『暴走する「地球温暖化」論』における武田邦彦氏の執筆部分について

 

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なお、武田氏を含め人為的地球温暖化説の信憑性や地球温暖化による被害を緩和するための対策の重要性に対し、懐疑的・否定的な見解をとる論者への科学者の見解についてはリンク先の記事を参照されたい。 

また、「地球温暖化懐疑論」に対する私自身の包括的な批判は、「広瀬隆の『二酸化炭素温暖化説の崩壊』批判」でまとめておいた。

 

『暴走する「地球温暖化」論』(文芸春秋)で武田邦彦氏が執筆している「大失敗の環境政策」は、アル・ゴアの『不都合な真実』に言及しつつ、「日本は環境先進国の誇りを持て」、「日本は温暖化と無関係」といった主張をしている。

そして、「日本人は先入観を全部捨てて、ゴアの次の主張を真正面から理解すべきだ」、として例えば以下のように述べる。

 

(ア)二酸化炭素の排出量はアメリカが30.3%、ヨーロッパが27.7%と世界全体の約60%を占める。だから、地球温暖化はアメリカとヨーロッパの問題であり、それ以外の国はむしろ一方的な被害者だというのである。しいて付け加えるなら将来、急速に発展している中国が原因に入る可能性がある。(108頁)

(イ)(・・・)日本の二酸化炭素排出量は、世界の3.7%である。(・・・)アメリカのGDPは日本の2.6倍であるにもかかわらず、二酸化炭素排出量は8.2倍(・・・)つまり、アメリカ人があまりに多い二酸化炭素を出していることに気がつき、一人当たりのGDPに対する二酸化炭素の排出量を、日本人と同じ程度にすればよいのだ。(・・・)アメリカが実行するだけで21%が削減され、ヨーロッパも一人あたりGDPに比例して削減すれば、12%も減らせることがわかる。(・・・)先進国すべてが「日本並み」の排出量に変われば、京都議定書の16倍の効果があるのだ。しかも「日本は何もしなくてよい」ままである。ゴアの映画は「日本に好都合な真実」を示しているのだ。(109頁)

(・・・)日本も同じことを言えばいい。「二酸化炭素の排出量を先進国としてすでに十分抑えている私たちには、これ以上何もできません」と。(110頁)

 

『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社)にも随所に見られる乱暴な論術の典型がここにもある。武田氏はゴア氏の『不都合な真実』をきちんと引用しつつ検討するのではなく、自分の主張に都合のよい部分だけを切り取りながら強引にまとめている。 

 

確かに映画『不都合な真実』は、米国人であるアル・ゴアが「不都合な真実に目を開き、まず世界最大の二酸化炭素排出国であるアメリカ合衆国をわれわれ自身が変えていこう」と米国人に向けて強く発したメッセージではある。

 

しかしそれは同時に「(責任を他国や他者に転嫁するのではなく)“未来を大きく左右する重大な問題”を自ら真剣に引き受け、具体的な改革や行動によって乗り越えていこう」という全人類に対するメッセージであることも明らかであろう。「地球温暖化はアメリカとヨーロッパの問題であり(先進国の一つである)日本は何もしなくてもよい」などというメッセージをゴア氏はどこで発しているというのか、一度武田氏にうかがってみたいものである。

 

総論としての問題点は上記のとおりであるが、次に、武田氏の具体的な主張について検討して行こう。

まず、(ア)の「地球温暖化はアメリカとヨーロッパの問題であり(・・・)しいて付け加えるなら将来急速に発展している中国が原因に入る」、そして、(イ)の「二酸化炭素の排出量を先進国としてすでに十分抑えている私たち(日本人)には、これ以上何もできません」について。「ゴア氏の主張を受け止めよ」といいながら実は武田氏自らの主張を展開しているわけであるが、内容自体にも大きな問題がある。

