あるべき学校評価と教育実践評価

                                                          2012 4

1、教育を「つくりかえる」道筋 〜教育評価〜

 

 大阪の橋下維新の会が提出した「教育基本条例案」。大阪の世論調査では、支持する人たちは多数のようだが、なぜこの条例案は多くの人に支持されるのか。様々な人たちがその問題点を指摘するものの、結局、われわれ自身「教育をより良いものにつくり変えていく道筋を充分示せていない」ということが背景にあるのではないだろうか。

 

  いまこそ、そのような道筋を積極的に示していく必要があると思われるが、実を言うと、すでに実践可能な理論は構築されているのである。それは何か。「教育評価」の取り組み(=教育の成果を子どもたちの実態に即して丁寧に評価し、授業改善や学校改革、教育条件整備につなげていくという発想・取り組み)である。

 

教育学者の中内敏夫は、その著『教室をひらく』のなかで、以下のように述べている。

「教育の思想は(…)『評価もまた教育でなければならない』という原則をつくりだした。」

 「指導は大切だが評価はつけたしだという考え方がある。この場合、評価というのは、学期のしめくくりにやる子どもの成績に3、4、といった評点をつける仕事という考えが前提にある(…)。

 

しかし、評価はそういう場面にだけ顔をだすのではない。授業のひとこまひとこまを進めるにあたって、『わかりましたか』という質問をしない教師はいない。たとえ声を出さなくとも、有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取ってゆこうとする。(…)それとともに他方では、教材の当否を検討しなおす。授業の目標を再検討する。さらにすすんで学校の在り方を考えなおす。必要ならば、教育政策の変更を要求する。(…)この働きかけている対象(生徒)に対して問いをだし、答えを回収し、その答えを計算に入れたうえで次の働きかけのプランをたてるという、教育的な授業(営み)に不可避の部分こそ、評価の過程なのである。」@

 

 そして、戦後当時の文部省も、「評価」の本質を上記で中内が主張するように考えていたことが知られている。A

 このような評価は何を基準に行われるのだろうか。「教育評価」−「目標準拠評価」という言葉があるように、評価の基準は教育・指導の目標である。

〔例:二桁の加算ができる、中国の封建社会の特徴が説明できる、遠近法を使える等々〕

 

 従来用いられていた相対評価が「必ずできない子どもがいるということを前提とする非教育的な評価論である」、「排他的な競争を常態化させて、『勉強とは勝ち負け』とする学習観を生み出す」、「『何を勉強したのか』という問いは希薄化していく」、「『相対評価』のもとで学業不振が起こったとして、その責任は子どもたちの努力不足、才能不足に帰せられてしまう」Bとして批判され、「すべての子どもたちの学力保障を目指す」目標準拠評価が公的に採用されていった、というのが近年の流れである。そのことは、小学校、中学校の評定において相対評価が廃止され、目標準拠評価が採用されるに至ったことからも、確認することができる。

さて、このような目標準拠評価(「到達目標論」)の実践的・理論的成果について、中内は以下の点を挙げている(概略)。

 

1)到達点が明確⇒相対評価と序列主義をのりこえる条件が得られる

2)不明確だった発達段階を、目標に向かう段階として具体的にあらわせる

3)到達できなかった場合の教材の研究や指導過程の工夫が教師の明確な課題となる

4)「教材精選」の目安が得られる

5)学習における相互協力が子どもにとって(義務ではなく)必然になる

 

もちろん学力が目標に達しない場合はあるだろう。そこで大切なことは、「目標に達しない原因を、本人の資質ではなく学習の条件の方に求め、これを改造していくことである。」つまり、「『子どもの学力が目標に到達していない』という事実を、教材や指導過程の誤りをただし、教室定員や教育費に見られる弱点を正していく方向に活用する」C、というわけだ。

 

 そしてまた、学力が目標に達しているかどうかを判断する材料として、「テスト」を偏重する思考からの脱却も要請される。テストは「評価のひとつの科学・技術」として編み出されたものであるが、「近代の市民社会における教育的人づくりにとっての妥当性」という基準でそれは検討される必要がある。その結果、客観テストは相対化されていくことになるだろう。つまり、教室内での質問による確認、子どもたちの作品や発表内容等も含め「評価のてがかり」はさまざまに存在するわけで、「テスト」はあくまでも「評価の一手段」なのである。

