いじめにかかわった体験
N 小学校5・6年のころ、クラスのほとんどからいじめられた人がいて、その人が近づくと「バイキン、近づくな」などと言っていた。特別な子ではなかったので、な
ぜあんなことになったのかわからない。このいじめについて自分自身は傍観者だった。
友達がいじめをしていても注意することができなかった。
彼が学校を休んだのをきっかけにクラスで討論し、「どんないじめをしていたか」「これから本人とどう接していくか」という観点で一人一人作文を書いた。数人の分を先生が読み上げた。この問題はそれ以降は一応解決し、みんな仲良くなった。
T 小学校4・5年の時クラスにいじめがあった。いじめられていたのは女の子だったが、「バイキンがつく」とか、机にさわっただけで「きたない」とか、ボールが飛んできても「さわるな」などと言われていた。
きっかけは「2〜3日同じ服を着てきた、」とか「家がきたなかった」ということでしかなかった。
先生の指導で表面的にはこの問題は解決したけど感情的にはしこりが残った。
一緒にいじめたりからかったりしなければいけないような雰囲気がクラスにあって、自分もその子をいじめたり傍観していた。
O 4年生の時、自分ともう一人の友達が中心になっていじめをしていた。その子は、時々言葉がつまるけれど、特別な子ではなかった。自分自身、その時はいじめだと思っていなくて、その子が悪いと思っていた。クラスのみんなもその子に対して「バイキン」などと言っていた。
その子の着替えを床に落としたのをきっかけに学級会(女子だけ)が行われた。いじめをした人は立ちなさい、と先生に言われ一人一人が発言した。この問題は一応解決したが、しこりは残った。 そのときは、いじめているという自覚はなく、そうするのが正しいことだと思っていた。中学校の学習会(差別に関する)ではじめて自分が悪かったことに気づいて反省した。
A 小学校5〜6年の時クラスでいじめがあったが、自分自身はそのことに気づいていなかった。本人のお母さんが担任に電話をしたのがきっかけで事実がわかり、道徳の時間に学級会を行った。先生は叱る調子で話をしていた。
中学時代、一人の男子がおなじ一人をいじめていた。(“パシリ”をさせたり蹴ったり)。自分はだいたい傍観者だった 一回だけ「やめろ」と 言ったとき「わかったわ」と答えたが、結局その時だけで、同じことを繰り返した。
I 小学校〜中学校のとき、すごくわがままな一人の女の子がいて、その子がいじめをしていた。(かばんを隠したり、たたいたり、自分の家来みたいに )
その子(いじめっ子)はみんなから嫌われていて、それを自覚すればするほど余計にいじめる、という感じだった。いじめられた子が泣いているのを見て私は「いやがっているからやめたら」と言ったことがあるけど、結局同じことを繰り返していた。
いじめる子の心理は?
