首藤実践および竹内常一の分析に対するコメント(前半)

 

 首藤実践に対して竹内常一氏(以下竹内)は次のように分析する。

 首藤広道は「国民投票は、われわれ国民にとって『憲法』を選び直し、真に自分たちのものにするよい機会かもしれない」という問題意識に立って、NHK番組『ワーキングプア』を切り口にして「現代の貧困の問題と憲法との関係」を問う授業に取り組んでいる。

 

(…)首藤は「憲法学習に必要なものは生徒にとっての『リアルな学び』」だという考えから、番組の視聴を通じて生存権問題をできるだけリアルなものとして生徒に提示しようとしている。だが、その視聴のなかで生徒たちを生存権問題の当事者にする工夫がどのようになされているのか明らかでない。この工夫が見られないために、生徒たちの問題意識がリアルなものとならず、生存権の当事者主体になることができないでいるのではないか。

 

(…)またそのために、授業は生存権が条項どおり無条件に保障されなければならないと教えるものとなっている。そうなると、生徒たちは生存権が現実には守られるものではないと思い込むか、それとも生活保護を受けることを「慈恵」としてとらえるかのいずれかになりはしないか。

(…)

 そうだとしたら、たとえ憲法知識を教えるとしても、それをできあがったものとして教えるのではなく、憲法の言う「不断の努力」に参加するものとして憲法条項が教えられなければならないということになる。つまり、その「教えと学び」が「憲法制定行為」(または憲法改正行為)として行われなければならないことになる。

 

 以上は引用だが、確かに首藤の実践分析を通して、教職員が「憲法」や「基本的人権」をテーマに授業をする時の「課題は何か」を鋭くつかみ出していると感じる。

 ただ、「NHKスペシャル ワーキングプア」を視聴した生徒の感想をどう見るか、それに基づいてどう実践するか、についてはさらにていねいな検討が必要だと考える。以下、私なりにその検討を試みたい。

 

1、生徒たちは「当事者」として問題をとらえることができなかったのか?

 実践記録には、『ワーキングプア』を視聴した生徒の感想が紹介されている。大きくは次の二つが象徴的であろう。

 

(ア)「住む家も仕事もお金もない人がたくさんいる……生存権がある限りすべての国民が生活できるようにすべきである」

(イ)「(…)若者の貧しい人はもっと希望を持って活力ある生き方をすべきだと思う。(…)他力本願ではなく家庭を言い訳にするべきではない。……報われないのは努力が足りない証拠だと思う」

 

 おそらく、このあたりの感想も根拠に竹内は「生存権の当事者主体になることができないでいるのではないか」と分析しているようだ。しかし、「ワーキングプア」の問題に関しては「NHKスペシャル」で映示された現実を生徒たちが「まさに自分自身の問題」として受け止めた可能性はある、と私は考える。ただ、そのことを論ずるためには、「当事者として受け止める」ということの意味をもう少し検討する必要があるだろう。

 

 さて、そもそも授業実践の中で生徒が「生存権の当事者主体になる」と言っても、実は二つの段階があるのではないだろうか。首藤実践の場合それは、@「ワーキングプア」の問題を「自分自身も含めて人々の生存権をおびやかす“深刻な現実”」として受け止めること、A「生存権の保障」を「実現」していくために憲法を解釈・創造していく「当事者」としてこの問題を受け止めていくこと(一歩踏み出していくこと)、である。

 

 まず、Aは憲法の(「生存権」に関する)学習のいわば最終目標であり、確かにそれがどこまで達成されたかは、憲法を題材とする授業実践で問われなければならない点であろう。ただ、番組を視聴した時点でそのような意味での「当事者」として受け止めていくことを生徒に期待するのは、なかなか無理な相談である。それでは、この学習において最終的にどこまで「目標」が達成されたのか。また、充分に達成するための展望はどうすれば開けるのか。この点については後述したい。

 

 @についてはどうであろうか。生徒の感想文(イ)「…他力本願ではなく……報われないのは努力が足りない証拠だと思う」は一見すると「路上生活をしている若者」に対して距離を置き、突き放してとらえているように読める。つまり自らを「厳しい現実を共有する当事者」として位置づけるのではなく、現状・問題を他人事としてとらえているように見えるのである。しかし、本当にそうであろうか? 