 

2、学校評価と教職員評価 〜その現状と問題点〜

 

現在の「学校評価」や「教職員評価」が強調されるようになったのはいつからだろうか。

 田中耕治(『教育評価』)によれば、第16期中央教育審議会答申(1998年)以来、学校の経営責任の明確化、各学校の教育目標を効果的に達成することを目指して、学校評価が意識的に取り組まれるようになってきた。学校評議員制度もこの学校評価を支えることを一つの目的として導入されたものである。

 

 「教育改革国民会議」(2000年)で「教師の意欲や努力が報われ評価される体制」の構築が提案される一方、「指導力不足教員」の問題、他方では「教員の専門力向上」の問題をにらみながら、人事考課、勤務評定としての「教育評価」の取り組みが強まっている。D

 ここでは概略、次のような点が指摘される。

・学校評価において、自己評価と外部評価をどのように関係づけるのか。

・教師の教育専門家としての成長と、処遇への反映の関係をどのように考えるのか。

・競争的な報奨制度が共同的な教育活動を阻害することになったアメリカでの失敗例を念頭において、教師の努力や意欲が報われ評価される体制をどう構築していくのか。

 

 田中耕治の記述はいくつかの問いで終わっているが、彼が「教育評価」と鍵括弧つきで表現した上記の取り組みの中には、本来の教育評価を捻じ曲げる要素が数多く入り込んでいるのではないだろうか。いくつかの観点から整理しておこう。

 

1)「学校評価」の主体は本来誰か

 冒頭の引用文で中内(『教室をひらく』)も記述しているように、教育評価の筋で考えれば教職員こそが評価の主体である。「教科の学習や特別活動の成果」、「学習や活動によって生じた変化(あるいは変化が生じていないように見える理由)」を適切に評価し、「教育を(学校を)よりよいものにつくり変えていく力」こそが、教職員の専門性だと考えられる。このような意味における「教育の成果や教育実践そのものを評価していく教職員の力」を高めることなしに、豊かな教育は成り立たないであろう。

 

  あくまでこれが基本であり、それを補うために「利害関係者」(具体的には同僚、保護者、地域住民、教育行政機関、第三者機関)の評価、そして学習の主体である子どもたちの評価を取り入れるのである。例えば研究授業や参観授業で同僚・保護者が感想・意見を述べる等、教授・学習過程に関わる人たちが評価に参加することは、「教室に閉ざされた評価」を開いていくことになる。そして同時に、教職員は出された意見を受け止めつつ検討することで「教育評価」の力を高めていくことができるであろう。

 

2)教育評価と評定の区別 

 評価については、教育評価(エヴァリエーション)と評定(ヴァリエーション)を区別することが必要であるが、現状においてはきちんと区別されていない。現在の学校評価、教職員評価は純粋に「教育評価」の観点から拡大しているわけでないところに問題がある。「教育評価」と言うよりも、「評定」が強調される傾向があまりに強いのである。(例えば、教職員をABCにランクづけする等。)

 

確かに、現行の「学校評価」の中には教育評価的な性格が取り入れられている部分もあり、それをも含めて全面否定することは問題があるだろう。しかし、それ以上に「民間企業の目標管理システム」をモデルにしていると見える側面が強い。後者のモデルは目に見える数値目標を重視するが、それにとらわれることで「教育の目標設定」そのものをゆがめてしまう可能性は大きい。

 

さらに、数値目標が一人歩きしていくことは教育の市場化・商品化を加速させていくと考えられるが、米国において完全に失敗していった「教育改革の現状・結果」Eから、しっかりと学ぶ必要があるのではないか。

 また、ランクづけ(さらには賃金格差の導入)が「教職員集団で行き届いた教育を創造する」上で大きなマイナスになることについては、多くの論者が指摘するとおりであろう。

 

3)評価に関わる「利害関係者の利害」とは?

