高生研2007年「基調発題」へのコメント

 

 この文章の目的は、上記基調へのコメント(ポイント)を整理して示すことであるが、それに先立って参考資料として数年前の「望月基調」を引用・要約しておく。私自身は両者の比較検討をしているわけではないが、それぞれ、実践のイメージを豊かに膨らませるために必要なことを考えていく「素材」としていただければ、と思う。

 

〔参考資料 望月基調〕

 

(引用および要約)

・実践課題を明らかにするために、2つの資質を挙げる。

「公民的徳性」としての市民性(市民権行使の主体としての自己形成:引用者)

公共の事柄の討議・決定・実行過程に参加する負担・責任を自発的に引き受ける資質・能力。

「市民的品性」としての市民性(人権〔尊重〕の主体としての自己形成:引用者)

他者との共生の作法(公正さと寛容)を、公権力を統制する民主的過程においてだけではなく、家庭・親密などにおいて実現・発展させうる資質・能力

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 生徒会の指導や(・・・)自治の集団をつくるフォーマルな力を育て、(・・・)他方、高校生の深刻な問題状況の広がりが個人指導を必然のものとし(・・・)

 

(コメント)

過去の理論・実践の単純な否定ではなく、それぞれの時代の中で現実と格闘してきた高生研運動の歩みを(簡単ではあるが、)それなりに位置づけている。もちろん、運動や実践を批判的に振り返り検討することには大きな意義はあるが、それはそれとして大きな仕事になる。1984年の「鞠川基調」などはその優れた実例だと思われる。

「鞠川基調」は、過去における実践や理論の不充分な面を批判的に振り返りつつも、その時代の中で模索しつつ生み出された「有意味な実践」として位置づけており、岡村が「集団作りは“統一性”を追及する(従って抑圧的である)」といった具合に対象化(単純化)して批判する態度とは対照的である。

 

(引用・要約の続き)

 ケアという教育的な関係について、竹内常一「(子どもたちは)他者に配慮され、応答されているとき、ということは、ケアリングされているとき、自分が他者と世界に受け入れられることを体感し、それをとおして世界と他者に対する『信』を育てていく。」

 

(3)対等な関係で「何がよいことなのか」を問いあう

・・・フォーラムという場(枠組み)において、ミクロポリティクス=(権力関係が支配する場:引用者)は、生徒、地域市民、教員が対等な立場で声を出せる場に展開した。そのような場で「何がよりよいことなのか」を問いあう対話がなされ、参加者がエンパワーされたのである。

 

(4)学校をつくるもう一つの公共圏

 もう一つの公共圏=高生研は高校の教育という共通の問題を検討するために自前の言説空間を創出してきた。

 生徒たちを主権者、地域市民、地球市民として、公共圏を編みなおす実践を進め、生活と学習の基盤を持つ学校文化を創っていく。私たちの実践は、小さなことに「人間的尊厳と社会的正義を発展させていく」実践で志高く、次の世代と次の社会につなげて生きていく実践である。

 

〔岡村基調〕

 

(岡村基調に対する見解のポイント)

 論理化、抽象化の過程で実践のイメージがむしろ貧困化されていないか。抽象化・図式化の良さよりもむしろ欠点を感じさせる。岡村基調に色濃くにじんでいる「ポストモダン的」な視点。ここから出発して、果たして豊かで具体的な実践イメージが生み出せるだろうか、という疑問がある。

 

第1章 討議空間作りとは何か(理論編)

(基調の引用および要約)

 1、討議空間作りの目指すもの 複数性の政治

 複数の視点には、それぞれの正当性と誤りがある。この事実を単純に「複数性」と呼んでおこう。教育と政治の問題を意識して考えるときに、このような複数性を重視するか、逆に統一性を重視するかによって、実践イメージが異なったものとなるはずである。

 

 「班・核・討議作り」当時の「集団作り」では統一性を弁証法的に追求する契機として複数性の対立・抗争(つまり討議)が位置づけられる。しかし、この立場では、集団の統一性へのバイアス(圧力)があるため、現実には複数性・異質性を抑制してしまう圧力が働くだろう。・・・複数性・異質性相互のあいだの権力関係をどうするのか。

 

(コメント)

 上記の対立図式にも大いに疑問がある。

 基本的に討議の目的についての検討が不十分ではないか?

