原論T 目標と評価を結ぶ
第1章 結び目の課題
一 教育になじまない目標・評価法
戦後教育学の弱点
目標内容(例:「本時の教育目標」)は近代日本では国家意志の聖域
国家官僚と国定・検定教科書が占有 民心の立ち入り禁止の領域
戦後日本の教育評価論・・・目標論(価値の問題が入ってくる)を自らの体系から切り離した
目標論をはずした評価論は「教育学」の分野⇒純粋に「心理学」の分野へ
(そうなってしまったことが、問題にならなかった)
5段階相対評価法・・・戦後の心理学が提示した評価法
これは、子どもの権利時代の教育の目的となじまない Q なぜか?
A 相対評価法は、何人かの子どもを落第生にする仕組みだから
(すべての子どもはわかるように教えてもらう権利があるにもかかわらず・・・)
Q 5段階相対評価法の反教育性に異議を唱えた者は? (教育者は少数)
A 素人の一般の親たち(今学期は試験の点数が上がったのに「相変わらず3」なのは×)
目標と評価
戦後の相対評価がもつ二つの問題点
(1) クラスの「みんな」ができるようになるはずはない⇒教育本来の役割を否定
(2) 「どこがわるいか」親にも子どもにもわからない⇒到達点(目標)不在
親たちがまず問題にしたのは(1)の方だった
「誰かが必ず1をもらうというのは、おかしい」
「みんなができるようになることはありえないのか?」
ただし、(親たちの意見は)万人の教育を受ける権利を直裁に表明したものではない
(「子どもはよくわかるように教えてもらう権利を持つ」という意識が底流にあるが・・・)
しかし、このような権利主張だけでは破綻がくる
Q なぜか? A「みんなができる」ための条件(新しい目標内容、教材、指導過程、管理の組織)を無視しているため
Q 評価論の分野だけの改革要求の結果は? A 教師には条件の伴わない無限の責任を、子どもには「なせばなる」といった精神主義を押しかぶせることになる
〔評価法の改革は目標内容(及び達成の条件)の改革と同時に進める必要がある〕
Q 民間教育研究団体が進めてきた相対評価改革のための問題提起は?
A 到達度評価・目標論(目標や教材改革の試みと結びつけて・・・)
これは、自然(じねん)心性の強い日本では数少ない教育=制作説
二 目標・評価論の現段階
目標論
Q 到達度評価・目標に対立する目標論は?
A 方向目標 例)社会生活を合理的に営む態度を育てる、美的情操を豊かにする
自然に感動する能力を高める(「態度・考え方」「豊かに・高める」)
Q 方向目標がなぜまかり通ってきたのか?
A1 日本の親と教師は何を教えるかの決定権を与えられてこなかった
(自立した個人として生きるのに必要な基礎教養像をつくることが必要だったが・・・)
A2 日本の教育過程は履修(年数)主義 何を学びえているかではなく、どこで何年
学んだかを重視
結果)入学試験も(資格試験ではなく)競争試験になる・・・応募者を定員に合わせて上から
取る選抜制度、入学試験さえ通ればあとは自然卒業(「学校内家族主義」)と不可分
A3 戦後主流となったプラグマティズム(「新教育」)の影響
獲得すべき価値等について「不可知論」的な傾向を持つ
(戦中の教育に対する「解毒剤」の意味を担うという意義はあったが・・・)
Q 到達目標論・到達度評価論とは?
A 子どもが「教えられてある能力」を評価する(目標内容を到達点として示す)
例)二桁の加算ができる、中国の封建社会の特徴がわかる、遠近法を使える・・・
民間教育運動が提起した「到達目標論」の実践的・理論的成果
@ 到達点が明確⇒相対評価と序列主義をのりこえる条件が得られる
A 不明確だった発達段階を、目標に向かう段階として具体的にあらわせる
B 到達できなかった場合の教材の研究や指導過程の工夫が教師の明確な課題となる
C 「教材精選」の目安が得られる
D 学習における相互協力が子どもにとって(義務ではなく)必然になってきた
評価論
Q 到達目標に対応する評価は? A 「絶対評価」⇒「到達度評価」
70年代の教育研究・・・相対評価を「能力主義」として批判し「到達度評価」を提起
差別と選別の教育をつくりだすもの!