学校教育において、確かに「利害関係者」が「教育評価」に適切な形で参加することは有意義である。適切な形での参加というのは、教職員による「子どもたちの学びの現状の評価」を色々な角度からの意見によって補ったり修正していくことである。その結果、どの学校においても指導や教育条件が行き届いたものになるよう関わっていくことである。

 

しかしながら、「参加」の問題が「俺にも文句言わせろ」と言う形で「評定(例えば標準テストの平均点)を上げるための圧力」になってしまうとすれば、結局、子どもたちを際限のない「排他的競争」に駆り立てるだけで、権利としての行き届いた教育保障に逆行するものであろう。

 

 確かに教育目標を再検討していくことは大切である。しかし、例えば学習指導要領の内容が、政治家や経済学者やマスコミによる「学力低下キャンペーン」によって右往左往するようなことには大きな問題がある。あくまで、目標の再検討は、現場における「教育評価」を土台にしてなされるべきであろう。(※)

 

また、教職員をランクづけし「最低ランクの○○はやめさせろ」、「担任替えろ」といった要求を出すことが、しっかりとした「教育評価」をもとに、落ち着いて指導内容の改善や教育条件の整備を進めていく上でマイナスに働くことは容易に想像できる。

橋下維新の会による「教育基本条例案」は、そのような性急な要求を公的機関が押し出すことで「米国の失敗」を現実のものにする危険性が大である。

 

3、評価を行う力 〜教育実践評価の視点〜

 

 中内は、「到達度評価を教育過程改造に活用する」という発想(=教育評価)には一種のオプティミズム(楽観主義)がある、と述べる。簡単に述べるとそれは、「教えられうる目標(到達点)は客観的に定めることができる」、そして「適切で妥当な評価は可能だ」、という意味での楽観主義である。F

 

中内も言うように、「オプティミズムはリアリズムと結びつかなければ強い力にならない」。これまで長期にわたって採用されていた相対評価法は、現実の問題として、ある種の「客観性」および「実用性」を持っていたからこそ支持を得てきたのである。

 

 確かに、標準学力テストや「模擬試験」の結果に振り回されることによって、見失われがちな大切な要素(「平和で民主的な社会の形成者」になっていく上で子どもたちが学びうる大切な力)が教育には数多くある。(例えば、クラスメートと話し合いながら「生活文脈」の中で発生するリアルな課題に取り組んでいく総合的な力。)しかし、仮に、そのような大切な力・学び体得した成果が目に見えない(客観的な評価ができない)とすれば、教育を改善していく展望も見いだせない、ということになるのではないか。

 

 教育評価の立場からは、そのような疑問に応えるために、さまざまな評価の方法が示されてきている。〔a 客観テスト(授業単元で最も重視すべき教育目標を子どもたち全員が理解できたかどうかを把握するために作成されたもの)、b 自由記述式(「ある概念に関係のある言葉をいくつか選び出し、配置し、矢印の付いた線で結ぶ」など、知識間の関係づけをみる方式)、c パフォーマンス評価(知識を応用・活用・総合することを要求する「生活文脈から生じる課題」に挑戦させ、作品をつくったり実演させることによって評価する)、d 観察や対話による評価(そのためには子どもの姿を通じて教育実践を生き生きと把握し語る力が不可欠である)e 日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や評価記録を蓄積して評価する(ポートフォリオ評価)。〔作品等を題材にした教職員と子どもたちとの「検討会」が行われ、子ども自身の「自己評価能力」を高める過程を含む〕。G

 

 このような様々な方法を駆使した「教育評価」は、当然、以後の教育実践の問い直しや教育条件の整備、当初設定していた「目標の見直し」にも活用されることになる。

 実をいうと、これらの実践は「目標準拠評価」(とりわけ「行動目標」の設定と機械的な評価)へのさまざまな角度からの批判に応えて生み出されたものでもある。というのは、教育評価が当初「工学的アプローチ」と呼ばれたことからもうかがえるが、いわば「自動車の組立工程のように、下位目標を効率的に組み立てて画一的な最終目標に到達させる」ものとして理解され、このような「教育の工場モデル」を成り立たせるために「行動目標」が存在する、と解釈されていたHからである。〔行動目標…例えば、高校生が中国の封建体制について説明できる、障害を持った子どもが「ちょうだい」と意思表示して仲間とやりとりできる〕 

 

