『存在と無』について 

 

第三節 行動の問題  1、行動と自由 

 

サルトルは、単なる無意味な動作・運動と行動とをはっきりと区別する。それらは、いかなる点において区別 されるのであろうか。サルトルは次のように言っている。 「一つの行動は原則として志向的である。」(注1)

 

つまり、何らかの意図を持ち、その意図(目的)を志 向的に実現していくこと、これが行動なのである。まさ に、この点において行動は「物理的な運動や生物学的な 反応」と明らかに区別される。なぜなら、「運動や反応」 においては特定の原因が先行し、それによって全てが因 果的に決定されるのに対して、行動は「まだ実現されて いない意図・目的」を生み出し、それらを志向的に実現 していくことだからである。 

 

 サルトルは言っている。「事実的な状態は、それがいかなるものであれ(・・・)それだけでは一つの行為を動 機づけることができない。なぜなら、一つの行為は存在 しないものへ向かっての対自の投企(もくろみ)である からであり、存在するものは、それだけでは、存在しな いものを、決して決定することができないからである。」

(注2)  〔対自・・・意識存在である人間、即自・・・事物の存在〕

 

解釈しよう。即自存在の世界には運動はあっても行動 はありえない。なぜなら、行動というのは、人間が何ら かの意図・目的という即自(事物)の世界には存在しな いもの(サルトルの言う「無」)を生み出し、それを、 志向的に実現することだからである。

 

いまだ実現されていない意図・目的、それを生み出し 決定するのは意識存在としての人間であって、即自(事 物の存在や状態)は、それら(意図・目的)を生み出し、 決定することはできない。

 

それでは行動において人間(意識)と現実世界との関 係はどうなっているのか。 簡単な例を挙げてみよう。「机上のマッチがふと目に留まり喫煙する」という行為において喫煙者は「タバコを吸おう」という意図・目的を志向的に 実現するのであるが、まさにこの意図・目的に照らして ここにあるマッチが有用な道具として対象化され、把握 されたわけである。

 

これは一例だが、いかなる行為においても現実世界は人間 がめざす目的に照らして把握される。「世界をあらわに するのは目的の志向的な選択であり、世界は選ばれる目 的にしたがって“これこれのもの”として“これこれの 順序において”あらわにされる。」(注3)

 

つまり、このように現実世界が対象化され把握される ためには、人間(意識)は現実世界から距離をおき、ま だ存在しない(まだ実現されていない)目的を生み出す ことができるのでなければならないのである。 

 

以上のような行動の根本的条件とは何か。それは人間 (意識)の自由である。人間(意識)が仮に事物のよう に現実世界に埋没しているのであれば、行動(=目的の 志向的実現)は不可能であろう。人間が現実世界から距 離をおきつつ目的を生み出せる自由な存在だからこそ、 行動が可能になるのである。 

 

だとすれば、外的な動機が「原因」となって、それが 因果的に人間の行動を決定するという「心理学的決定 論」は否認されなければならない。

しかしながら、まったく無動機な行動というのが果たしてありうるのだろうか。行動には多少とも動機が伴う のではないか。先ほどの喫煙者を例にとってみても、ここにあるマッチが喫煙行為の動機(直接のきっかけ)に なるということは充分考えられる。

 

サルトルは決してそのことを否定するわけではなく、 行動には何らかの動機が伴うことを認める。しかし、「動 機=行動を決定する原因」ということは認めない。 動機とは行動や目的を決定する原因なのではない。逆 にある事物は何らかの目的に照らしてながめられることで、初めて行動の動機となるのである。

 

喫煙者の例で言えば、あくまでもタバコを吸おうという「意図・目的」に照らしてここにあるマッチが「有用 な道具」として(喫煙の動機として)把握される。マッ チが喫煙の動機になるのは、喫煙という目的に照らして 「タバコに火をつけるための道具」として把握されることによってである。したがって、全く別の意図を持って ながめた場合、同じマッチが爪楊枝の代用品として「歯 をそうじする行為」の動機になる、ということもありうる。