まず、「一人当たりの二酸化炭素排出量において“先進国”は中国の3倍以上である」、「総量が多いことをもって中国に強く削減を求めるのは“先進国のエゴ”である」、「発展する権利は平等である」ことを中国は主張している。一人当たりで中国の約3倍二酸化炭素を排出している日本は本当に「何もしなくていい」のか。何もしないままで中国に削減を要求するなどあまりにご都合主義ではないか。それとも「何もしないまま」で、一人当たり日本人なみの二酸化炭素排出を中国に対して(さらにはすべての途上国に対して)容認するというのだろうか。もしそうだとすれば、地球環境にとって甚大な影響を与えるのみならず、資源も短期間で枯渇に向かうことは明らかであろう。

 

武田氏は「地球温暖化」や「資源の大量浪費」について「全く問題ない」という立場ではなかったはずである。だとすれば「これまで資源を大量に浪費し、温暖化の原因を作ってきた“先進国”が率先して削減を進めて行くべきだ」というのは全く当然ではないか。一人当たりで中国の約3倍二酸化炭素を排出している日本が“無関係だ”などという主張はどう考えても成り立ちがたい。日本は一人当たりでも世界第9位の排出国(アメリカ、ブルネイ、オーストラリア、シンガポール、カナダ、ロシア、ドイツ、イギリスに次ぐ)であることを忘れてはならない。

 

いや、アメリカやヨーロッパ、中国は二酸化炭素排出の総量が莫大だから特に問題なのだ、と主張されるかもしれない。しかしながら、国単位で見ればヨーロッパのどの国と比べても「日本国の排出量」は多い。(米国、中国、ロシアについで世界で4番目)このような事実を脇において「日本は関係ない」などとよく言えるものである。

〔このあたりからは、特に武田氏の主張(イ)に対する反論となる〕

 

乱暴にも武田氏はヨーロッパをひとくくりにするが、二酸化炭素の総排出量において日本よりはるかに少ないにもかかわらず「率先して削減に努力しているスウェーデン」、「デンマーク」など小国の取り組みをどう評価するのか。国単位で見れば排出量は少ないから削減の取り組みは不要、とでもいうのだろうか。

例えばスウェーデンの場合、トータルの二酸化炭素排出量は日本よりはるかに少ないが、一人当たりのGDPは大きい。(北欧諸国はみなそうである。)

  

「週刊東洋経済」2008年 1月12日号 より

 

そして、スウェーデンは武田氏がご都合主義的に持ち出す「二酸化炭素排出量の一人当たりGDP比」でも日本を下回っている。スウェーデン人一人当たりの二酸化炭素排出量が日本を下回り、一人当たりのGDPは日本を上回っているのだから当然である。

にもかかわらず、「二酸化炭素税の導入、再生可能エネルギーの導入、排出権(排出量)取引の導入」などを実現し、「これら三つの方策により、スウェーデンは、2005年には、1990年と比較して9%の二酸化炭素排出量削減と20%のGDPの増加を達成することができた」のだという。都合のいい数字を持ち出し「日本は何もしなくていい」などという主張をするのではなく、二酸化炭素の総排出量が日本よりもはるかに少ないスウェーデンの先進的な削減努力にこそ学ぶべきではないか。

いや、「二酸化炭素排出量の一人当たりGDP比」に関しては(北欧諸国はともかく)米国やEUの平均値と比べてはるかに低い、と重ねて主張されるかもしれない。事実(イ)の主張に続けて武田氏は「幸い、日本には高い技術がある。自動車、家電製品・・・・・みな省エネ化を実現している」と主張し、「日本は環境先進国である」ことを強調したいようである。

 

だが、ほんとうにそうだろうか。必ずしもそうでないことについては日経エコロミーにおける飯田哲也氏(環境エネルギー政策研究所所長)の指摘がある。

 リンク先の表をもとに、飯田氏は述べている。 

GDP比 エネルギー消費量 

国(経産省)は、為替換算かつGDPあたりの全エネルギー消費の比較表を出して、日本が省エネと主張する。しかし、購買力平価ベースで見るとまるで違う。さすがにアメリカよりは良いが、EUとはほぼ同じだ。