 確かに行動目標が明確に設定されれば、客観的な「教育評価」を行いやすい面はある。しかしながら、一つ間違えば「誰もが同じように評価できる客観的な目標設定」を強調するあまり、設定される目標そのものが妥当性を欠くものになる危険性や、子どもたち一人ひとりの発達要求や願い、感情や喜びなど、個々の主体にとって切実な問題(それは教育にとって大切な問題でもある)を視野の外におきかねない、という危険性をはらんでいる。事実、三木裕和は、「障害児教育における教育目標、教育評価についての検討」―重症心身障害児を中心に― の中で、「評価目標を行動的用語で表現する」ことに実践がとらわれるあまり、知的障害のある子どもへの教育において以下のような問題が生じていることを指摘している。I

 

1)知的能力、活動の軽視、ないし無視

2)情意的能力・活動の軽視、ないし無視

3)行動変化のタイムラグの軽視ないし無視

4)行動変化の個性差の軽視、ないし無視

5)評価されにくい人格的変容の軽視、ないし無視

 

これが障害児教育において一つの流れになっているとすれば、大きな問題であるが、定型発達児の教育においても1)を除けば同様の危険性をはらんでいるといえよう。 

 実は、当初の「目標準拠評価」がはらんでいた問題点(「教育の工場モデル」を成り立たせるために「行動目標」が存在するものとして実践される)については、米国においても異なる角度から批判がなされていたのである。

 

例えば、ブルームの提唱した「教育評価(目標準拠評価)」に対して、芸術教育で活躍してきたアイスナーは、「目標の規準性」に回収できない教育実践の創造性、教育・学習活動の「質」に注目し、「質」を判断する力(「鑑識眼」と「教育批評」)が大切だと主張した。(「鑑識眼」とは、対象の性格や質を把握する力「教育批評」は公開され公共性を持った「教育・学習の性格や質を把握する」行為。)J

 

そして、「教育批評」(例えば日本における研究授業後の研究協議や「実践報告」に基づいた実践分析)を通して「鑑識眼」は洗練されていく。このような「力」によって、教職員は子どもたちの学習活動の中から「意味のある活動や反応」を評価し、次の教育実践に活かせるようになるのである。(「目標の問い直し」も含めて)

 ところで、「教育評価」に関連する力(「鑑識眼」)については、上記論文の別の場所で三木裕和が述べていることが示唆に富んでいる。

 

「重症児学校の朝の会。(・・・)『○○ちゃん、○○ちゃんはどこですか?』と問いかけ、返事を待つ。子どもは教師と視線を合わせることもしないし、手を動かすこともしない。(・・・)しかし、よく見ていると、自分の順番が終わり、隣の子どもの番になった頃に表情が和らぎ、ため息をついたり、時には微かな声が出る、手がわずかに動くなどの変化を見ることがある。(・・・)自分の挨拶のときに、それを理解できているからこそ行動に表れないという逆説を良く踏まえて臨まなければ、障害のある子どもを理解することはできない。」

 

「大人との相互交流や、それに基づく自我の拡大に意味を見出す段階においては、あらかじめ評価基準を行動的用語として設定することはさらに困難となる。子どもの活動は、『評価されることを前提としたひとまとまりのもの』(終止形)ではなく、『次の目標を再生産する過程として意味を持つもの』(継続形)だからである。」K

 

三木による上記の指摘は障害児に限らずすべての子どもたちの学習や成長を評価する際の重要で普遍的な視点を含んでいるように思われる。というのは、定型発達児においても児童期・前思春期から青年期にかけて、「教職員の期待したとおりの活動をしない、できない」場面は無数にあるからだ。自我の発達段階に違いがあるとはいえ、彼らの言動や態度・表情の中に「期待された行動としては表現されない葛藤・もがき」という「成長過程」を読み取る力は当然にして求められるのではないか。

 

さらに、三木は次のように述べる、「相互交流の過程で起きた教師の内面の変化も子どもによって引き起こされたものと見ることができることから、指導者の主観さえ、子どもの活動の結果と結びつけて重視しなければならない。教師の主観も含めた諸事実から、子どもの教育評価が成り立つといえる。」K 

 

ここで、子どもとの相互交流によって変化させられた指導者の主観に注目し、それをも含めた諸事実を大切にする、という発想が提示されているが、教育評価以前の教育の原点がそこに示されているように思われる。

 