 複数性・異質性を尊重というが、例えば各自の趣味について討議するだろうか? 仮に個人間でそれについてのやり取りがあったとしてもそれは「普通のおしゃべり」である。そこにあるのは「複数性の並列」でしかない。

 なぜ討議が必要か?

人間が社会生活を送るに際しては「ルールや法」が必要であり、それを全てのメンバーにとって意味あるもの(少数者も排除されず全員にとってプラスになるもの)にしていくためにこそ討議と合意が必要なのだ。そこでは当然「討議⇒妥当性(これが妥当だという合意)」を目指すのでなければ意味がない。岡村は統一性(したがってバイアスがかかる)という言葉を使っているが、討議によって目指すべきなのは妥当性というべきではないか。

 例えば、実践編で例示されている青木実践の場合も「どう考えるのが妥当か」という合意が成立していることがすぐにわかる。

 

※「定時制との教室共用に対するもめごとが最高潮に達してしまった。この件ではほとんどの生徒が定時制を非難していたが手詰まり状態だった。そんなある日、Oが「(相手の非を言うより)自分たちから教室をきれいにしたらどうか。全日制で知らず知らずに定時制より上という意識を持っている。」・・・「Oの言うように一度やってみよう。クラスの決としていいか」と青木が確認して実行。

 ここでは、問題に対する考え方・対応についての合意が成立している。だからといって、統一性への圧力がかかったとは言えない。

 

(基調の引用)

 討議空間つくり実践は、多様化・複数化するポストモダン社会の中で、複数性・異質性に開かれた学校・社会をめざし、それに付随する問題・課題に取り組む政治教育であり、その核に「討議空間」を置く実践構想なのである。

 

(コメント)

 正直な話、「抽象的な討議空間ではないか?」という疑問を持った。具体的な討議空間が成立する条件は何か? を問題にする必要がある。

 討議をし、妥当な合意を目指していくために必要なのは主体の自己形成である。それは、自らの利害だけでなく全てのメンバーにとって「何がよりよいか」を問いながら討議し「公論」していく姿勢と力を身につけていくこと。これは、冒頭で引用した望月基調には明記されている。

「公民的徳性」としての市民性(市民権行使の主体としての自己形成:引用者)

公共の事柄の討議・決定・実行過程に参加する負担・責任を自発的に引き受ける資質・能力。

「市民的品性」としての市民性(人権〔尊重〕の主体としての自己形成:引用者)

他者との共生の作法(公正さと寛容)を、公権力を統制する民主的過程においてだけではなく、家庭・親密などにおいて実現・発展させうる資質・能力

ところが岡村基調ではこの問題が明確になっていないように思われる。

上記の「資質」を身につけるために必要なのは集団である。人間は社会(集団)によって創られるわけで、当然その社会(集団)の質・ありかたを問うことが必要になる。

サルトルは『弁証法的理性批判』序説=『方法の問題』のなかで「人間を規定する社会的・経済的構造」というマルクス主義の図式に「社会学」や「精神分析学」の成果を包摂し、さまざまな媒体(家庭・地域・学校などの集団)について研究すべきことを主張している。

 とはいえ人間が集団の影響を受けるという場合、色水につけられた紙がその色に染まっていくのとは本質的に異なる。それぞれの集団における「具体的経験」を通して主体は集団の性格を内面化し、かつそれぞれの仕方で「生きる」のである。

 

例えば人権思想・民主主義思想が受け入れられた背景には、闘争だけでなく「具体的経験」があるはず。

そもそも歴史的な闘いは個々人の「願いを押しつぶす現実」を変革しようとする闘いだったのである。「殺されたり踏みつけにされたくない」「豊かな生活がしたい」「誇りを持って生きていきたい」といった各人の「具体的な感覚・願い・経験」があるからこそ「人権思想」というものが歴史的に確立され、現代社会における最も“普遍的な思想”として多くの人々に共有されているのだ。

