2章 目標論

 

1. 教育目標の支柱

(1) 普通教育の目標と公共社会

普通教育とはなにか

・現代日本の教育制度の基幹は公教育(public education)である。

・日本の法制では公教育の内容とされているのが普通教育と専門教育・職業教育。

・義務教育としての普通教育のあり方は国政上の重要事項。教育の目標内容作りも厳しい

国家統制。

・普通教育とはそもそも何か?

1870年 「普通学」

オーディナリ・エデュケーション・・・→中世ヨーロッパ選良層の教養“自由学芸”

・自由学芸、普遍的教養文化とは共通の教養をめざす点で内容上のつながりあり。

・これらを「普通教育」とするには歴史的性格の異なる国民国家と公教育制度、絶対主義

と市民革命、近代官僚制と産業革命のフィルターに掛けなければならない。

・「普通教育」の概念内容は多様で、その定義は教育学の難問。

本書では、欧米市民革命を頂点とした前後の時期の通念に従って次のように定義。

公共の理性に従ってそれぞれに生きる制度的人間の教育”

「公共の」=「共通の」、「制度的人間」=「市民」

 →男子健常児向け。教授だけではなく、組織も学校に限定しない。ルソーは徳を公共の

理性に想定しながら公教育の対象を男児と論じており、教育集団を“家庭”、“クラブ”とした。後に知を公共の理性とするコンドルセ、日本の公教育制度計画期には教育集団を“学校とする。

 

「共通」と「それぞれに」という言葉は外見上矛盾してみえる。

制度的人間の教育という論法は今日まで変化なし。歴史的に変わってきたのは、共通なるものを何に求めるか、普通教育の内容、制度的人間の人間像。そして普通教育の目標内容の管理と行政のあり方。

 

○権利と保障

公教育のかたちで国家の公に保障する最低限事項

=自由だが不安な競争社会を個人としてより良く生きる能力の中の最低必要量

 

「一定」量の内容と性格は各国さまざまで、その成り立ちの支柱は市民社会の現実と人間像にあり、内容の素材もそこに埋め込まれる。到達目標論をはじめ、各国の学力保障論は子どもが個人として自立してゆくに必要な心身発達のメニューとしてプログラム化しようとしていた。

一定量の保障論は万人向けのものだから保障内容の決定にあたって、多元的な現代大衆市民社会と現実とそこを生きる人々の公に共有部分、一般に公共もしくは共生社会と「成人」や「社会人」の存否とそのありようが問題

人づくりのプログラムの1つの形をなすのが権利と義務としての普通教育。

 

人間像こそ人づくり論の支柱である。

人間像決定の中心テーマは国民国家がつくりだす。

普通教育、目標内容をどのように編成するかは、個性化的、私化的性格をもつものであるにもかかわらず、公共社会をどう管理し、運営するかの公的で社会的な問題。

 

公的な生活諸連関のなかに子どもや青年の将来像である国民諸階層をどう位置付けるか?

 

普通教育と公共社会

1870年 普通学…将来大学教育受けて選良となっていく子どもたちの基礎教養

1869年「小学校」教育課程…大衆向け初等教育。「中学」「大学」と制度上連続しない。

「普通教育」は後者の概念を受け継ぐ。

 

「読、書、算…」と「普通学」の名残を見せながら、法制面では「修身」を筆頭に置く。

大学、中学と小学校、「学問」と「教育」を分かつ公教育過程の二重化が進む

 

公共社会の統合原理である公共の理性が「文明」→「国体」にかわっていく経過と対応。

・公教育の二階部分(帝国大学、旧制高等学校)は依然として「普通学」の伝統を継承。

・普通教育⇔高等教育、高等普通教育は形容矛盾

公共の理性の日本版を「国体」→制度的人間を忠良なる「臣民」とする。

 

「王土王民」論から「公民」論へ

王土王民論…国民を「君」の所有物である公共社会の付属品とみる考え方

20Cの国際的環境と、国内で進み始めた市民社会化への社会力学が、従属的で「受動的な人間像」を国民の生活世界の実情と合わないものにした。

・大正デモクラシー、労働運動…など臣民像を空洞化させ、治者層みずから官製の「能動的人間像」を提起→旧秩序の自らに手による修正、住民の公共社会への参加→「公民」像へ→公民科の設置、社会教育分野で軍事教育とセットになった公民教育の強化

