(基調の引用および要約 続き)

 

 4、討議空間を開く方法

  生徒は教育の客体から脱して討議の対抗者(ライバル)として登場

 (1)問題設定の政治

 学校空間には、教師の視点を自明視した教育主義的な問題把握が支配的である。(・・・) それに対して、「討議空間作り」では、今ある教育・学校の価値前提・管理経営過程をも問題にする。

 

 (2)自分の位置性に気づく

 学校現場において生徒から見る教師のポジショナリティは権力者である。

 評価し、分析する教師  学校現場における非対称な権力関係

「教師=定義・分析する者/生徒=定義・分析されるもの」

 教師のポジションからする部分的な世界観だと意識化しておくこと

 (3)討議のライバルとしての他者

「不登校生徒という存在は学校的価値を問い直すライバル」

「敵」と「対抗者」としての区別

 

(コメント)

 近代の民主主義 ヴォルテールだったかミルだったか良く覚えていないが、「私は君の意見には反対だが、君がその意見を言う権利は命をかけても擁護する」という趣旨の発言をしたという。異論を受け止めつつ、自らの「立場」(位置性)や「意見・確信」を問い直し、「妥当性」を目指していくことは近代に打ち立てられた「民主主義の原理」である。

 

(引用および要約)

第2章 討議空間作りを実践する(実践編)

 

事例@「和東高フォーラム」

フォーラム実行委員会で「貴志川線の廃止問題」をフォーラムのテーマに取り上げる

フォーラム当日 パネルディスカッション 高校生や短大生の意見で充実

「高校生・学生でイベントをやりたい」600名の参加 ⇒ イベントは成功

 

「貴志川線問題」が地域・高校生に与える影響を実感し、高校生が「政治的なるもの」に取り組む 取り組みを「共同性」から「公共性」へと開いていくためには異質なライバル的な視点が大切   このケースでは、企業サイドのライバル的視点が見えない

 

事例A「三者協議会」

 生徒会役員選挙で「携帯電話の自由化」を公約⇒職員会議における提案の拒否

⇒PTAへ三者協議会を提案し、実現

 生徒指導部の教員が参加していることは大変に重要  同時に日常の指導的場面では公的なルールとして有無を言わさず通用しているものが、三者協議会では議題となって異化されている。生徒の声がライバル的視点として公的な討議空間の中に登場する。

保護者という「第3者」が入ることで、閉じた討議から開かれた討議へ

 

(望月基調)

対等な関係で「何がよいことなのか」を問いあう。

・・・フォーラムという場(枠組み)において、ミクロポリティクス=(権力関係が支配する場)は、生徒、地域市民、教員が対等な立場で声を出せる場に展開した。そのような場で「何がよりよいことなのか」を問いあう対話がなされ、参加者がエンパワーされた・・・。

 

「何がよいことなのか問い会う中で発言することには意味がある。」

⇒受け止められ何らかの合意が形成されることは、現実を変えていく上で大きな意味がある。岡村基調もそのことを明確にする必要があったのではないか。

 

事例B「HRにおける討議空間」

『靖国』『憲法改正』の問題を生徒に投げかけてみた。

O「国のために死んだ人をまつる神社への首相の参拝は賛成」「アメリカ主導ではなく日本のオリジナルを作るということで憲法改正賛成」

他「首相だからダメ」「日本人の多くは戦争放棄に賛成しているから反対」

(コメント)

 討議の大前提である「発言する権利」の保障についてはなされているが、この問題について、討議が成立しているかどうかは疑問である。

 

 どのように考えるのが妥当なのか、そこで合意形成を可能にするような「原理」はどこにあるのか、を問わなければならない。

 民主主義、人権(個々人の存在の重み)に帰っていく必要がありはしないか。

 

 Oは、定時制とのあいだで「閉じた闘争」状況に陥っていたとき、定時制生徒のライバル的視点を浮上させることによって、全日制の優位的な意識を逆に問い返している。

 相克⇒相互性(自由の相互承認)

 

 一人ひとりが自由に自分の生き方を持ち意見を持つことを認めたうえで、一部の階層の利益でない「一般意思」を取り出すことが、近代哲学の出した公準。(『よみがえれ哲学』より)

 これは、歴史の産物である。しかし、それが人類史上最も普遍的な原理として受け入れられているには充分な理由がある。国家の名の下に人権(個々人の存在の重み)が踏みにじられてきたからだ。具体的な経験の中で多くの人々が「これは許しがたいものだ」と感じ、行動に立ち上がっていったからだ。

 

(引用および要約)

青木「討議空間のベースには仲間相互の共同性がある」

岡村「異質な他者の意見を正当に取り上げること、それは、異論を言う権利を保障する取り組みであり、仲間であるかどうかに左右されてはいけないものだ。むしろ、集団や共同性を共有しない他者に対してこそ、異論を言う権利を自覚的に保障する態度が要請される。」

 

(コメント)

 この部分について言えば、岡村の考え方が妥当であろう。しかし、そのような視点を提起してきたのは「ポストモダン思想」ではなく「近代の民主主義思想」である。

 

    再度引用

「定時制との教室共用に対するもめごとが最高潮に達してしまった。この件ではほとんどの生徒が定時制を非難していたが手詰まり状態だった。そんなある日、Oが「(相手の非を言うより)自分たちから教室をきれいにしたらどうか。全日制で知らず知らずに定時制より上という意識を持っている。」・・・「Oの言うように一度やってみよう。クラスの決としていいか」と青木が確認して実行。

 

 Oは、定時制とのあいだで「閉じた闘争」状況に陥っていたとき、定時制生徒のライバル的視点を浮上させることによって、全日制の優位的な意識を逆に問い返している。

 

 

参考資料

 

『よみがえれ 哲学』NHKブックス

 

(高生研基調に関連して一部引用・要約)

 

西研「きょういくをテツガクする」

 

 

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