『想像力の問題』(JPサルトル)について

                 20083月(HPに公開)、1983月(卒業論文擱筆) 

 

  想像力について、サルトルは早い時期から関心を持っていたようである。サルトル自身の証言を引用しておこう。

 「像(イマージュ)は感覚の再生ではないという考え、これを自分自身の内部で感じていた。そこで、意識の自由ということにこれは結びつく。なぜなら、意識が想像する時、意識はそこにない何ものか、または存在しない何ものかを求めて現実のねばつきから解き放たれるからだ(注1)。」

 

 『想像力の問題』は、その副題が「想像力の現象学的心理学」となっていることからもわかるように方法として現象学(注2)を用いている。この現象学に学びつつ、サルトルは意識の本質について次のように言っている。「一切の意識は何ものかについての意識である。(・・・・)意識は意識にとって異質の対象をめざす(注3)。」「何ものかについての意識であるかぎりにおいて、それらはその何ものかに対して〈志向的関係を持つ〉(注4)」のである。「対象をあるがままに成立させるのはこの志向(対象を目指す意識の働き)である(注5)。」

 

 さて、彼は「想像」の特徴として、次のような4つの基本的性格を挙げている。

 第1に、想像(イマジナシオン)というのは一種の意識活動である。意識というからには「何ものかについての意識」として必ず「外的対象」を志向している。(このような意識の基本的性格をフッサールは「志向性」と名づけた。)

 

 例えば、ある椅子について知覚する場合と想像する場合があるわけだが、いずれにおいても「椅子についての意識」として「外的対象」(椅子)に対する志向的関係が成立している。ただ「意識はこの同じ椅子と二つの異なった仕方で関係するのである。(注7)」

 

 それでは、想像意識はどのような仕方で対象と関係するのであろうか。

 サルトルが続いて挙げる想像意識の特徴〔2、知覚意識の観察に対する「準観察」、3、想像意識は対象を無(今ここにないもの)として目指す、4、知覚意識の「受動性」に対する「自発性」〕などを明らかにすることが、同時にその答えとなるであろう。

 

 そのことを踏まえつつ、引き続き想像意識の特徴を見ていこう。

 第二の特徴として、想像というのは「準観察」の現象である、ということが挙げられる。

 知覚(観察)の場合と比較してみよう。知覚(観察)の場合、対象はある側面によってあらわれる。そして、その対象は方向・視点を変えて無限に観察し、学習することができる。しかし、対象についてすべてを知りつくすということは不可能であり、対象についての認識は、何らかの意味で不充分なものとなる。

 

 例えば正六面体を知覚する場合を考えてみよう。

「その六つの面を把握しないかぎりそれが正六面体であることを私は知りえない。ところで厳密に言えば同時に三つの面を見ることはできても、決してそれ以上を見ることはできない。(注8)」

 

 したがって、それが正六面体であることを確認するためにはその裏側を見る必要があり、さらに言えばそれらの面が本当に正方形なのか、本当に平面なのか等々の観察が必要である。このように、知覚においては方向や視点を変えて無限に対象を観察できるが、対象を完全に知りつくすことはできないのである。

 

 それでは想像(準観察)の場合はどうであろうか。確かに想像の場合にも対象はある特定の形を持った「像」としてあらわれ、この意味では観察に近い。しかし、それは知覚のように方向・視点を変えて学習する必要はない。例えば正六面体を想像するという場合、方向を変えてながめなくてもそれが正六面体であることは確実である。(六つの正方形によって構成される立体=正六面体を私は想像したのであるから)。

 

 以上のように「知覚の対象はたえず意識からあふれ出るものであるのに、像(イマージュ)の対象はそれについて人が抱く意識以上のものであることは決してない。(注9)」

 

 想像意識の第三の特徴についてサルトルは次のように言っている。

 「想像意識はその対象を空無(ネアン)として措定する(注10)」と。つまり、知覚意識が対象を現に存在するものとして措定(志向)するのに対して、想像意識は対象を非存在(存在しないもの)として、あるいは不在(ここにないもの)として措定(志向)する。

 言い換えるならば、知覚意識が目前に存在する事物に結びついて現実世界を志向するのに対して、想像意識は目前の現実から離れて非現実の存在を志向するわけである。

 

 想像意識の第四の特徴は「自発性」である。「知覚意識は受動性としてあらわれる。これに対して、想像意識は想像意識として、すなわち「像」(イマージュ)としての対象を生み出しかつ保っていく自発性として、己自身に対して与えられる(注11)。」

 

 つまり、知覚的意識というのは、言ってみれば、すでに存在する事物を受動的に反映するわけであるが、想像意識は非現実の対象を自発的に生み出し、支え保つのである。

 

 以上が想像意識の四つの特性である。

 古典的心理学において、想像というのは程度の弱い知覚であるとか、知覚の再生である、などと言われてきた。しかしながら、想像作用の特性(上記の四点)を理解した現在、知覚と想像とは明らかに区別できるであろう。

 

 想像というのは知覚とならんで(知覚とは異なる)意識の最も根本的な二大機能を構成するのである。

 

 以上のようにサルトルは想像意識の基本的特性を記述した後、実験心理学のデータなども取り入れて、「心的イマージュ」、「象徴」、「幻覚」、「夢」等々について興味深い考察を進めていくのであるが、最後に結論として、想像(イマジナシオン)と意識の自由との関係を問題にする。

 

 ここでサルトルが対決しようとしているのは、古典的心理学における意識のとらえ方、すなわち「心理学的決定論」である。この心理学的決定論においては、意識も一種の「物理化学的反応体」(または先行する条件によって決まる状態=「意識状態」)とみなされる。つまり、意識は他の物体と全く同様に現実世界の中に埋没し、物の因果的決定論に支配されるのである。