大切なのは、教職員が子どもたちの表情・態度・発言・行動の中に成長の兆しを見出す、といった意味における評価の力量(冒頭の引用文中で中内が述べている「有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取って」いくという意味での力)を高めていくことであり、かつ、子どもによって引き起こされた自分自身の変化をも意識化していく力であろう。実は、すでに教育評価はそのような力(少なくともその一部)の必要性を理論化しており、具体的方法で挙げたd 観察や対話による評価」(そのためには子どもの姿を通じて教育実践を生き生きと把握し語る力が不可欠である)がそれに当たると考えられる。

 

要するに、「誰にでも客観的に評価できる行動目標の設定」(ましてや数値目標)にとらわれ、「工場モデル」に代表されるような狭い視野で教育評価の全体を理解・実践することは妥当でない。その結果は、「個人の願いや発達要求」の軽視や、「喜びや変革を生み出す実践的・創造的な力と無関係な画一的目標設定」につながる可能性が高い。それは、教育評価の持っている豊かな可能性を狭めることにしかならないであろう。

 

以上、自らを省みることも含め、「教育評価」の力量を高めていくことの重要性を強調してきたが、そのような意味における「力」を鍛える方法については、これまでの様々な営みが示唆を与えてくれる。

 

例えば、「学びの共同体」における授業後の研究協議では、授業者が見逃してしまいそうな子どもの発言・態度・相互交流を出し合い「子どもの学びの事実」を中心に議論する。その議論が適切に深められていけば、「評価の力」を相互に高めていく有力な方法となるであろう。一般的な研究授業と研究協議会の取り組みも、教職員の指導性に関わる議論も含めて同様の意義を持たせることが可能である。さらには、授業参観における保護者の感想にハッとさせられ、子どもたちの成長に関わる新しい視点を獲得することもあるだろう。

 

そしてまた、このような評価の力は、日本における「生活指導運動」が特に重視してきた「実践分析の力」と重なり合う面が大きいのではないだろうか。実践記録の報告に基づいて、参加者は様々な質問をしながらその実践を読み取り、意見交換する中で分析を深めていく。このような営みを通して、子どもたちの活動や成長を評価していく力を高め、実践の優れた点と課題、それを次の実践にどのように活かしていけるのかという展望を見出していけるのである。

 

 絹村俊明は「教員評価」に対置して、「『同僚性』に深く根ざした実践的教師集団づくり」を提起し、その具体的方法として「教育実践評価」を提起している。L教職員が同僚として力を高めあうことの大切さはいうまでもないが、教育の成果を適切に評価し「教育をよりよいものにしていく」ためには、子どもたちの成長や教育実践についてしっかり分析・評価していく「力量」、さらにはより適切な指導を見出していく「力量」が必要であり、そのためにも上記の「実践分析」⇒「教育実践評価」という視点は重要であろう。

 

4、結論 〜「学校評価」の組み換えと教育の改善〜

 

これまでの多岐にわたる叙述を簡単にまとめ、問題提起としたい。

1)「学校評価」を「教育評価」本来の筋に沿って組みかえていくこと。

 この趣旨は、学校評価と教職員評価〜その現状と問題点〜で述べたとおりである。

2)その評価には、学習の主体(第一の「利害関係者」)である生徒の参加も検討されるべきこと。

例えば日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や評価記録を蓄積して評価するというポートフォリオ評価。作品等を題材にした教職員と子どもたちとの「検討会」が行われ、子ども自身の「自己評価能力」を高める過程を含む実践が注目に値する。

 

3)「教育評価」の力量を相互に高めていくためにも、「学校評価」の中に「教育実践評価」(授業検討会や教育実践の報告と分析の場、子どもたちに関わる情報交換をしながら「評価」や「実践」について検討する場)をきちんと位置づけ組み込んでいくこと。

 大切なことは、1)「学校評価」を「教育評価」本来の筋に沿って組みかえていくことにつきると言ってもいいだろう

 

「教職員評価」に関して、教育評価の筋で考えると、「自己評価⇒指導方法や教育環境・条件の改善」に力点が置かれる。(利害関係者や外部の評価は、それを補ったり修正する役割を果たす)。A評定の筋でいくと、「管理者が評価して処遇に差をつける」、という発想につながるが、多くの教職員が直感しているように(そして、米国の失敗が明らかにしたように)、これはむしろ教職員の士気を低下させ、学校の教育力を弱めていくことになるであろう。 