A 相手をイライラやストレスのはけぐちにしているんじゃないか。
I 私の知っている子は家がすごくきびしくて、学校で発散している感じだった。だから、何回いってもいじめをやめようとしなかった。
O 自分がいじめた体験を振り返ってみると、その時は先生に注意されても「着替えを床に落としたのは悪かったけど、それ以外は私まちがっていない、」と思っていた。私は正義感が強くて、人がいじめをしているのは許せなかったくせに、自分はいじめをしていた。「くちごもってもたもたするのが許せない、」とか「イライラする」とか「何か言ってやりたくなる」って感じ。
根本的にはいじめている本人が変わらないとだめだと思う。
なぜ“いじめ”はいけないのか
いじめをしながら自分自身のストレス・もやもやを発散しているんだと思う。だけどなぜ特定の子がストレスやイライラの“はけぐち”にされなければならないんだろうか。
A いじめも差別の一種だと思う。その人の人権を侵している。
S それはそうかも知れないけれど、いじめている側にも届くような言葉で語っていくことが必要では? T君が言ったように、もし仮に自分がいじめられている側であったとして、「なぜ私がストレスやイライラのはけぐちにされなければならないのか、」「こんなバカな話があるか、」というのがいじめを考えていく出発点ではないか。
O 自分は同和地区に生まれたんだけれど、小学校時代はそのことの実感が持てなかった。中学に入って、先生にいろいろな話を聞いたり学習をしたりして自分自身の立場が分かった。そのことで初めていじめられている人の立場についても考えて、(いじめをしていた自分について)反省できたんだと思う。本当に、いじめられている人の立場を考えたらいじめはできないはずだ。
I 自分にストレスがたまっているから、イライラするからといっていじめていいはずはない。
S さっきA君から人権という言葉も出たけど、人権とは言い換えれば一人一人のかけがえのなさだ。だれでも自分自身のことを大切でかけがえのない存在として認めたいし、認めてほしいと思っている。いい面を認めたい、認めてほしいという願いを持っている。ところが、いじめというのは相手に対して「お前は汚い」とか「役立たず」とか「消えろ」といった言葉を投げつけたりすることで、そういった一人一人の願いを踏みつけにしてしまう。
本人に問題がある、と周囲が思っている場合もある。確かに人間だれでも問題を持っているんだけど、仮に問題が目立つにしても、いじめとは別の形で関わっていくべきではないか。
A 「近づくな、消えろ」とかはその人をその人と認めていない言葉だ。「ウンコ、きたない」とか、全く人間として扱っていない。
O そのことは、いじめられている人の立場を考えるとわかってくる。
N わからないかもしれないけど、いじめられている立場にたって考えなければ
T「消えろ」といった言葉。いじめている人にとって相手は必要ないかもしれないけど本当に身勝手な言葉だ。もし自分が言われたらどう思うか、と言いたい。
一体どうすればいいか
S いじめている側に気づいてもらうにはどうすればいいだろうか。傍観者が、きちんと指摘するのが一番だと思うけど、自分がもしかしたらいじめられるのではないか、という不安もある。
I クラスのなかで自分は明るいグループにいたんだけど、いじめている子は明るいグループの子たちには愛想がよかったし、いいところもあった。そんな人には傷つくかもしれないけど言ってあげたほうがいいと思う。
S 人間関係からいってもなかなか言えない場合はどうするか。
A 先生にチクルという手もあるけど 。
S だけどA君がチクリました、と人に分かってもいいの?
A うーん
S 先生に相談して、いじめについてのアンケートを取ってもらったり、クラスの一人一人と面談してもらう、ということはできるよね。そのなかで先生にも見えていなかった生徒の実態(いじめの実態)が見えてくるし、面談をしながらいじめの問題についてどう解決すればいいか生徒と相談できる。
O いじめがエスカレートしてくると、クラス全体がいじめるような雰囲気になることがある。とにかくそういう状態になるまでに防ぐこと。誰かがひとこと「やめたら」というだけでも違うと思う。
A 文部省は、いじめられている生徒は転校してもいい、という方針を出しているけどそれはどうなんだろうか。本人には心の傷が残るし、いじめた側は反省しないし。転校は解決にならないと思う。
T たしかに転校というのは「いじめた側が勝った形」で良くないと思う。だけど、いじめている人を追求して「負かす」というやりかたも本当の解決にならないんじゃないか。いじめている人にもいろいろな“もやもや”があると思う。ぼくも話ができるんだったらその人の話を聞いて、まず受け入れてあげたい。
S いじめる人は、多分自分のことを嫌いなんじゃないか。ひどいいじめをしたり差別落書きをするような人は、きっと不幸で自分のことが好きになれずイライラしている人なんじゃないか。そんな人も、お互いを認め合うような人間関係のなかで、自分が好きになれるかもしれない。結局、あたり前のことのようだけど、いい仲間関係をどうして作っていくか、自分も好きで周りの人も好きになれるような人間関係をどう創っていくか、ということが大切なんじゃないだろうか。