 

(先行する原因Aによって、ある意識状態Bが生じ、その結果、特定の行動Cが引き起こされるという因果律。自然科学的な因果律が人間の意識や行動にもそのまま適用される。)

 ここでは、意識の自由など入り込む余地がないわけである。

 

 しかし、意識というのは本当にそのような仕方で(物体と同じような仕方で)存在するのであろうか。サルトルによる想像意識の検討自体がすでに、この問いに対する答えを与えているのである。

 ここで、想像上の対象が非存在〔存在しないもの〕、あるいは不在〔ここにないもの〕として生み出されたことを思い起こすべきであろう。想像(イマジナシオン)において意識は目前の現実から離れて非現実の存在を志向する。

 

 したがって意識はどうしても現実世界からの離脱が可能でなければならない、「ひとつの像(イマージュ)を措定することは、現実世界の枠の外に対象を構成することであり、それゆえそれは現実界からへだたりをおき、それから身を解放し、一言で言えば現実界を否定することである(注12)。」

 

 まさに、このことこそ、意識が現実界に埋没している事物と根本的に異なること証明するのではないだろうか。もし、意識が心理学的決定論に支配される「物体や状態」であるならば、現実から離脱し非現実的対象を生み出す「想像」などは不可能であろう。

 

 サルトルは次のように言っている。「もしも意識が決定済みの心的事実の連続であるならば、その意識が現実界に属するもの以外の他のものを生み出すことは絶対に不可能である。(・・・)ある意識が想像力を発揮するためには、その意識がその本性そのものによって世界をまぬかれねばならず(・・・)一言で言えば意識は自由でなければならぬのだ(注13)。」「人間が想像力を振るうのはなぜかといえば、それは人間が先験的に自由な存在だからである(注14)。」

 

 このように意識は自由な存在であり、現実世界から離脱することができる。しかし、その際に意識は現実世界から完全に切り離されるのであろうか。それとも何らかの意味で現実と関わり続けるのであろうか。最後に、これらの問題についてサルトルは考察する。

 

 そもそも意識による現実世界の否定というのはどういう意味なのか。それは、意識が現実世界全体を自らの関心の外に置く、ということである。想像にふけっている時、意識にとって現実に存在する世界などは眼中にない。ここで、ゲシュタルト心理学の言葉を用いるならば、現実世界の全体は当面の関心から外されることによって地(背景)として後方へしりぞき、像(イマージュ)がこのような地の上に図として浮き上がってくるわけである。つまり、現実世界は像(イマージュ)がその上に構成される土台として存在し続けるわけである。

 

 「像(イマージュ)とは、この世界の土台の上にのみ、かつ、この土台との結びつきにおいてのみ、あらわれることができる。(・・・)かくして、一瞬いかに意識がその〈世界内存在性〉(注15)から解放されたかのような観を与えることができるにせよ、反対にこの〈世界内存在性〉こそ想像界の成立のための必須条件なのである(注16)。」

 

 サルトルはこのように意識によって生きられ把握される現実世界を〈状況(シチュアシオン)〉と名づける。「意識は〈世界内存在〉であることによってのみ、すなわち現実世界に対する自らの関係を状況として生きることによってのみ存在可能なのである(注17)。」

 

 このようにして、『想像力の問題』をたどることによって、われわれはサルトルにおける「自由と状況」の問題にたどりついた。人間の自由は常に「状況における自由」であり、人間は自由と状況との二元的対立を生きなければならない、ということがサルトル思想の根幹を成す主題なのであるが、われわれはようやくここへ一歩踏み込んだことになる。

 

 しかしながら、「自由と状況」という主題を全面的に展開するためには想像意識の研究だけでは不充分であろう。われわれの経験からもわかるように、想像的な自由は常に現実へとつれもどされる。想像における意識の自由はやがて意識活動一般における人間の自由として扱われねばならない。また、このような自由な意識(人間)によって生きられる現実世界が「状況」として問題にされなければならない。さらに意識と世界との具体的な交渉、つまり人間の行動の問題が具体的に扱われねばならない。

 

 以上のような問題を全面的に取り上げ、人間存在の一般論を構築しようとしたものが1943年に世に出た『存在と無』なのである。

 

注)

1、『サルトル−自身を語る』人文書院 37頁(訳者 海老坂武)

2、現象学を理論化したのは周知のようにフッサールであるが、サルトルはこれを批判的に継承した。フッサールにおける志向性の概念をサルトルは評価しているが、その他の点については批判的である。

3、『想像力の問題』人文書院 18頁 (訳者 平井啓之)

4、『哲学論文集』「想像力」人文書院 149頁 (訳者 平井啓之)

5、『想像力の問題』 17頁

7、  同   11頁

8、  同   12頁

9、  同   15頁

10、  同   18頁

11、  同   22頁

12、  同  255頁

13、  同  256頁

14、  同  260頁

15、サルトルによれば意識(人間)は〈世界内存在〉である。これは事物と同様に現実世界に埋没して存在するという意味ではない。それは、意識存在である人間の両義的性格をあらわす。

 すなわち、人間は一方では己れに先立ってある現実世界の中に存在し、現実世界によって規定されているのであるが、他方では己れ独自の仕方で自由に世界を把握し、働きかけ、現実世界とのかかわりを形成するのである。このような人間に固有の両義的存在仕方を〈世界内存在〉という。

(この概念は、サルトルがハイデッガーから受け継いだものである。)

16、『想像力の問題』 258頁

17、  同  259頁 

 

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