 上記の二つ(「教育評価」と「評定」)をきちんと区別しないまま「学校評価」、「教職員評価」が論じられていることこそが大きな問題なのである。

 

 なお、付け加えていえば、教育基本条例が提案された背景には現状の教育委員会制度の問題(教育委員会が事実上文科省の上位下達機関の役割を果たし、官僚統制の象徴となっている面がないか、といった問題)がある。しかし、このような問題に関しては、政治家による教育への介入を正当化するのではなく、教育委員の公選制の復活、学校(学校長)の権限を強め教育の分権化を進める(PISAで高得点をあげたフィンランドの成功の大きな要因は教育の分権化だったM)、といった方向で議論していくべきではないだろうか。

 

                              

〔注〕

@中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 135頁( )内は引用者

A田中耕治『教育評価』岩波書店 35頁

戦後初期の文部省による「教育評価」の説明(概略)

1)評価は、児童の生活全体を問題にし、その発展をはかろうとするものである

2)評価は、教育の結果ばかりでなく、その過程を重視するものである

3)評価は、教師のおこなう評価ばかりでなく児童の自己評価をも大事なものとして取り上げる

4)評価は、その結果をいっそう適切な教材の選択や、学習指導法の改善に利用し役立てるためにおこなわれる

5)評価は、学習活動を有効ならしめるために欠くべからざるものである

B田中耕治『教育評価』岩波書店 47・48頁

C中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 49頁

D田中耕治『教育評価』岩波書店 87頁

E堤 未果『社会の真実の見つけかた』(岩波ジュニア新書 2011) によれば、米国における「教育の市場化・商品化」の現状・結果は以下のようなものである。(概略)

 アメリカでは2002年春、ブッシュ政権によって市場原理中心の教育政策である「落ちこぼれゼロ法」が施行された。その結果、全国一斉学力テストの実施が義務づけられるとともに、学力ノルマ基準を満たせず「落第」とされた場合、責任と非難は現場の教師一人ひとりに集中し、減給や解雇が行なわれる。

 公立学校も、国からの予算カット、廃校、民営化に追い込まれる。

 さらに、公立学校の教員の多くが、国から要求される子どもたちの学力ノルマ達成と生活に余裕を失った保護者からの大量の無理難題要求に追い詰められていく。その結果、バーンアウト(燃え尽き)していく事態が急速に進行。

  2014年までに全米の公立高校の九割近くが「落第」になる見通しで、この政策は、教育現場を極度に荒廃させただけに終わっている。

 

  なお、米国で失敗した「落ちこぼれゼロ法」と「教育基本条例」が酷似していることを指摘した番組をとりあげたブログ記事はこちら

 

)中内敏夫は『教室をひらく』のなかで、現場で作成する「指導要録」の様式を改善して、そこに記述される「教育評価」の集積を、指導要領の問い直しの根拠にすべきことを主張している。

 

F中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 52頁

G田中耕治『教育評価』岩波書店 147〜162頁

H田中耕治『教育評価』岩波書店 59〜62頁

I三木裕和「障害児教育における教育目標、教育評価についての検討」〔地域学論集(鳥取大学地域学部紀要)第8巻 第3号 204頁〕

J田中耕治『教育評価』岩波書店 61〜62頁

K三木裕和「障害児教育における教育目標、教育評価についての検討」〔地域学論集(鳥取大学地域学部紀要)第8巻 第3号 205・6頁〕

L絹村俊明「『同僚性』に深く根ざした実践的教師集団づくりを」『高校生活指導』176号、2008年、青木書店

M『格差をなくせば子どもの学力は伸びる 驚きのフィンランドの教育』 亜紀書房 43頁

 OECD教育局のシュライヒャー氏はPISAの結果を分析してことを重要な指摘している。「フィンランドをみてみると、権限と責任はすべて学校に与えられていて、学校がありとあらゆることを決めることができるようになっています。

 それによって成績レベルを全体に底上げすることができると考えられます。・・・・トップダウン方式ではなくて、学校にやる気を起こさせることによって、成績を上げられるような環境にあるということです

 PISA調査の結果から、学校が自分の判断でアイディアを考え出し、それを試してみることによってよい成績を得られることが可能となることがわかりましたが、その好例がフィンランドでした。学校にやる気を起こさせる環境を作ること、これが重要だったのです。」

 

 

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