佐藤実践と竹内常一の分析に関するコメント

 

1、法の正当性と「私案」作成の手続きについて

 

 佐藤実践に関わって竹内は次のように述べる。

 佐藤は国民投票法(別の名は「憲法改正手続法」)が「ルールを作るルール」としての条件を満たしているかどうかを明らかにするために、生徒たちに彼らの「私案」を作らせている。

 

 ルールには「ルールを作るルール」(構成的ルール)と「そのルールによってつくられたルール」(被構成的ルール)がある。(……)

 

 このことは子どもの遊びのなかによく見られる。三角ベースの草野球を見ていると、当初はボスがルールを決めているが、いつしか口げんかで決められるようになり、やがて、平等や公平の原則を問う討論によってルールを決めるようになる。このなかで子どもは「ルールを作るルール」を決めるのは「強者」の力ではなく正義の原則を問う討論の「ちから」であることを学んでいる。そればかりか、そのなかで子どもは正義の原則にかなった手続きを踏んで作られたものではないルールは「法の力」をもたないということも学んでいる。(186頁)

 

 ここで竹内が問題にしているのは「法」というものの正当性である。「正当なルールを作るルール」によってつくられた法、つまり「正義の原則にかなった手続きを踏んでつくられた」法だけが正当性を持つ、というわけである。

 

 確かに授業を通して子どもたちがそのような本質(法の正当性の根拠)をつかみ取ることは非常に重要であろう。JJルソーも『社会契約論』の冒頭で「人間は自由なものとして生まれた。しかし、いたるところで鉄鎖につながれている。(……)何がそれを正当なものとなしうるか」という問題を投げかけ、「法や権力の正当性を根拠づけるものは“人民の合意”以外にありえない」ことを明らかにする。佐藤実践に関わっていえば、国民が直接に意思表示する制度である「国民投票」の手続きを定めた「国民投票法」がそのような正当性を持つかどうか、ということについて生徒自身が法の本質を踏まえて判断していくことが大切なのである。

 

 しかし、竹内の「(子どもたちによる)私案作成の手続きこそ大切にすべきである」は妥当な見解なのだろうか。私には法(又は法案)と私案との混同があるように思われる。この点について歴史的な事例を引きながら述べてみたい。

 

 周知のように明治時代の自由民権運動は、明治政府に対して国会開設、憲法制定を迫っていく大きな運動だった。(JJルソーの『社会契約論』=中江兆民訳『民約論』に大きな影響を受けたと言われる。)そして、運動の過程で「国会期成同盟」は、自ら憲法を作ろうと1881年までに私案を持ち寄ることを決議、それを受けて植木枝盛による憲法私案や「五日市憲法」など様々な私案が作られた。

 

 さて、ここで作られた私案というのは文字通り個人(または任意のグループ)が作成する案である。その時点で問われなければならないのは作成の過程や手続き(それは当然「一人だけで作る」ということも含めてさまざまな形があってよい)ではなく、「私案の内容」ではないだろうか。

 

自由民権運動の場合、植木枝盛の私案が有名であるが、農家の土蔵で発見された「五日市憲法」なども民主的・先進的内容が自由民権運動の思想的深まりを象徴すると評価されている。また、何よりもこの運動で注目すべきは、「政府にお任せするのではなく自ら“憲法私案”を作っていくこと」が運動の中で提起され、実践されたことであろう。「憲法解釈や憲法制定の主体」となっていくことを学習の目標とする場合、日本の歴史の中で現実に行われた「このような運動」を伝えていくこと自体に大きな意味があると思われる。

 

 具体的には、生徒たちに「国民投票法私案」を作らせるに当たって、自由民権運動のなかで、@憲法そのものの「私案」を作成する取り組みが運動として行われたこと、Aその内容は実際に制定された「大日本帝国憲法」よりもはるかに先進的なものであったこと(「私案」は現行の憲法や法律を越えたものになりうること)、などを伝えて生徒をあおるのもいいのではないだろうか。

 

 さて、佐藤実践の場合、作成の過程や「手続き」を“体験”しつつ「法の正当性をつかむ」段階にあたるのは、「私案作り」の場面ではなく実践記録の(あるいは佐藤の推奨する)88頁〔B自分(高校生)たちがつくった「国民投票法私案」を発表、検討しあう、とC2007年5月成立の「国民投票法」と「私案」内容との相違を考察する、〕の場面であろう。

 

ここで「自分の作成した『私案』がよいと考える理由は何か、どのような『国民投票法案』がすぐれたものであるのか、判断の基準をどこに置くべきか、2007年5月成立の『国民投票法』に問題点はあるか、あるとしたらそれはどのような点なのか、」をめぐる討論を成り立たせることができれば、「法の本質」や「正当性」についてしっかりと考え、「民主主義」を文字通り実現していく力を身につけていく機会となりうるであろう。

 

入り口として「択一式」を用いるのがよいかどうかは「(生徒の実態を踏まえつつ)上記のような討論をしていく上で有効であるかどうか、」というところで判断すればよいのではないか。国民投票法を検討する観点を意識し・共有するという意味では「択一式」が有効な場合もあるだろう。

 

2、政治的判断の「原理」とは何か?

