日本的精神風土(問題と展望)の続きです。 

 「閉鎖的な共同体」ではなく「対等平等な市民的共同体」を打ち立てるためにも「討論文化(討論民主主義)を確立していく」という竹内芳郎の問題提起を受けて、この間、スウェーデンで実践されている「討議民主主義」について述べてきましたが、それに続いて『どんとこい貧困!』における湯浅誠の問題提起を紹介します。


 社会の大きな問題となっている<貧困>。メディアで再三取り上げられていても、なかなかつかみきれない実像、なぜ? どうしたらいい? 未来は? について真摯にわかりやすく、丁寧に語りかけます。(・・・中略・・・)
 「がんばり地獄」や「ずるさ狩り」「貧困スパイラル」からみんなでぬけだそう! と私たちに勇気と希望あたえてくれます。
 だれもが暮らしやすく、
幸せに生きられる社会を作る力も権利も私たちみんなのなかにある。そんな当たり前のこともあらためて心に響き、実感できます。(・・・後略・・・)

                                           
理論者のHPより

 まず、この本の前半は貧困をめぐる「自己責任」論をどう考えるか、というテーマに費やされます。疑問の声は実に詳細であり(例えば「努力しないのが悪いんじゃない?」「甘やかすのは本人のためにはならないんじゃないの?」「死ぬ気になればなんでもできるんじゃないの?」「自分だけラクしてずるいんじゃないの?」等々)

 それに対する湯浅誠の回答は徹底的で、この本全体は
「自己責任」論についてとことんつきつめていくことによって「社会的連帯」について考えていくものになっています

 さて、冒頭のテーマ
(「対等平等な市民的共同体」を打ち立てるためにも「討論文化(討論民主主義)を確立していく」)に直接関連するのは「第2章 僕らの社会をあきらめない」ですが、そこで湯浅は次のように呼びかけます。

 黙るのも黙らせるのも、もうやめにしようじゃないか。君の溜めが増えるように、みんなの溜めを増やすために。 

(“溜め”についてはリンク先を参照)

 変わるべきは僕らの社会だ、と君が思うならば・・・ どこまでが許せて、どこからが許せないのか。それを決めるのはどっかの誰かじゃない。私たちだ。はじかれ、排除されていく人間をつくり出していく社会こそが、もっとも貧しい。

 それでは、湯浅誠氏の目指す社会とはどんな社会でしょうか。(過去記事を抜粋して確認すると・・・)
 それは「活動家と市民が世の中にいっぱいいる社会」であり、それぞれが生きていく中で感じる
「違和感をつないで、目に見えるようにしていける社会」です。

 ここでいう
「活動家」とは(・・・)「市民的責任」を果たしていく「市民の中の市民」だとのこと。
 それでは、市民的責任とはなんでしょうか。それは、「ものをいう責任」「違和感を言葉にする責任」です。社会が自分も含めた個人にとって大きな不都合を放置していた場合「このようなことは困る」という責任、会社がめちゃくちゃやっていたら「おかしい」という責任です。
(・・・)
 ここで湯浅氏は次のように述べます。
 「活動家」のマイナスイメージ(独善的でマッチョ、他人はバカだと思っているといったイメージ)を変えていくことが大切。
活動家とは言い換えれば「場を作る人、つながりあうための空間をつくる人」であり、存在すること自体が自然なことなのだ


 「社会を変えていくために一歩踏み出せるんだ」という学び・体験をよりたくさんの人が得ることによって(自死ではなく)活動家にもユニオンにもアクセス可能になっていく。そうすれば、(・・・) 「〈すべり台社会〉とは別の〈活力ある社会〉」がしだいに実現していく、と考えるわけです。

                                                  2009年度 高生研全国大会における講演より

 ここには竹内芳郎の言う「市民的共同体」に対応するような社会のイメージが、湯浅誠流に描かれていますね。このような社会のイメージと「討論民主主義」とは切り離せないものでしょう。それは、いかにして具体化・実現していくのでしょうか。

  『どんとこい、貧困』で言えば「第2章 僕らの社会をあきらめない」冒頭の呼びかけ「黙るのも黙らせるのも、もうやめにしようじゃないか」が大きな意味を持ってくるのです。

 

