総合学習とサルトル思想

                           1999年 執筆

 新学習指導要領のなかで、文部省は「総合的な学習の時間」を設置し、次のように定めた。「総合的な学習の時間においては、各学校は、地域や学校、生徒の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や生徒の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うものとする」と。要するに「従来の教科の枠を越えた総合的な学習の時間を設置せよ」という趣旨であるが、これは民間教育研究団体や教職員組合がこれまで提唱してきた総合学習の発想を一部取り入れて設置されたものである。ここではまず、先駆的に「総合」学習に取り組んできた橘女子高校(神奈川県)の取り組みを紹介したい。

 

 橘の「総合」教科は、次の三つの領域からなる。総合Aは「自然と人間、命の問題」をテーマに@自然とのかかわり、A食べること、作ること、Bヒトから人間、C共生、D自分・自律、という流れで構成される。そして、総合Bでは「総合Aで学んだ知性を体のすみずみまで働かせる」ために「(湯飲みなどの)物作り、群読、民舞、合唱その他の自己表現」を行うことを内容とする。そして総合Cでは「他人との関係、社会的関係を獲得して自立」していくことをめざし、@農作業、A共同食事作り、Bボランティア活動などに取り組む、という。

 

 そもそもなぜ橘女子高は、従来の教科の概念を越えた「総合」学習を取り入れたのか。その意図は次の通りである。従来の教育は「個別的・断片的知識」を次々と頭脳にたたきこみ、その量を競うという面を多分に持っていた。しかし「総合」は、「じっくり観察したりじっくり感じたり」する空間を設定することによって、「生きていく根っこ」のところに彼らを立たせ、「見つめ」「振り返り」「思考し」「気づき」「認識する」というプロセスを大切にしながら本当の学び(具体的経験のなかで生きる真の学び)を体験させようとするものである。(注1)

 

 以上のような橘女子高の実践は、いわゆる「総合学習」の一例といえるが、このような「学習」を生みだした背景や目的は『弁証法的理性批判』におけるサルトルの問題意識とつながってくる面が多々あるように思われる。以下、そのことについて述べてみたい。

 

 JPサルトル著『弁証法的理性批判』の究極的な目標は、人間に関するあらゆる個別的諸科学を包括する一つの全体的な人間学のために、確固とした哲学的土台を提出するところにあった。(注2)それではなぜサルトルは、そのようなことを目指したのだろうか。そもそも近代の個別的諸科学の特徴は、限定された部分領域の現象のみを取り上げ、一つの専門分野内でとことんデータの「分析」を行い「部分合理性」を追求する、というものであった。ところがそのような「部分合理性」をひたすら追求した結果、人間生活の全体・地球全体として見た時様々な人間疎外や公害・環境破壊など極めて深刻な問題が生み出されていった。

 

 このような科学そのものが生み出した問題点を克服していくためにはどうするべきなのか。まず第一にサルトルが強調するのは、人間そのもの(具体的経験の全体)に立ち戻っていくことである。(注3)先に挙げた橘女子高校の取り組み(A「自然と人間・命」、B「物作りと自己表現」、C「農作業、共同食事作り、ボランティア活動等の社会的体験」をテーマとした総合学習)は、まさに個別化・細分化された諸科学・教科の枠を越えて人間そのもの(具体的経験)へと立ち戻っていく実践だと言えるのではないだろうか。(注4)

 

 第二に、「部分合理性」のみを追求する個別的諸科学を超えていくためにサルトルの強調する方法は、全体化(現実の事象を分析的に個別化して認識するのではなく、常に他の事象との関わりの中へ、より広い全体の中へ位置づけていく方向で把握すること)である。

 

サルトルはこれを個別的な諸科学を包括する「人間学」の方法とすべきことを主張するのであるが、この「全体化」は同時に人間の行動・実践には常に含まれる契機でもある。たとえば彼は次のように言う。一つひとつの行動において、欲求を実現しようとする投企(もくろみ)に照らして、主体をとりまくバラバラな現実が、欲求充足の場として全体化される(人間によって全体として把握される)と。(注5)