 

以上のように、動機というのは行動を決定する原因な のではなく、何らかの意図・目的に照らしてながめることによって初めて「ある事物」は何らかの行為の動機に なりうる。「行為の目的とその動機について決定するの は行為であり、行為は自由の表現である。」(注4) 

 

このように行為というものは先行する原因によって 決定されるものではなく、人間の自由そのものの表現で あった。

「けれども、それは、その行為がどんなもので あってもいいというものではない。まして、その行為が 予測されえないという意味でもない。(注5) 

 

サルトルは何を言おうとしているのか。それは、ある 人間の行為はその人自身が身に着けている(身体化して いる)「姿勢」や「個性・人格」によって根本的に規定 されている、ということである。いかなる行為も「私の 行為」である以上、それは私の存在によって個性づけられ規定されているのである。 

 

それでは、根本的な「個性」「人格」(その人固有の行 動傾向・姿勢)とは何か。通常それは、遺伝と環境によって決定されるものと考えられており、人間の行動をその人の内側から規定する「実体=人格」としてとらえられている。

 

しかし、サルトルは人間の個性や人格を「実体」としてとらえるのではなく、「人間自らが形成する根源的選 択(根源的投企)」としてとらえる。 人間は、幼少期から特定の環境世界と関わりつつ行動 していくわけであるが、その行動傾向は各個人によって 明確な特徴を持っており、通常「個性」という名で呼ばれる。サルトルは、これを遺伝その他の条件によって「与 えられたもの」としてとらえるのではなく、各人が自ら 形成する「世界や周囲に対する固有の姿勢」と考え、「根 源的選択」と呼ぶのである。

 

意識的・意志的な選択であるかどうかに関わりなく、 「人間存在にとって、存在するとは、自己を選ぶことで ある」(注6)。そのような人格や個性は「選ばれたもの である」と同時に、様々な体験や行動を通して強固に形 成された「世界の見方」であり「世界に向かう姿勢」な のであるから、容易に変更することはできない。しかし、 あくまで「根源的選択」なのであるから、実体(固定した人格)として永続するわけではなく、更新・変革される可能性を持っている。 

 

このことから何が帰結するのであろうか。人間は存在 そのものにおいて自由であるがゆえに、その行動・存在 し方に関するかぎり全面的に責任があるということ、こ れである。     サルトルは言っている。「人間は自ら創るところのもの 以外の何ものでもない」(注7)、「人間は彼自身の投企 (もくろみ)以外の何ものでもない(・・・)彼は彼の行 為の全体以外の、彼の生活以外の何ものでもないのだ。 (注8)」 このような存在者であるからこそ、人間はその行動・ 存在し方について全面的に責任者なのである。(※)

 

(※)なお、このような人間観についてサルトルは、第 二の哲学的大著『弁証法的理性批判』やその後の対談に よって自己批判(社会的・歴史的状況がいかに個人を規 定・支配しているか、という点を述べていないという自 己批判)を行っている。    

 

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 2、自由と事実性(状況)

 

  以上見てきたように人間は自由である。 他方、人間は〈世界‐内‐存在〉として、(意識であると同時に身体である存在として)己に先立つ世界に投 げ出されており、自らが選んだのではない「すでに与えられた現実」に取り囲まれていた。行動における人間の 自由を問題にするのであれば、与えられている様々な現 実・状況と人間の自由とのかかわりについて考えていく ことが必要であろう。

 

「私の事実的状況が私自身の自由な選択に加える〈制 限〉」(注9)という問題も含めて自由と事実性(状況) との関係を問わなければならない。   日常我々が体験していることであるが、行動(目的の 志向的実現)は身の回りの事物による様々な抵抗に出会 う。例えば目の前の大岩はそこを通行するという行動の 障害(抵抗)となる。このような抵抗のことをサルトル は事物の逆行率(または抵抗率)と呼んでいる。  それでは、この逆行率人間の自由を否定し、無効にするのだろうか。サルトルは次のように言っている。