 

『ワーキングプア』の視聴を通して「もしかしたら自分もあのような境遇になるかもしれない、」という漠然とした不安を抱いたからこそ「あのような生き方では誇りがもてない(情けない!)自分はあの若者とは違うぞ!」という具合に「登場する若者」と「自分自身」を区別しようとしたのではないか、とも考えられるのである。(ここで「落ちこぼれるという強い不安を持った中学生」がホームレスを襲撃した衝撃的な事件を想起されたい。)

 

 実際に私が見た『ワーキングプア』はTとUをあわせて編集したもの(20071210日放映)であったが、自分とはあまり関係のない「向こう側にある現実」とか「個人の問題」として突き放して見ることを許さないような迫力があった。(番組放映後、「とても他人事とは思えなかった」といった三千通以上の意見がNHKに寄せられるなど大きな反響があり、「ワーキングプアの問題は社会全体の問題なのだ」という認識を多くの人たちが共有するきっかけになった、とも言われる。) 

 

 だとすれば、(イ)の意見について『ワーキングプア』の問題をリアルに受けとめたからこそ「登場する若者」と自分とを区別しようとした、といった上記の解釈も成り立つのではないだろうか。私は生徒自身が「ワーキングプア」の問題を「自分自身も含めて人々の生存権をおびやかす“深刻な現実”」として受け止めていくための題材として、『NHKスペシャル』は適切な選択だったのではないかと思う。視聴の時点で下手な「工夫」を入れるよりも、事実や現実そのものを切り取って提示することで訴える「ドキュメント」そのものの力は大きいのではないだろうか。

 

 この「ドキュメント」の視聴によって「もしかしたら自分もあのような境遇になるかもしれない」という不安を抱くこと、しかし「あのような生き方では誇りがもてない(情けない!)」と感じること、いずれも真実ではないかと思われる。一見否定的ではあるが「当事者」として受け止めているようにも考えられるのだ。問題はこのような「素朴な」受け止め方が、いかにしてA「生存権の保障」を「実現」していくために憲法を解釈・創造していく「当事者」としての受け止めへと発展しうるかという点にある。

 

2、憲法を「解釈」「創造」する主体へ

(1)竹内の問題提起と首藤実践

 竹内は「条項をすでにできあがったものとして教えるのではなく、(…)憲法の言う『不断の努力』に参加するものとして憲法条項が教えられなければならない」と課題を明らかにした後、「たとえば憲法を歴史的な発展過程にあるものとして教えるのも一つの工夫だろう」として「生存権・労働権条項がフランス人権宣言からワイマール憲法への発展の中でつくりだされたものであること、その過程においてピープルの『ちから』がこの条項を国家権力につきつけ、承認を要求したこと」や「朝日訴訟・堀木訴訟や、今なお係争中の生活保護裁判に見られるように、生存権条項の解釈が裁判で争われていること」を取り上げることなどを例示している。

 

 確かに上記のような「教え」、生存権・人権を闘いとってきた歴史や現在も続いている取り組み・裁判について「教える」ことは「生成過程にあるものとして憲法を語る」という意味で大切であろう。事実、現在出版されている現代社会の教科書の多くはそのような観点で構成されているようだ。(例えば第一学習社の場合、ロック・ルソーなどが提唱した「社会契約」「民主主義の思想」⇒それが革命にも影響を与えたこと⇒基本的人権と法の支配⇒日本における憲法の制定過程⇒「基本的人権の保障」という原理とその現状・戦後に行われた裁判など、という順で構成されている)そのような教科書の構成も踏まえつつ生きた「歴史学習(現代も含めて)」を進めていくことの重要性は強調しておくべきではある。

 

 しかしながら、それで充分かといえばそうとはいえない。竹内が言うように生徒たちを「憲法制定」「憲法解釈」「憲法改正」の判断・行為主体としていくためには、「自分たちが憲法を解釈し息を吹き込みながら社会を作る」という可能性がリアルなものとして実感できなければならない。そのためには「歴史学習」以上に首藤が行ったような工夫(具体的には「生存権」に関わる現在の問題と向き合いつつ実践しているK弁護士による講義)こそが有効ではないか、と思われるのである。

 