Q 到達度評価であればそれを克服できるか? A そうともいえない Q なぜか?
A 目標に到達しないことは子どもの能力のせいだ ⇒ 旧式の能力主義=選別論になる
Q 大切なことは?
A 到達度評価を教育過程改造に活用すること
(考え方)
子どもの学力が目標に到達していない事実を、教材や指導過程の誤りをただし、教室定員や教育費に見られる弱点を正していく方向に活用する
目標に達しない原因を、本人の資質ではなく学習の条件の方に求める⇒これを改造
Q 到達度評価・目標論の(哲学的)前提は?
A1 教えられうる目標(到達点)は客観的に存在する(不可知ではない)
A2 子どもと助成者(親と教師)はその認定に参加する義務を負い、権利を持つ
A3 自然から受け取った能力を用いてもうひとつの能力を解放することができる
(人間は、これまで自然的・遺伝的能力を「人間文化」の形へと対象化してきた)
以上の考え方のなかには一種のオプティミズム・楽天主義がある
(認識論、教師論、教育論すべてにわたって)
※オプティミズムはリアリズムと結びつかなければ強い力にならない
相対評価法は、ある種の「客観性」(および「実用性」)を持っていた⇒支持を受ける
測定論
新しい絶対評価法は、どのようにして客観的なシステムを開発できるのか?
テストは学力も含む人間の能力や人格の(ある側面の)測定の道具⇒「能力主義」にとり込まれると、公平で客観的な「選別」という非教育的な道具になった(⇒偏差値時代)
日本の学校の入試制度はほとんど選抜主義(成績順に応募者を定員だけ合格させる)
これは、一種の相対評価
Q 到達度評価を活用した入試は?
A 評価(合格)の基準は、応募集団の学力状況や人数とは別に客観的に決まっていて
これに到達したものは全員合格(一種の資格主義)
入試制度が選抜主義に変わっていったのには理由がある⇒本文(1)〜(3)
※教育の技と制度の自立性の確立、家族主義の克服、文化の植民地性の克服が課題
文化の植民地性とは? 「日本の近代文化の特徴」「(欧米に)追いつけ追い越せ主義」
通知表の問題・・・教えていることは毎年異なるのに、なぜ同じ形式の通知表で間に合うのか
Q そのような疑問や異議が出されなかった理由は?
A 子どもと親は「通知・通告」の対象でしかなかったから
三 態度・関心の世界
Q 到達目標論が問題にしてこなかった重要な教育内容は?
A「態度や生き方」、「関心の持ち方」、「行動の仕方」
方向目標の目標内容・・・確かに「教育的人づくり」がつくり出そうとしてきた価値の一つ
Q 方向目標・相対評価法に舞い戻ることなくどう問題を解決するか?
A 上記の目標内容を、到達目標論の論法で組織しなおすこと
〔回避すべき問題〕
@ 教育目標における二元論・・・「知的・認識的価値」と「道徳的・人格的価値を並置する」
A 学び方・主体性・意欲に関する「到達目標的形態」をつくらず「方向目標」として設定
Q 筆者の立場は?
A 「生き方、思考力、態度」と「科学的概念や芸術的形象に関する知」を一元的に理解する。つまり、「概念や形象や知の十分に理解された形」と「人間の生きる意欲・生き方は不可分」である⇒したがって「人格価値」もある種の「到達目標」としてあらわせる。
(「生き方、態度、思考力、道徳性」は、天の声としてふってわくのではなく「認識の所産」)
「学習の記録」と「行動の記録」の二分法を再検討することが必要
到達度評価の弱点は、それが学力評価論であって教育評価とはいえない点
一連の課題
・ 「もうひとつの評定と評価の科学的な方法」を見つけ出すこと
・ 教材論・施設論・指導過程論・学習形態の開発に力を注ぐこと
・ 全体を構造づける日本の教育集団の管理のシステムをつくりだしていくこと