首藤実践および竹内常一の分析に対するコメント(後半)

 

(3)生徒同士の意見交換と「確信」の問い返し

 

 首藤は実践記録の中で次のように述べている。

 同情や共感を寄せる意見がある一方で、批判的な意見もある。こうした多様な意見が存在することは健全である。自分の感性にもとづく受け止め方が学びの出発点であり、それがどう学びによって展開していくかが重要なのである。(95頁)

 

 ワーキングプアに対しては、共感を寄せる意見の一方で、厳しい批判的な意見もあったし、「生活保護は当然の権利」に対して、「生活保護を受けるのは恥」という意見もあった。この授業では、そうした生徒の意見を集団のなかでさらに深く問い返していく工夫が求められたと反省している。(99頁)

 

 上記の「批判的な意見」や「生活保護を受けるのは恥」という意見は竹内の言葉では「生活保護を慈恵としてとらえ」ていることになるのであろう。そのような意見に対する「問い返し」はいかにして可能となるのであろうか。実践記録によればK弁護士の講義によってかなり「揺り動かされた」のではないかと想像できる。また、竹内が指摘するように広義の歴史学習も取り入れながら「憲法を生成過程にあるものととらえ、」生徒がその「解釈」「制定」「改正」の判断・行為主体となっていくような指導を目指していくことで、かなりの程度において「問い返し」ができる可能性はある。

 

 しかしながら、「(もしかしたら自分もああなるかも、という不安はあるが)ホームレスの若者のような生き方では誇りがもてない(情けない)のでなりたくない!」といった感想はかなり強い確信を伴っているようにも思われる。首藤が言うように、集団的な意見交換の中で「問い直し」を進めていけるのが望ましいとは思えるが、それはいかにして可能になるのであろうか。生徒の討議を組織するに際して私は以下の二つの問いかけが重要ではないかと考える。

 

@「登場する若者」のなかにある葛藤(意識の両義性)に目を向けるような問いかけ

(登場する若者は、現状をどのように考えているのか。また、保護によって救われるのか。)

A「生存権保障」の「具体的内実・ありかた」についての問いかけ

(どのような政策を進めていくことが本当の意味で「生存権を保障」することなのか)

 

 上記の@は、登場する若者も含めて「ワーキングプア」が本当に望んでいることは何か、という問いかけにもつながるものである。それを追求していくと、おのずからAの問題に導かれるであろう。

 

 私が感じている一つの結論は、「障害者」もワーキングプアも望んでいることは「慈恵としての保護」ではないのだ、ということである。「前半」で例示した中村裕氏(「障害者スポーツ」の普及や「太陽の家」の創立・発展に尽力した)のケースであるが、「太陽の家」が当初からモットーに掲げたのは「保護より働く機会を」ということであった。

 

たとえ日常生活のなかでさまざまな不自由を感じている「障害者」であっても、一方的な「保護の対象」という位置づけの下に対応や政策が具体化されるのであれば、「生存権」(豊かに生きる権利)を保障したことにはならないのではないか。「働く機会の保障」も含めて「自立」を支援することで初めて「豊かに生きる権利」を保障したことになるのではないか、ということである。(ここでいう「自立の支援」は「障害者自立支援法」とは全く別の方向を目指す)

路上生活をしている若者も含め、「生産年齢人口」に属する人たちに関しては、全く同様のことが言えるのではないだろうか。

 

 従って、言葉を変えながら繰り返すと、上記@は、あの若者は現状をどのような思いで受け入れているのか。あえて人とのつながりを絶ち、(人間らしい生活を)あきらめるよう自分に言い聞かせている若者の意識のなかには「本当は人とつながりながら“誇り”のもてる生活をしたい」という叫びがありはしないか、という問いかけである。(注)ただ、それでは授業をする側の解釈を初めから提示することになってしまうので、「彼は現状をどう考えているのだろうか」という問いかけから意見交換を始めるのがいいであろう。

 

 そしてAは、「生存権を保障する具体的な方策」として生活保護があり、状況に応じてそれは必要である(と考えられる)が、それだけでいいのか。他の方法はないか。「生活保護を受けることは恥だ」と思う人は、万一生活できない状況におかれた時、社会に対して何を望むか、といった問いかけである。

 

(4)具体的な感覚・経験から出発すること

 

 私が首藤実践のなかで評価できると思う点の一つに、生徒たちの「具体的な感覚(○○についてこのように感じるという具体的な経験)」を大切にしているところがある。ワークショップ「しあわせさがし」も生徒自身の素朴で具体的な感覚・願いを掘り起こす取り組みで、『ワーキングプア』の視聴によって生徒たちは「“能天気な願い”を最初から押しつぶしかねない現実」を突きつけられることになる。これは、「現実」を「当事者」として受け止めていけるように、という首藤の工夫であろう。(そもそも歴史的な闘いは個々人の「願いを押しつぶす現実」を変革しようとする闘いだったのである。「殺されたり踏みつけにされたくない」「豊かな生活がしたい」「誇りを持って生きていきたい」といった各人の「具体的な感覚・願い・経験」があるからこそ「人権思想」というものが歴史的に確立され、現代社会における最も“普遍的な思想”として多くの人々に共有されているのだ。)

 

 ただ、首藤は「生活保護を受けることは恥だ」という意見・感覚が貴重であることを認めつつも、「集団的な意見交換による問い直し」については、今後の課題としている。私たちは、授業を含む実践を通して「具体的感覚・経験」を大切にしつつも、それを問い直し異化していく「機会」を作っていくことが大切であろう。そのためには、(この場合)首藤のように「問題提起する他者」としてK弁護士を登場させることも有効であったと思われるが、前段落で私が述べたような「問いかけ」を投げかけつつ意見交換を促すことにも意味があるのではないかと思われる。