首藤が紹介している生徒の感想を一部引用しておこう。「生活保護を受けている人はどうしようもない人……みたいな感じに思っていました。でも、がんばって働いてそれでも足りないところを補ってもらうことは全然悪くないんだと思えました」「……国は憲法が保障する健康で文化的な最低限度の生活についてもっと目を向けるべきである。国は…なるべくたくさんの人に仕事を与えるような社会にしていく必要がある。国民の生活部面においても社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上・増進に努めなければならない。そうすればこの『格差社会』はなくなっていくだろう」

 

 上記の感想からも読み取れるように、生徒は『生存権』を上から与えられる『慈恵』としてとらえたわけではなく、現在の問題と憲法の条文を具体的に結びつけて考えようとしている。「援助を求めることは恥ずかしいことではない」(「障がい者」も含めて「自立する力」とは「困った時に適切な援助を求める力」だとも言われる)、「国の責務は仕事を保障するような社会にしていくことだ」といった認識が生徒の中に生まれていることは評価するべきではないだろうか。「生存権」を根拠に現実の深刻な問題と向き合い実践しているK弁護士は、「人類の英知」という言葉によって「人権」が歴史的な産物であることを生徒に語っている。それが「生徒の価値観を揺さぶったようだ」という首藤の判断は妥当であると思われる。

 

(2)「憲法制定」「憲法解釈」「憲法改正」の判断・行為主体にしていく工夫

 もちろん、竹内が提示した「上記の課題」は重要な提起であることに疑いはない。(その点で首藤実践は一定評価できるにしても「充分目的を達成できた」とは言い切れない。)しかし「目的を達成する」ためには、まさに憲法を作り「息を吹き込む」社会的な取り組みが「意味と有効性」をもっていることがリアルに実感できなければならないのだ。「法」や「憲法」そして社会のあり方は自分たちで作り変えていけるものだ、というリアルな実感はいかにして獲得できるのだろうか?

 

 以前『高校生活指導』の掲載された「高校生が駅前に広場を作る」という実践報告では「社会は変えられる」と確信を持って発言する高校生が登場してくる。確かに自分たちの取り組みを通してそのような確信を獲得していくのが理想ではある。ただ、授業実践としては、「間接的に体験を学ぶこと」や「模擬的に体験すること」を通してそのような「確信」を生み出していくしかないであろう。

 

 「間接的に体験を学ぶ」ためには広義の(現代も含めた)歴史学習が重要だと思われる。ここでは竹内が示した以外の事例を自分の体験をもとに提示してみたい。

 まず、第1次世界大戦後の闘いのなかで、生徒の認識と心を揺さぶったものとしては「ガンジーとキング」(非暴力運動によって南アフリカの「暗黒法」の撤廃、イギリス帝国主義からの解放を達成したガンジー、&アメリカの公民権法成立に成功したキング)の取り組み(ドキュメント)があった。

 

 また、NHKで放映された『ラストメッセージ』(糸賀一雄らの生涯「本来一人ひとりが光り輝く存在であり、障碍を抱えた人たちも分けへだてなく共に生きることのできる社会こそが『豊かな社会』であること」を確信しつつ実践していったドキュメント)や『太陽の仲間たち』(講談社)で描かれている「障害者スポーツ」の普及や「障害者の働く場(太陽の家)」を創りながら街を変えていった中村裕氏らの取り組みが挙げられる。「障がい者」に関わる取り組みは、それに伴って「街全体が目に見えて変わって行く」という生徒の実感にもつながっていく事例であろう。(現代社会の教科書などには必ずこの問題につながるような写真が掲載されている…「福祉社会」「豊かな社会」に関連して)

 

 さらに、「特別支援教育」をめぐってこれまで行われてきた「解釈改憲」の動きを学ぶというのも有効な方法であると思われる。

 

 憲法第26条〔教育を受ける権利、教育の義務〕には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とある。この条文は、憲法成立の当初は「普通教育を受ける能力のないものについては保障されなくても仕方がない」という解釈が一般的であったようだ。ところが、「障がい児」への教育保障を求める運動が、「能力に応じて」という言葉を「能力の面で困難を抱える児童・生徒にはよりいっそう厚く支援し教育を保障する」という方向へ解釈するという「解釈改憲」によって現在の特別支援教育の体制が作られてきたのだという。この事情については『自治体から創る特別支援教育』渡辺昭男・新井英靖編著(クリエイツかもがわ)に詳しい。

 

後半

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