 さて、『どんとこい、貧困!』の最終ページは谷川俊太郎からの質問に湯浅誠が答える形になっていますが、「何がいちばんいやですか?」という質問に対して、湯浅は「他人を批判していい気になっている人。他の連中はバカで、自分は頭がいいと勘違いしている人」と答えています。(294頁)

 一人ひとりが人生を背負っていて、それぞれかけがえのないものであるにもかかわらず、
「他人の人生をなめた言動」に憤りを感じているわけです。『どんとこい、貧困!』の前半部分で「自己責任論」に対して徹底的に応答し批判している背景には、「貧困に陥るようなやつらはしょせん…」と「上から目線でバカにする」言動に対する湯浅の怒りがあります

 しかしながら、「自己責任論」をとことん批判しながらも、次のように言っている湯浅の言葉から得られる示唆は大きいと考えるのです。  
 
 「
『どんなに忙しくて、切迫していても背中のあたりがゆったりしているのがいい』といわれて、深く納得したことがあった。」(264頁)
 「活動しているとひどい事例にたくさん出会う。
ひどいと感じて、役所や社会に対して怒りがわいてくることがある。その怒りにまかせて、活動し、発言すると、どうしても言動に人格がどーんと乗っかってしまう。」

 「でも、同じ状況下でも、どこかでそれが自分の全部じゃないという留保がかかっている人がいる。『私もいいかげんですけどね。へへ』っていうところが残ってる。それを比喩でいうと『背中のあたりがゆったりしている』ということになるんだろうと思う。」

 「それは真剣じゃない、ということとは違う。真剣だし、大まじめだ。でも『こうだろう』と意見を言いながら、でもどこかで
『そうじゃない意見もあるでしょうね』ともう一歩引いた視点をもっている。我を忘れてはいない。反対意見を受け入れる余地(溜め)がある。」

 
このような余地(溜め)こそが、討論民主主義を成り立たせる上で極めて重要であると湯浅は考えて、次のように述べます。  

 「その“溜め”が『あなたはそう言うけれど、こういう面もあるんじゃないですか』という別の意見を引き出していく。議論が成り立つ。黙らせない。そして、その人の別の意見を引き出すことが説得のチャンス、問題を共有できるチャンスとなる。」(265頁)
(・・・)

 「自分の方が詳しいテーマで、人を黙らせることはある意味簡単だ。(・・・)黙らせること。それが自己責任論の目的だった。私たちの目的は逆だ。しゃべってもらうこと。ものを言える社会にしていくこと。

 
本当の活動家と言うのは、だから、我を忘れてその目的を見失わない人のことを言うんだろうと思う。そして、そういう人たちがたくさんいれば、関心が広がる。(・・・)『関心は尊重につながる』。」(266〜267頁)

 そして、湯浅は市民社会のルールについて次のようにまとめ、問題提起をします。

1、自分の意見に自分の人格を埋没させない。真剣に意見を主張しながら、でもどこかで「反論をどうぞ」という余地(“溜め”)を残しておく。

2、意見を交わす相手の“溜め”を増やす。一方的に説き伏せても、相手の“溜め”は増えない。“溜め”が増えれば関心が広がる。それが、自分が大切にしているテーマに対する討論につながる。

 
そのルールを守るのが「市民」で、活動家やプチ活動家たちは、市民の中の市民だ。そうして初めて試合が成立する。そのフィールドが「市民社会」―― 私は、そんな世の中を夢想する。それはきっと、いまよりずっと生きやすく暮らしやすい社会なんじゃないか、と。(・・・)

 以上、湯浅が述べたことは、「活動家」としてさまざまなことを経験しつつ、
民主的な仕方で社会をよりよくしていく上で「大切だ」と考えた要点なのでしょうが、私たちはそこから多くを学べるではないかと考えるのです。

 以下は、『どんとこい、貧困!』の結論です。

 "頑張り地獄"から"ずるさ狩り"へ。そんな生きづらく暮らしにくいルールは、もう変えちゃった方がいい、と私は思うんだけど、あなたはどう思うだろうか? そして、あなたのまわりにいる家族や友人は、どう思っているだろうか? まずは話してみて、そして相手の意見も聞いてみないか? (・・・) 反論してもらって、考えを深めてみないか? 

 私たちの社会は、そこからはじめて立ちあがる。

 

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