第二章「教育評価」の混迷と再生

 

第1節 「エバリュエーション」と「教育評価」のあいだ

 

 「エバリュエーション」紹介 「教育評価」と翻訳

日本の「評価」・・・授業の結果が子どもにどのように現れたかを「ネブミ」する・・・

外国人の評価・・・使用する教材の当否やその利用のされ方、つまり教師の側の活動を評価対象として語っている。

 

「エバリュエーション」・・・子どもに脅しをかけて勉強させるために×

 考査は教員が自分の指導を反省して、指導の完全を期するためにするもの

 

 戦後初期の文部省・・・「教育評価」を説明

@        評価は、児童の生活全体を問題にし、その発展をはかろうとするものである

A        評価は、教育の結果ばかりでなく、その過程を重視するものである

B        評価は、教師のおこなう評価ばかりでなく児童の自己評価をも大事なものとして取り上げる

C        評価は、その結果をいっそう適切な教材の選択や、学習指導法の改善に利用し役立てるためにおこなわれる

D        評価は、学習活動を有効ならしめるために欠くべからざるものである

 

しかし、このような「教育評価」と「教育測定」を区別して論じ、前者の意

義を強調する意見は、徐々に「修正」されて、「測定と評価」の調和的理解がはかられるようになる。

(「教育評価」を「教育測定」に近い解釈で理解する)

 「測定と評価」の融合は、1960年代の「相対評価」の隆盛につれて、「評価」=「ネブミ」と受け取られるようになる。

 

 正木正の警告

 測定や評価行為を「技術の末梢的議論のうちに収支」×

 「教育的価値・目標」を問わないと、評価の管理的・測定的正確は「人間疎外」に陥る。

 

 「評価し提供する者」、「教育を改善するもの」・・・この分離が固定されるなら、教師(教員)は最終的な教育主体になりえない。

 

「狭義の測定・評価法」・・・技術の用件「信頼性」「客観性」「妥当性」

 なかでも「妥当性」こそが対象の「精神構造、成長、教育指導目標などについての深い洞察」を必要とすることから、もっとも重視すべき条件である。

 

「妥当性」を欠いた測定・評価法の一人歩きを厳しく戒める

 

 現場教師が容易に取り組める測定・評価法

 「日常のたえざる観察」「組織化された観察」「調査(生活史と実態調査)」をあげる

 

第2節 「相対評価」批判と「到達度評価」の成立

「指導要録」の改定とそれをめぐる論評を素材に、教育評価観の特質と変容を明らかにしたい。

(未発に終わった「エバリュエーション」概念を転生させる歴史的経験を追思考。・・・到達度評価への教育評価観の転換)

 

(1)「相対評価」と「個人内評価」の接合− 加熱と冷却の構造 

 戦前の「学籍簿」に対する反省をふまえて、「指導機能」を重視した評価記録簿の作成を促そうとした。

 

◇正規分布曲線にもとづく「相対評価」の絶対化への警告

 小見山栄一 文部事務官

1 教育測定の精神に則ったものであり、価値判断を行う教育評価の精神には必ずしも則ったものではない。

2 この方法ではこの方法では学年あるいはクラスの差を知ることはできない。

3 児童の相対的な位置を知ることはできるが、(個々の)児童の理解に基づいた教育的処置をすることはできない。

4 この方法は統計上の台数の法則にもとづいたものであって、わずか450人の学級に適用するには無理がある。

 

 ところが次第に「相対評価」が一人歩きをはじめる。

 背景 能力主義に基づく学歴獲得競争

「指導要録」の性格は「指導機能」から「証明機能」に転換

 選抜型競争社会の論理が教育世界を併呑していく過程

 

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