 さらに部門別で見ると、もっとはっきりする。産業部門だけで比較すると、日本はEUよりも悪く、米国と変わらないくらいだ。日本は民生部門、とりわけ家庭部門のエネルギー消費量の少なさと交通部門の少なさが、産業部門のエネルギー消費量を打ち消して、エネルギー消費全体では、一見、省エネに見えるだけなのだ。

「日本が省エネ」というのも、「貧エネの家庭部門」と「満員電車の運輸部門」が産業部門の排出を薄めている数字のトリックであって、産業部門だけで見ると、決して世界最先端とは言い難いのである。(再度、上記の表を参照) 

他方で、確かに産業界が全く努力していないわけではない。「図で見る環境白書」を見ても、その削減努力は数値にあらわれている。しかしながら、結局、武田氏の論の問題点は『不都合な真実』の部分を切り取るなど、都合のいい情報だけを提示するとともに都合の悪い情報には目をつぶりながら「極端な言説」を流布していることであろう。とりわけ「地球温暖化に日本は関係ない」などという主張は「開き直りの暴論」だと言わなければならない。 

以上、『暴走する「地球温暖化」論』(文芸春秋)に掲載されている「大失敗の環境政策」における武田邦彦氏の主張について検討してきたが、「日本は環境先進国の誇りを持て」、「日本は温暖化と無関係」といった氏の主張がいかに多くの問題点を含んでいるかは明らかではないだろうか。

(なお、武田氏らが主張する「京都議定書の基準年=1990年の設定が問題だ(日本に不利で不公平な基準年を押し付けられた)」に対しても飯田氏は明確に反論している。)

 

ところで、『暴走する「地球温暖化」論』の中には伊藤公紀「『不都合な真実』の“不都合な真実”」もある。確かにこれは「丁寧に個々の事実を科学的に検証していく」という姿勢で書かれている点において武田邦彦氏の「大失敗の環境政策」とは同列に論じられない。また、149頁の主張「ベストセラー『不都合な真実』は、おそらく、米国で環境重視の文化が形成されることに寄与することだろう。このような動きが、地球環境問題を有効に解決する新しい条約や制度につながるとしたら、大変素晴らしいことだ。是非、単なるスローガンを超えて欲しい。(ただし、この『不都合な真実』の内容を吟味せず、変にバイブル視することは決してすべきではない)」も妥当な見解だと思われる。

 だが、氏も述べているように「木を見て森を見ず」ということになってはいけない。例えば伊藤氏は「キリマンジャロの雪が激減した理由」(直接の原因)は地球温暖化であるとは考えにくいことや、「(他の氷河についても)氷河のすべてが後退しているわけではなく、一部は前進している」ことなどを主張する(125頁)。

    しかし、山岳氷河や大陸氷河の融解や流出によって「海水面が17cm上昇したこと」も事実である。地球上の海洋面積の大きさを考えれば「すでに大きな変化が起こりつつあること」は間違いない。「17センチの海面上昇」は巨視的には前進した氷河よりも、後退・融解・流出した氷河がはるかに多いことを意味しているからだ。細部の検討を慎重にするあまりゴアのメッセージ(全体しては妥当なメッセージ)を受け止め損なってはいけないだろう。

 不確定な部分を含みつつも、「二酸化炭素を出し続けるとまずい、という点に関しての(科学者の)不一致はない」「これは、自分の体に注意を払わない友人には体重や血糖値を減らした方がいいと忠告するのと同じように同意できる」(144頁)という点は伊藤自身も認めている。

 問題は、伊藤公紀の詳細な検討が「枝葉末節にとらわれて全体として妥当なメッセージをとらえそこなうこと」につながったり、ゴアの主張を歪曲することにつながる可能性も皆無ではないことである。ちょうど「イギリス高等法院の判決」がゴアをペテン師扱いする言説につながったように・・・。 

 私自身は「地球温暖化に関するゴアのメッセージは巨視的に見て妥当である」、と判断している。その観点から「イギリス高等法院の判決」の検討を、過去においても試みたのでご参照いただければ幸いである。

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