の殺人発生率の一覧表を示しつつ、「殺人発生率や窃盗率を数字で比較した場合、日本は世界でも最低レベルになっている」ことを確認する。「それほどすばらしい環境」を支えてきたものは何だったのか、について私見を述べてみたい。以前は、地域共同体の力(地域の教育力)がそれを支えてきたと考えられるが、多くの論者も指摘するようにその力は相当に弱まっている。それでは現在の日本における「犯罪発生率の低さ」を支えているものは何であるのか。手前味噌ではあるが、学校教育の果たしている役割は大きいと考えている。

 @「日本の学校では、児童会・生徒会行事などをはじめとする“特別活動”が重視され、そこでさまざまな子どもたちが活躍し周りから評価される機会が作られていること」A「一緒に成長する、クラスが成長するといった視点が日本の学校教育の中にあること」B「高校進学率が98%で2%の退学を差し引いても90%以上の子どもが、高校教育を受けて卒業していくこと」などは、一部論者から「もっと評価されていい」と指摘されている。事実、高校卒業者が90%以上という数値は欧米の80%前後と比較しても際立って高い。(背景には、@・Aのような日本の教育の特徴があると考えられる。)結果として「厳しい家庭環境で育ってきた子どもたち」も含めて、「自分は見捨てられなかった」という意識が形成され、犯罪発生率を抑えているという面があるのではないだろうか。

 

 ところが、武田氏が218頁で示しているように、子どもたちの意識は確実に変わってきている。これは、地域共同体の力(地域の教育力)が弱まった、というだけでは説明できないであろう。

 

背景には一体何があるのか。根本的には、「さまざまな有害情報や問題のあるメディアから子どもたちを守っていこう」という大人たちの意識や協力体制が弱かったことが決定的であろう。1980年代から氾濫していったテレクラ、手っ取り早く「ナンパ」する道具として普及したポケベル、さらに最近ではインターネットに接続できる携帯電話(世界で唯一)を普及させ、中学生や高校生にも好き勝手に使用させてきたことが大きな問題ではないかと思う。さまざまな情報メディアの問題点や危険性について、大人たちがしっかりした論議をすることなく、それらの普及を野放しにしてきたことが決定的であったと考えられる。

 

 携帯インターネットを使って、子どもたちが有害情報にアクセスあるいは発信し、それらを背景に犯罪行為をどんどん引き起こしている実態については「ねちずん村」のホームページを参照されたい。そこにはいわゆる「学校サイト」(中・高生自身が管理し、現実に誹謗・中傷や有害情報の発信源となっているサイト)の実態など詳しく載っている。

 

アクセス数のランクを競って貼り付けられるわいせつ画像、個人を的にした誹謗中傷、そして学校裏サイトの周辺に貼り付けられた出会い系サイト、援助交際の体験の投稿など、何でもありの状況の中で子どもたちの感覚が麻痺していると考えられる。われわれは、「携帯インターネット」というきわめて強力なメディアを与えながら、子どもたちに好き勝手に使わせた結果生まれている実態について認識を共有すること、それに対する学校ぐるみ地域ぐるみの対応を具体化していくことが必要だろう。

 

鳥取県でもそのような実態への危機意識を背景に、県教育委員会を中心とする実行委員会主催の「メディアとの接し方フォーラム」の開催、小・中・高等学校PTAによる研修会、さらに中学校区単位の研修会などが、進められている。また、実際にいくつかの学校では中学生や高校生を対象とした講演なども開催されている。

 

PTA活動の重要な役割のひとつに研修会(子どもたちの教育や将来にかかわる重要なテーマについての研修会)の開催がある。上記のような社会環境(情報メディアに関する)の共有と対応は当然重要なテーマとなるが、武田氏も挙げておられるような「人生や家庭にとって大切なことは何か」「食(あるいは食教育)の大切さ」「資源・エネルギー問題さらに環境問題(現状の中で次世代のために何ができるのか)」等も重要なテーマとなってくるのではないかと思う。

 

私自身、5歳の子どもの親であるが、地域や小学校区を基盤に多くの「大切な問題(社会環境・自然環境などに関する)や具体的行動」について意見交換しつつ、実りある取り組みを進めていくために微力を尽くしたいと考えている。

 

 おそらくこのような問題意識において武田氏と私との決定的な対立点は無いのではないか、と考える。しかしながら、冒頭で述べたように氏の著作『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』が、現在の問題を解決していこう、という人々の素朴な意思さえも混乱させ、環境問題(武田氏の主張する「石油を使う量を減らすこと」も含めて)の解決にマイナスの影響を及ぼすことを危惧するものである。それは、同書に実践的な展望が示されていないからである。現実に、読後感想なども含めインターネットでいくつかの反応を検索してみると「結局節約しても無駄じゃないか」といった反応が複数あった。

 

「大切な問題(社会環境・自然環境などに関する)」をともに解決していくために力を尽くしていきたい。そして、今後、氏の著書をめぐる論議も未来を切り開いていく上で生産的なものとなっていくことを切に望むものである。

 

(注)しかしながら、必要なエネルギーの削減量イコール化石燃料の削減量ではないことが、最近見た王子製ームページ(資料)でも指摘されていた。つまり、輸送過程では大幅な燃料の節減に寄与できる古紙リサイクルも、製造工程では(全エネルギー使用量や過剰な熱放出を節減できても)バイオマス燃料である「黒液」を活用できないため化石燃料の削減につながらない面もあるということである。古紙リサイクルは、王子製紙のホームページにもあるようにトータルに判断し、適切に行う必要があるだろう。