 

 しかし、そのようなやり方はニュートラルなものではない、という問題点を竹内は指摘する。確かに、択一式にした場合、選択肢そのものの設定の段階で授業する側の観点が反映されるという点は否めないだろう。しかしながら私は、最初の段階で生徒に明示するかどうかは別として、授業を組み立てたり「判断をする」に際してよってたつ原理はある、むしろそのような原理を教員は目標や観点の中に取り入れるべきではないか、と考える。それは、「いい政治」と「悪い政治」を判断する根拠でもある。(「正義」という言葉を用いる竹内自身も実は“それ”に依拠しながら分析しているはずである。)

 

 その原理とはどのようなものか。私は200年以上前にルソーが主張した核心部分「政治権力や法の正当性の根拠は広範な人民の“合意”と“一般意志”(=“すべてのメンバーの共通利益とは何か”を考えつつ“公論”によって形成された人々の総意)である」という原理は今なお有効であると考えている。そして、「すべてのメンバーの共通利益」を判断する基準として重要なものが広義の人権(自由権、社会権、そして政治的意思決定に参加する市民権)である。この原理そのものは近代から現代への歴史の中で「普遍的な原理」として確立されてきたものだと考えている。

 

 例えば、首藤実践に関わって示した「特別支援教育の発展」(「障がい児」への教育保障を求める運動を背景に「能力に応じて」という条文を「能力の面で困難を抱える児童・生徒にはよりいっそう厚く支援し教育を保障する」という方向へ解釈することによって現在の特別支援教育の体制を作っていった)は、すべてのメンバーに権利を保障するという方向性を持っているという意味で「前進」であり、その動きには「正当性」があると判断できる。また、竹内が例示する三角ベースの場合も「運動能力のいかんにかかわらず全員が楽しく遊べる(納得して楽しくゲームに参加できる)ものであるかどうか、」ということが正当性・妥当性の基準となるであろう。

 

 さらに、我々が一般的に政治の良し悪しを判断する(例えば「“弱者”を切り捨てる政治はいけない」「政治家の私腹を肥やしたり一部の人間の利益に奉仕するような政治はいけない」とか「国民不在の政治はいけない」といった)場合も暗黙のうちに上記のような原理に即して判断しているのである。

 

 以上のような「原理」は、仮に佐藤の推奨する択一式をとらない場合でも、生徒たちの討論の際に論点・視点をアドバイスするような場面において、むしろ積極的に反映するべきであろう。

 

3、生徒自身を立法行為(憲法の「解釈」「改正」も含めて)の主体とする

 

 話を戻すことになるが、竹内が私案作成の「手続き」にこだわった理由は明確に述べられている。少し言い換えながらまとめると、生徒自身が「法の正当性は討論・公論による合意である」ということを「体得」できる授業こそが憲法や法・民主主義の学習においては重要であり、そのためには「立法」の手続き(や原理)が問題にされなければならない、という点である。そして、まさにそれを「模擬的な体験」として創造していこう、というのが佐藤の意図であろう。

 

 実践によってそれを達成するためには、先に述べたように本文88頁〔B自分(高校生)たちがつくった「国民投票法私案」を発表、検討しあう、とC2007年5月成立の「国民投票法」と「私案」内容との相違を考察する、〕の場面で上記のような原理にせまっていく討論を成立させることが大切である。

 

  ここで「自分の作成した『私案』がよいと考える理由は何か、2007年5月成立の『国民投票法』に問題点はあるか、あるとしたらそれはどのような点なのか、」をめぐる討論、さらには、『国民投票法』の問題点はなぜ問題だと判断できるのか、そもそもどのような『国民投票法案』がすぐれたものであるのか、判断の基準をどこに置くべきか、「問題点があるとすればそれが発生した原因はなにか」といった討論が大切であろう。

 

 具体的な進め方について詳細に語ることはできないが、おそらく生徒は「マスコミの統制」や「教育の統制」の可能性につながるような「国民投票法」には問題があると判断するだろう。そこで「その根拠は?」と問いかけたならば「言論統制につながる」とか「国民の自由な意思決定を妨げる」といった趣旨の発言も出されるのではないかと思われる。

 

前段の 2、政治的判断の「原理」とは何か? では「基準として重要なものは広義の人権(自由権、社会権、そして政治的意思決定に参加する市民権」であることを述べたが、生徒から出された発言を板書・整理しつつ、この「基準」を明確にしていくことが大切ではないかと思う。さらに、このような基準(自由権や市民権を妨げるような法には問題がある)が意識された後、さらにこの基準に照らして「2007年5月成立の『国民投票法』」の問題点を検討するよう「指導する」とともに、『今こそ学校で憲法を語ろう』第1章で渡辺治氏が提示しているような「国民投票法の問題点」を補足するのもいいのではないだろうか。