 

  「事物の逆行率は、われわれの自由を反論する論拠と はなりえないであろう。なぜなら、この逆行率が出現するのはわれわれによってであり、いいかえれば一つの目 的をあらかじめ立てることによってだからである。」

 

 「ある岩は、もし私がそれを移動させようとすれば、 はなはだしい抵抗を示すが、反対に、もし私が風景を眺めるためにそれに登ろうとするならば、貴重な助けとなるであろう。」(注 10 

 

つまり、事物の逆行率が自由を否定するのではなく、 反対に人間の自由な目的選択によって事物の逆行率が それとしてあらわれるのである。  したがって、「自由が存在者の中にあらわにするもろ もろの抵抗は、自由にとって一つの危険であるどころか、 かえってただ自由が自由として出現することを自由に 対して許すことしかしない」(注11)のである。

 

  確かに人間が「世界‐内‐存在」である以上、人間は 己に先立つ世界に拘束されてしか存在しえない。しかし ながら、世界が「私の状況」として様々な逆行率や有用 性をもってあらわれるのは、人間(意識)の自由によってなのである。 

 

  人間は自らの選ぶ目的に照らして身の周りの事物(例 えば目前の大岩)を行動の障害として、もしくは有用な 道具として意味づけるわけである。 それでは、人間は全く思い通りに周りの事物を意味づけることができるのであろうか。当然、そうではない。 

 

岩登りを例にしてサルトルは次のように言っている。 「私の自由が決定しえないのは、〈登攀されるべき〉こ の岩が登攀に適しているか否かということである。それ は、この岩の只の存在に属していることである。」(注 12 この意味において、確かに人間の行動は自ら作り出した のでない〈事物の抵抗〉に出会う。

 

しかしながら、サルトルは次のようにも言っている。 「この岩が登攀に対して抵抗を示すことができるのは、 この岩が登攀を一般的な主題とする一つの〈状況〉の中 に、自由によって組みこまれる限りにおいてである。」 (注 13)と。

 

このように見ると、自由と状況は相互に深く規定し合 っており、両者の関係は微妙な逆説的関係であるという ことがわかるであろう。このことをサルトルは次のように表現する。 「自由は状況のうちにしか存在しないし、状況は自由 によってしか存在しない。人間存在は、自分が作り出したのではないもろもろの抵抗や障碍にいたるところで 出会う。けれどもそれらの抵抗や障碍が意味を持つのは、人間存在がそれであるところの自由な選択の中においてでしかなく、またそれによってでしかない。」(注14

 

以上のような意味において、人間の自由というのは常 に〈状況における自由〉なのである。人間は己に先立つ (所与の)世界によって拘束されつつも、まさにそれを 土台として自己の存在仕方を自由に選ぶのであり、その ことによってこの世界を私の状況として生きるのである。

 

それでは〈世界--存在〉として世界のうちに意識= 身体として存在する人間につきまとう「事実的状況」と いうのは具体的にはいかなるものであろうか。 それは、私の場所であり、私の環境であり、私の過去 であり、私の隣人である。これらの「私の状況」について具体的に見ていくことにしよう。

 

 ○私の場所  

 

〈世界--存在〉として(世界の中に意識=身体として) 存在する人間は、ここに存在するものとして必ず特定の 場所を占める。人間は同時に二つの場所を占めることは できないし、全く場所を占めないこともできない。私の 一切の活動・行動は、まさに私の占めるこの場所において行われるのであり、必然的に場所によって規定されて いる。 

 

例えば単なる知覚・観察という行為をとってみても、 今この部屋にいる私は隣の部屋のようすを観察することはできない。  また、私はこの場所を耐え難い拘束であると感じるこ とがある。例えばホームシックにかかった留学生である 私は、今現在、故郷の風景を見ることはできない。しか しながらこの場合も「私の場所がその意味を持つのは、 目的の光に照らしてである。」(注15