 

(竹田青嗣)

 政治がよくなっているかどうかの基準・尺度をどこに求めるか。

「これはひどい、問題だ」という場合、「どういう根拠から批判しているのか」という批判基準をきちんと吟味・自覚することがなければ、多様な意見がさまざまあるだけ、ということになる。

     

(基調の引用)

 2、討議空間は〈政治的なるもの〉に取り組む

 「政治的なるもの」とは「敵対関係」「権力関係」である

 学校社会にある権力関係・敵対関係・思想対立などをリアルに受け止めたうえで、そうした関係を問題化し、多様な視点・観点から検討することで、より開かれた権力関係へと変容させていくという立場をとる。

 

(コメント)

確かに「政治的なるもの」において「権力関係」は不可避だともいえる。

 しかし、そこには「好ましい形」と「好ましくない形」がある、ということが明確にされていない。

私は200年以上前にルソーが主張した核心部分「政治権力や法の正当性の根拠は広範な人民の“合意”と“一般意志”(=“すべてのメンバーの共通利益とは何か”を考えつつ“公論”によって形成された人々の総意)である」という原理は今なお有効であると考えている。そして、「すべてのメンバーの共通利益」を判断する基準として重要なものが広義の人権(自由権、社会権、そして政治的意思決定に参加する市民権)である。この原理そのものは近代から現代への歴史の中で「普遍的な原理」として確立されてきたものだと考えている。(⇒「佐藤実践」に対するコメント

 

 岡村はライバル的視点を取り込んで「開かれた討議」をすることの重要性を強調するが、なぜそのことが重要だといえるのか。「判断の原理」を明確にしないため、その主張の根拠が「岡村自身の感覚」にすぎないのか、それとも別の根拠があるのか、読むものにとっては全く明らかでない。

 例えば『高校生活指導』に掲載された「高校生が駅前に広場をつくる」実践の場合、「通学に不便をこうむっていた高校生が自分たちの利益を要求として提起する」ことから始まって、「(高校生の利益にかなう)“袴線橋”の設置によって不利益を受ける少数者についてどう考えるか」を論議しつつ、「車椅子」の個人や「一輪車」で線路を渡っていた人たちの視点を取り込みつつ「エレベーターで“袴線橋”に上り下りできるようにしよう」という発想にたどり着く。(実践者に直接聞いた話)ここでは、明らかに「公共性」に関する「公論」が成立しており、最初は自分たちの利害しか発想の中になかった高校生が視点を普遍化していく(少数者を排除しない本当の「共通利益」を実現する方法をともに探っていく)という過程が見られる。

 

 この実践報告とも深く関わるが、歴史上最も普遍的に受け入れられている思想は「人権思想」と「民主主義思想」であると思われる。竹内常一は1990年代の基調で「人権の拡大の歴史」(18世紀の時点では実質的に「成人(白人)の男性」にしか保障されていなかった「人権」が、多くの人々や国連などの活動を背景に、有色人種、先住民、女性、児童、障碍者へと拡大し、「実質的に保障されるべきものだ」という合意が形成されてきたこと)を示している。

 「ポストモダン思想」の相対主義に埋もれてしまわないためには、そのような歴史を踏まえた「原理」を確認する必要があるのではないか。

 

 岡村基調においては複数性の強調はあるが、「公共性」についての検討、討議がいかにして妥当なものに近づいていくかという「普遍的」な原理についての検討が決定的に不足している。例えば、出された意見の妥当性を判断する基準はどこにあるのか。私は上記の※印を越える原理は近代以降提示されていないのではないか、と考える。

 

(引用および要約)

 3、討議空間の性格

  「開かれた討議(闘争)」と「閉じた討議(闘争)」

(コメント)

 「後者より前者が優れている、」と判断できる根拠も上記と同様であろう。(※印

 

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