・臣民像:国民は公共社会の付属品。公共社会では非存在。

公民像:公共社会の利用者→これを体制内存在に転身させたい(政治力学)

→生活連関の主人公、主権を持つ構成員と見ていない点では一緒。初等教育等には影響小。

(2) 目標内容論の課題

公共社会と普通教育の「戦後」概念

・「子どもの権利条約」批准→国民主権の内部で未分化のまま含まれていた子どもの自己の

発意において発達する権利の体系をとりだすことは不可避。

・公共社会に対する国民と子どもの関係は旧法制時代とは全く異なり、普通教育の概念、

目標づくりの組織と手続きの構造もすっかり変わってくる。

・生活世界の共生社会的共同連関は主権者の子ども万人相互の論理的に想定される契約の

所産。

・普通教育の目標内容を決定する機能は公共社会にその権利を委任している子どもたちに

所属する。

・目標決定をめぐる大人の世代と子どもの権利関係について次のような原則が出てくる。

@    目標内容決定の権限は第一義的には子ども自身に属する。

A    しかし子どもは自力でその権利を行使できないので、助力者が必要

B    子どもが自力で権利を行使できるまでは、大人の世代に目標内容づくりが移行する。

大人の世代が仮にあずかっている形と理解すべき

以上が、学習指導要領づくりの国民への公開、参加の実体。

・教育の目標内容論は直接・間接関係する人々の組織づくりについての精緻な理論研究を第一の課題とする。教師、PTA、教育委員会、文科省、専門家・・・

 

○公共社会の概念の現段階と目標論の課題

かつて:公共社会の現実といえば国家、行政、自治体

現代:絶えず創造され発展し続ける現実。逆に現実を限定する政府・自治体の枠自体に

変化が求められている。

 

・公民教育論の流行、民間の教育運動と文化論や教育目的論は新しい普通教育概念の萌芽。

・政治と現実との亀裂→政治不信、社会不安、若者の反乱…

 この民衆運動の高まりはこのずれを埋めようとする試行の形。

 

・自然環境も公益であり、公共物という観念は当たり前のことだったが、官僚制・産業化社会がこれを破壊した。近年この通念の正しさが再確認され始めている。その中から新しい教育目標の分類学づくりの力が誕生する。

 

教育目標論の第二の課題

・普通教育の目標内容は公共社会の現実をよりよく個人として生きるのに最低限必要とする能力の一覧だということ。

・目標内容論の第2の課題は、人々によって生きられ発展されつつある公共社会の現実を深く探ることによって、分類学を絶えず作りかえていくことにある。

B.S.ブルームは目標内容群をとりだし、明らかにしていく方法として、次の3つを挙げている。またBによりa),b)2つが可能としている。

@教師作成テストの分析、A授業観察…帰納、経験的

B分類学の利用…演繹的

a)     分類学に挙げられている種々の能力や文化的価値を慎重に選び出すことによって、教育目標を正確に設定し、記述することができる

b)     まえもって考えられ設定されていなかった未知の目標ないし目標群が、分類学の適用によって新たに発見され、補充される。

→目標内容づくりの技術としては利用しやすいが、どうつくったかに問題がある。

この分類学を人間の諸能力と文化的価値の一覧表によって作ったが、その正当性は証明されていない。

・公共社会という現実の基盤とに関係なく作られる目標群は共同体が「一定」以上

とする学力の保障になりえない。

・目標を作ること自体に浴びせられた批判

@生まれながらの素質の上の能力差があるため「一定以上」の学力は不可能

A支配階級の文化的覇権主義

→@については事実がどうであるかだけを問題にしている為、非教育的立場。事実を踏まえ、事実をどう変え、どう言う事実を新しく作るかが問題。

 

「一定」論批判の立場

・Aは学力保障が絶対的に善なるものではあり得ないという立場。

・教育的なものであっても善ではあり得ず、必要だとしてもそれは必要悪であるとする人間悪の思想。

・これは既成の教育という人づくり、これを支える社会的な権力関係をつくり変えていく教育批判の思想。

・欧米諸国家の移民の多い国に対する「一定以上の学力」保障政策に対する批判も同様の系譜が見られる。→e.g.)「言語教育」、文化的帝国主義

・Aの思想は教育的ひとづくりという市民社会のつくった人間形成の枠をその支柱ごとのりこえてよりよい技へむけた動き→目標と評価の基準は従来常識から次第に新しい質へ

 

 

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