コミュニケーション考

         

「だいたい哲学というのは四苦八苦しながら人間と世界について探究し、ある意味では常識に近づこうとするんだけれど、なかなか常識にたどりつけないという面があるんだよね。」

 これは、柄谷行人の「探究T」について、弟と話をしたときの私の言葉である。実をいうと「探究T」は以前から弟に勧められていた本なのだが、一通り読んでみたのは、ついこのあいだのことである。この本の中で柄谷行人は、「他者」とのコミュニケーションの問題について、非常に鋭い考察を展開しているが、コミュニケーションがいかにして成り立つのか、という事については、結局うまく説明できていない。私としては、彼の鋭い考察を非常に興味深く読みながらも、結局この「探究」は、私たちが日常生活の中で、他者とのコミュニケーションに成功したり挫折したりしながら、それなりに理解している「体験の意味」にまでたどりついていないな、ということを感じて、冒頭のような言葉を発したのである。

 

 しかしながら、「探究T」が自分なりに考えるきっかけになったことも事実である。

以下、@この本の中で私が興味深いと思った点(「探究」の意義と思われる点)及びAこの本がたどりついていないと思われるコミュニケーションの根拠、の2点について述べたいと思う。

「探究T」の中で、私が興味深いと思ったのは、それが構造主義(及びシステム論)についての非常に鋭い批判を含んでいる、という点である。それでは、批判の対象となった「構造主義」とは何であるのか。あえてひとことで言うならば、それは社会・文化の基底に無意識の構造(意識されないままで制度化されている体系)を「関係の総体」として見出そうとする考え方である。例えば構造主義的言語学の立場からすると、すべての言語活動の背後には、それらを可能にする「法則を持った言語体系(ラング)」が存在しており、これによって人間のあらゆる言語活動は、意識されないまま全面的に規定され条件づけられている、という。つまり、人間の言語活動(コミュニケーションも言葉による世界の認識も)は、この「言語体系(ラング)」によって規定され、生み出されるものだ、というのである。

 

 このような一元的な説明に対して、柄谷行人は次のような問題点を指摘する。

「たとえば、日本語の共時的体系などというものはありえない。標準語だけが日本語ではない。日本語なるものは、多数体系であり、たえず流動的に生成変化している。」

(「探究T」28頁)つまり、自己も他者も同時に規定するような固定的な「言語体系(ラング)」などありはしない、と言うのである。

 

 それでは、構造主義者の問題にする「言語体系(ラング)」というのは、いかにして成立するのか。結局それは、特定個人(例えばソシュールという言語学者)の、ある時点における言語体験を「内省」によって取り出し、抽象化することによって、成立するのである。そのような意味において、この「言語体系(ラング)」は閉じられた体系(個人の内にあるもの)であり、「他者」とのコミュニケーションを基礎づけることはできない、と柄谷行人は主張する。それはなぜか。「他者」とは、多かれ少なかれ「私」と言語体系(言語ゲーム)を異にする存在だからである。

 

 そのことを分かりやすくするために、柄谷行人は具体的な「他者」として「外国人や子ども」を例示し、次のように言っている。「外国人や子どもに教えるということは、いいかえれば、共通の規則〔共通の言語体系〕を持たない者に教えるということである。(─)これは、特異なケースだろうか。われわれが他者との対話において、いつもどこかで通じ合わない領域を持つことは、一般的に言えることだ。」「私が言葉で何かを「意味している」ということ自体他者がそう認めなければ成立しない。」(「探究T」9,10頁〔 〕内は引用者)したがって、具体的な「他者」(多かれ少なかれ言語体系を異にする者)とのあいだに、コミュニケーションが成立するためには、実は構造主義的言語学では説明できない大きな「飛躍」「跳躍」が必要なのだ、というのである。

 

 以上、柄谷行人の主張を私なりにたどってきたわけであるが、もう一度、彼の構造主義的言語学批判を要約しておこう。

@「言語」というのは、たえず流動的に生成変化するものであって、構造主義者の主張する共時的な「言語体系(ラング)」なるものは、特定個人のある時点における言語体験を「内省」によって取り出したもの(抽象したもの)にすぎない。

Aその意味で「言語体系(ラング)」というのは閉じられた体系であり、そこにおいては「他者」(言語ゲーム・言語体系を異にする者)は存在しない。

Bこのような「他者」とのあいだにコミュニケーションを成立させるためには、大いなる「飛躍」「跳躍」が必要であるにもかかわらず、構造主義はそのことを見落としている。

 

 特に@の批判は、非常に痛烈である。というのは、人間を無意識の構造によって全面的に規定された存在と見なすことによって、現象学や実存主義などの「主体性の哲学」を越えた、と自負していた構造主義が、結局はその枠内のものでしかない、という批判だからである。

 