 

(5)『ワーキングプアV』が投げかけたもの

 

 ところで、首藤実践の時点では手に入れようもないが、先日(1216日)放映されたNHKスペシャル『ワーキングプアV』は見事なドキュメントであった。上に提示したような問いかけに対する「応答」の意味を充分持っていたように思う。内容を箇条書きで紹介しておこう。

 

 NHKの担当者は、問題解決の道を探るために海外へと取材を広げいくつかの事例を紹介する。

〈実態〉

@非正規雇用労働者の権利を保障する「非正規保護法」の施行に先立って百貨店から大量解雇された韓国の労働者

A企業の海外進出を背景に解雇された米国のIT技術者(彼は幸せになるために「技術」を身につけようと借金して大学に入学し、卒業後、大手のIT企業に勤めていたが解雇された)

 

〈対応〉

@アメリカのある州の取り組み…海外に流出しにくい分野である「バイオテクノロジー関係の企業」を誘致し、職を得られない若者が州立の専門学校で「バイオ技術」を身につけて「地元のバイオ関係の企業」に就職できるよう支援する。

Aイギリスの取り組み…「担当者」が市内・国内をパトロールし、職についていない若者を集め、必要な就学援助や様々な技術を身につけるための支援を行う。(「貧困家庭」に育った若者に対して実質的で大きな支援となっている)

B釧路市の取り組み…「生活保護」の受給者に対して「自立支援員」が個別に関わり、段階的な自立をていねいに促していく。

 

 番組に登場する釧路市在住の女性は一人で子どもを育てながら生活保護を受ける。最初はアルバイターとして働き、次の段階では福祉施設の非常勤職員に採用され10万円あまりの月給を受け取っているが、不足する3万円は生活保護の受給を受けている。

 

 ていねいな支援体制と柔軟な生活保護給付金の運用が印象に残ったが、ドキュメントのなかで釧路市の自立支援員自身が「ワーキングプア」である(月給10万円で、夜も私塾の講師として働いて生計を立てている)実態が映し出される。〔充分な財政的裏づけがない中で自治体が独自に自立支援していくことの限界か…〕

 

 以上、具体的な対策の事例を通して浮かび上がってくるのは、一方的な「保護」ではなく「自立の支援」であり、現状の日本において欠けているものは何か、という点である。

 

 そして、最後にNHKは「ゴミ箱から拾った雑誌を売って生き延びていたホームレスの若者」を登場させる。彼は路上生活を続けていたが、現在は「臨時採用の作業員」として路上の清掃や街路樹・植栽の草取り・整備などを仕事としていた。「顔も覚えてもらって声をかけてくれたり差し入れをしてくれる人がいる」「今のほうがいい」という若者は、仕事のない日にも一種のボランティア活動(ホームレスへの炊き出しの手伝い)をしている。

   

 しかし「今のままでは全面的に誇りを持って出せる姿じゃない。ちゃんと社会復帰して(人の役に立つ仕事をして)初めて『生まれてきてよかった』と言えるんじゃないですか」と語りながら彼は声を詰まらせて泣く。そのあと「“人間としての普通の感情”が戻ってきたんじゃないですか」「以前だったら絶対泣かなかった」「今は人を信じられるから…自分のような人間の手助けをしていきたい」と言うのである。

 

 レポーターは語る。「働くということは社会とつながり人間としての尊厳を回復していくことだということを岩井さん(その青年の仮名)から教えられた思いです。ワーキングプアの問題は働くことの意味や価値をないがしろにした社会がまさに生み出した問題なのです、」と。

 

この問題を放置し、多くの人が“誇り”を持てない生活を強いられることは「人間的な感情や尊厳を押しつぶしてしまうものである」というのが番組のメッセージであろう。しかし、人間とはそのように押しつぶされそうな状況の中でもなお、自らの尊厳を求める動物なのだ。『NHKスペシャル』の最後に浮かび上がってきたのは、「厳しい現状にあきらめ、人間的な感情さえ抑圧していた自分」から何とか抜け出そうとする若者、「社会の中で一定の役割を果たしつつ“人とのつながりと誇り”を取り戻そうとする」若者の姿であった。

 

 「ドキュメント」ばかりに頼るべきではないのは言うまでもないことであるが、仮に生徒同士の意見交換の後で『ワーキングプアV』を見れば、「路上生活をしている若者を突き放してとらえようとしていた生徒」も若者の思いに共感しうるのではないかと思われる。

 

つまり、同級生との「討論」や『ワーキングプアV』の視聴を通してそれまで「路上生活の若者を“情けない”と突き放していた自分」を問い直していく可能性があるのである。「(あのような境遇になることへの不安を感じつつ)自分はあの若者とは違うぞ!」という否定的な意味での「当事者」だった自分から、若者の葛藤にも共感する「当事者」、「現在の問題が自分自身の問題であると同時に社会の問題でもあること」を受け止めていく「当事者」へと自ら一歩踏み出していく可能性である。

 

 そのように、積極的な意味における「当事者」として“深刻な問題・現状”をとらえることができれば、目標とする「憲法制定」「憲法解釈」「憲法改正」の判断・行為主体へと「学習・成長」していく出発点にもなりうるであろう。

 

(注)人間を「表面的に現れている否定的な自分」と「変わりたい、成長したいというもう一つの自分」とのせめぎあいとして(両義的なものとして)とらえる視点は、すでに1984年の高生研第22回大会基調(鞠川基調)において明確に理論化されている。

 

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