 

 ところで、以上のようなサルトルの視点は、城丸章夫(教育学者)の「総合学習論」とよく重なっているように見える。例えば城丸は言う。行動というモメントがある時、行動主体の前にものごとが「総合化・構造化」される、と。(注6)つまり、ある目的意識を持って行動する主体は、自分を取り巻く現実を(バラバラな「所与」としてではなく)一定の構造をもった「情勢」として総合化(全体として把握)するのである。例えば、生徒会行事やHR活動に取り組む際、活動主体(例えば力のあるクラスのリーダー)は行動を媒介にして現実(クラスの現状や人間関係等)の具体的全体をとらえ、一定の見通しを持って周りに働きかけていく、というわけである。

 

 そしてまた、言わば「社会の形成者」としての実践的な課題意識から出発する時、従来の個別的諸科学は「社会を形成するために現実を認識する方法」として意味づけられることになる。竹内常一にならって定式化すれば、「実践的な課題意識の確立→具体的な現実の科学的認識→具体的現実を総体として把握(現実の「全体化」)→現実に働きかける実践的な見通しの確立」(注7)となるであろう。そして、そのような視点に立つ時、まさに個別化・細分化された諸科学の枠を越えて現実を総体としてとらえていくこと、「総合的な生きた知」を求めていくことの大切さを確認することができるであろう。(注8)

 

 最後に、学びの共有(共同の実践)という観点から総合学習とサルトル思想に触れておきたい。『弁証法的理性批判』(「集団から歴史へ」)の中でサルトルは、活動的集団における成員同士の人間関係が、第一に共同の実践(集団)そのものによって媒介され統一されること、第二に活動しつつある一人ひとりの成員によって(「われわれ」として)統一化(総合)されることを強調している。(注9)いわゆる総合学習では、学校行事・生徒会行事等を通じて行う共同の実践、農作業・ボランティアなどの社会体験、「課題を設定し共に学ぶ」という共同の学習体験を大切にするが、そのような体験(共同の実践)を通じて子どもたちは自分たち自身を「共に学ぶわれわれ」、さらには「共に社会を構成し、社会を創るわれわれ」として統一化(総合)してとらえなおすことになるであろう。子どもたちの視線が社会や周囲に向かわず、相互の関係を作っていく力が希薄になっていると言われる現在、このような総合学習の視点はますます重要になっているのではないだろうか。

 

注1)『高校生活指導』(青木書店)第111号(「学校観をこえたカリキュラム」)で橘女子高校の「総合」が紹介されている。

注2)JPサルトル著『弁証法的理性批判』(人文書院)第1分冊 69頁

注3)サルトルの弁証法は「個人的実践(具体的経験)→実践的惰性態(経験・実践が疎外される領域)→集団的実践」という順序で進んでいくが、絶えず立ちもどっていくべき原点は「主体的な実践(人間の具体的経験)」である。

注4)私自身も1997年に同校を訪問し見学をさせていただいたが、橘の「総合」カリキュラムは人間の具体的経験の全体を大切にしながら「人間疎外や環境破壊」等の諸問題を越えていく新しい教育の視点を確実に持っていたように思われる。ただしそのような総合学習の視点を持って実践することは従来の教科の枠内でも当然可能であろう。

(竹内常一『教育を変える』217頁「視点としての総合学習」参照)

注5)『弁証法的理性批判』(人文書院)第1分冊 89頁 ( )内は引用者

注6)竹内常一著『教育を変える』(桜井書店)214頁

注7) 同  217頁 ( )内は引用者

注8)竹内芳郎氏もその著書の中で、科学のあるべき方向性として人間疎外を生み出した「巨大科学」とは異なる「世界内科学」を繰り返し主張しているが、ほぼ同一の問題意識に基づくものといえるであろう。

注9)『弁証法的理性批判』(人文書院)第2分冊 42頁 ( )内は引用者

 

 

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