 今ここで、われわれの日常を振り返ってみたい。柄谷行人の言うように、われわれが他者との対話において、いつもどこかで通じ合わない領域を持つことは、一般的に言えることだ。目の前にいる生徒も、自分と言語体系(言語ゲーム)を異にする「他者」であり、私が言葉で何かを「意味している」ということ自体、他者(生徒)がそう認めなければ成立しないわけである。このような考え方は、しばしば「指導」の不成立に悩むわれわれの実感にも訴えるものがある。確かに「他者」とのあいだにコミュニケーションを成立させるためには、一種の「飛躍」「跳躍」が必要ではないか、とも思われる。

 

 しかしながら、このような「跳躍」(他者とのコミュニケーションにおける跳躍)は、いかにして成り立つのか。このことについて「探究T」は、ほとんど何も語らない。柄谷行人によれば、「この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ「神秘」がある」(「探究T」50頁)ということなのだそうであるが、どうも説得力に欠けるきらいがある。確かに、かれの言うように、「他者」とのあいだに成立しているコミュニケーションを、共通の言語体系によって説明するのは不可能であろう。「他者」というのは私と言語ゲーム,言語体系を異にする者だからである。しかし、だからといってコミュニケーションを「盲目的な飛躍」と捉えることは、現に日常生活の中でそれぞれの目的に沿ってコミュニケーションを成立させている、われわれ自身の体験にも反しているのではないだろうか。コミュニケーションがいかに成立するのか、ということについてわれわれは、体験そのものを通してほぼ理解しているように思われる。

 

 柄谷行人は、言語ゲーム(言語体系)を異にする「他者」の例として「外国人」や「子ども」を挙げているが、ここでは具体例として、母国語の異なる子ども同士(例えば日本人と米国人)のコミュニケーションを取り上げてみたい。この例では、両者とも典型的な「他者」であるわけだから、コミュニケーションには大きな飛躍が必要ではないか、とも思われるが実際には、ほんの片言の英語しか話せない日本人の子どもが、身振り手振りで結構コミュニケーションを成立させ、米国人の子どもとの間でいろいろなものを交換する、といったこともしばしばみられるようだ。そのような場合、子どもは、例えば「自分の持っているものと相手の持っているものを指さして、両腕を交差する、」といった身振りによって、「この物とあの物を交換したい、」というメッセージを相手に伝えようとする。そして相手の反応(例えば、首をたてに振ったり、よこに振ったり、かしげたり、といった)によって、メッセージが相手に伝わっているかどうかを判断するのである。

 

 確かにこの種のコミュニケーションの成立を、共通の言語体系によって説明することは不可能である。しかしそれは、決して盲目的でもなければ神秘的でもない。その子どもは、身振り手振りによって、相手が解釈するべき「意味」( コード)を創造し、また相手の反応(身振り手振り)によってメッセージが伝わったかどうか判断するとともに、相手のメッセージを解釈するのである。つまり、この場合コミュニケーションというものは、身体的表現によって「意味」を「創造」し、また、想像力によってその意味を「解釈」することによって成立するわけである。

〔子どもが最初に言葉を学び始める、という場合も上記の例と同様に、身体的表現が決定的な意味を持つ。そもそも言語というのは、「はじめは他者(典型的には母親)との身体的コミュニケーション(誘発的微笑,皮膚接触,見つめ合い,視線共有等)の中で、欲望を表出する身体的表現(いわゆる身振り言語)として生まれてくる、」(竹内芳郎「具体的経験の哲学」99頁)わけである。〕

 

 以上述べたようなことは、子どものコミュニケーションだけに当てはまることではない。言語を含む広義の身体的表現によって「意味」(メッセージ)を「創造」し、また前後の脈絡・状況の中でそれを「解釈」する、というのは、発話を通じてのコミュニケーション全般の本質であるように思われる。竹内芳郎によれば、言語に主導された成人のコミュニケーションにおいても、言語以外の「副言語的要因」が決定的な意味を持つという。(「文化の理論のために」192 195 頁)

 

 ここで言う「副言語的要因」とは「身振り,顔の表情,まなざし,姿勢,相手との空間の取り方,発話のタイミング,声の大小,高低,調子,沈黙,間 」などの総称である。それらが、日常のコミュニケーションにおいて大きな意味を持っているということは、われわれ自身の経験に照らしても明らかであろう。そしてコミュニケーションというのは、われわれが一つの状況の中で、言語と身体的表現(副言語的表現)を通じて「意味」(メッセージ)を「創造」し、また、前後の脈絡・状況の中でそれを「解釈」することによって成立するものだ(単に言語のコードに沿って解読するだけではなく)、と考えるならば、コミュニケーションの成立も不成立も同時に理解することができるであろう。

 

 以上のように、(常識的にも明らかなように)コミュニケーションというのは、状況における一つの実践である。そして、メッセージ(発話)の唯一の価値基準が状況に応じた「適切さ」(例えば、Aさんとこの場でXのトピックについて語るにはこのような言い方・表現がよい、といったことを含む)であるとするならば、われわれは「他者」とのコミュニケーションを成立させるためにも、状況の適切な解釈と(広義の)身体的表現(ボディーコミュニケーション)の重要性に注目する必要があるのではないだろうか。    

 

       

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