 

 そして、「問題点があるとすればそれが発生した原因はなにか」という考察に際しては、「大日本帝国憲法」の内容と自由民権運動家が作った「私擬憲法」とが大きく食い違った内容になってしまったのはなぜか、さらに「大日本帝国憲法」制定当時の事情と現在の「国民投票法」制定の事情を比較した場合「違いと共通点」はなにか、という問いかけを発するのもいいだろう。そこでは「国民主権」を憲法が明記している現在においても「国民が法の内容についてしっかり考えず、意思表示もしないまま立法を『代表者』に任せてしまうことは危険なこと(一部の人間の意図や利害を中心に立法が行われてしまう危険をともなうこと)」に気づかせたい。

 

このような点に気づいていくきっかけになれば、佐藤実践のように「それぞれが私案を作ってみる」という取り組みにも大きな意義があるといえるのではないか。

 

 さらに「いい政治とはどんな政治か」「優れた法と“悪法”の違いはなにか」といった事柄について考えさせながら、出された発言を整理して「政治権力や法の正当性の根拠は広範な人民の“合意”と“一般意志”(=“すべてのメンバーの共通利益とは何か”を考えつつ“公論”によって形成された人々の総意)であること。そして、「すべてのメンバーの共通利益」を判断する基準として重要なものが広義の人権(自由権、社会権、そして政治的意思決定に参加する市民権)であること、」などを明確にしていきたい。(注)

 

 場合によっては、私が 2、政治的判断の「原理」とは何か? で例示した「特別支援教育の発展」や「ゲームのルール」の正当性(よりよいゲームのルールとはどのようなルールか?)について触れたり、日常の中で「こんな政治ではだめだ」という場合はどのような場合か?といった問いかけをするのもいいのではないか。

 

 以上のような論議をする中で、「法や権力の正当性」を生み出すものは「公論」による「合意」であることを訓練として学ばせていくことが大切なのではないだろうか。

 

(注)

 ここで、ある原理を結論として想定し、「討議」を通して生徒をそこに導いていくことは「一つの正しさ」を押し付けることになる、という意見があるかもしれない。しかしながら上記の「原理」はまさに「具体的な意思決定(立法)に際して様々な異論を交換し、討議しながら人々が妥当な結論を探っていくこと」を大切にする原理なのである。

 

この原理に対する「異論」をわかりやすく明示すると、「異論を出し合う討議を大切にする必要はない」「立法に当たって構成員全員の共通利益を考える必要はない」ということであり、そのような見解が普遍的な妥当性を持たないことは明らかであろう。

 

また、“すべてのメンバーの共通利益とは何か”を考えつつ“公論”によって形成された人々の総意が大切だ〔ルソーは「人民主権」(「国民主権」)を文字通り実現する原理は「直接民主主義」だと主張している〕に対する異論を明示すれば「議員は選挙で選ばれたのだからその意見は国民の意思だ。それに対する異論を述べることは民主主義に反する(たとえその内容が多くの人々を犠牲にして一部の利益を擁護するものであっても)」「地方議会に対して市民から直接請求で住民投票条例案が出されてもそれは議会の権限を損なうものであるから常に否決されて当然だ」さらには「国会議員の3分の2の発議で出された『憲法改正案』に国民投票で反対するのは議会制民主主義に反する!」といったものが例示できよう。

 

(ルソーによれば主権とは社会的な意思決定権であり、「具体的行為(行政)」は代行できても「意思決定(立法)というものは原理的に代行不可能」であることをもって、人民主権を実現する原理は直接民主主義以外にないことを主張する。彼の明解な論理に対して、上記のような言説の欺瞞性は明らかではないだろうか。「議会制民主主義」の歴史的な意義は認めるにしても、「国民主権」を実現する原理としては不充分なものであること、そして、それを充分なものとして絶対化・自己目的化すれば、ただちにそれは「人民の意志を代表して踏みにじる機関(ルソー)」となってしまうことには注目すべきではないだろうか。)

 

  「憲法解釈」「憲法改正」「憲法制定」の主体となっていくことにせよ、「平和的な国家および社会の形成者」となっていくことにせよ、ルソーの言う「直接民主主義」の主体(社会的な問題について直接に学習・判断・意思表示していく主体)へと自己形成していくことだ、と言えるのではないか。

 

「国民投票」や「住民投票」などある意味で特別な場合(制度として直接民主主義が採用されている場合)だけでなく、社会的・政治的判断や意思表示の主体、さらには社会を創造・変革していく主体としての自己形成こそが民主的訓練の目標であり、そのことは「高生研」が結成されてかなり早い段階で明確にされていたように思われる。

 

(後記)

・以上の論考で「実践的展望」を充分明らかにできたとは言いがたいが、(「細案」を示すことを目的としたコメントではない)このたびは主に原理と歴史的事例を示しつつ課題を明らかにしようと努めた。

 

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