 

 「ここにいる」ことについて私が耐え難い苦痛を感じ るのは、あくまでも「故郷に帰りたい、故郷を見たい」 という私の願望・目的に照らしてである。「私の場所の 事実性は、私が私の目的を自由に選択することにおいて しか、またそのことによってしか、私に対してあらわれ ない」(注 16)のである。 

 

○私の環境(まわりのもの)   

 

私の環境とは、私をとりまく様々な事物・道具のこと である。それらはある行動にとって有用であったり障碍 であったりする。そのような事物それ自体が自由を否定 するものでないことは、「目の前の大岩」を例示しながら先に述べた。

 

しかしながら、〈環境〉が突然変化することによって、 行動の変更を余儀なくされる場合がある。例えば天候の 突然の悪化によってハイキングを中止する、といった場 合がそれにあたる。  このことは私の自由の限界となるのであろうか。決してそうではない。単なる事実・現実が投企(もくろみ) の変更を決定するということはあり得ない。確かに、天 候の悪化がハイキングという企ての変更の動機になる、ということはありうる。しかし、天候の悪化がハイキン グ中止の動機となるのは、私がそれを健康上良くないも の、外出を不快にさせるものとして把握し意味づけることによってである。私は例えば健康への配慮から、ハイ キングを決行することよりもハイキングという企ての 変更を選ぶのである。

 

確かにこの選択はこの環境の中で行われたものであ り、この環境によって規定されているのである。しかし、 私がハイキングを中止するのはこの環境(天候の悪化) を健康上良くないものとして、ハイキング決定を中止する動機として把握し意味づけることによってなのである。 

 

○私の過去 

 

対自存在(人間)は、すでに在るものとして必ず何ら かの過去を持っていた。過去、これも又、対自存在(人 間)につきまとう事実性である。  これについてサルトルは言う。「この過去は、取り返しのつかないものである。」「過去は(・・・)少なくとも、 そこから出発してでなければ、われわれが新たな決心を 行うことができないところのものである。」(注17

 

このように私の過去というものは、もはや変更不可能 な事実として私につきまとい、現在の私の行動は多かれ 少なかれ過去によって規定されている。例えば、現在の 私が一人の浪人として予備校に通っているのは、去年大 学入試に落ちたからである。そして、現在の私がいかなるものであれ、必ず変更不可能な事実としての過去によ って規定されているのだ。 

 

しかしながら、変更不可能な過去もその意味(意義) については確定していない。私の過去に意味を与えるの は現在・未来における私の投企である。「私の目標へ向かって私自身を投げ企てることによって、私は私自身と ともに過去を救い、行動によって過去の意味を決定する のである。」(注 18

 

例えば過去において失恋したという事実は確かに現 在の私を規定する。しかしながら、私がそのために世を すねて生きようとする場合と、その体験を文学として表現しようとする場合とでは、同じ過去も全く異なる意味 を持ってくる。同じ過去に対して「人生の挫折」という 意味を与えるか、「新たな道へ突き進むための契機」と いう意味を与えるか、それを決定するのは現在における 私の行動なのである。

 

このように、私の過去というのは確かに変更不可能な 事実なのであるが、私はまさにそこから出発して現在の 生き方を選ぶのであり、そのことによって私の過去に対 して新たな意味を与えるのである。

 

○私の隣人(他者)

 

人間は社会の中に、他者に囲まれて存在するのである が、サルトル哲学において〈他者〉というのは非常に重 要な意味を持っている。実際、悠久なヨーロッパ哲学史 上で、これほどまでに他者なるものの存在の意味を深刻 に刻印した哲学はほとんどないといわれている。竹内芳 郎氏も、他者の問題に関する従来の哲学のあいまいな態 度をのりこえて、この問題を己の哲学の中心部において 真っ向から取り扱ったところに、ヨーロッパ哲学史上に おけるサルトルの画期的功績を認めている。(注19

 

それでは、ヨーロッパ哲学においてこれまで他者の問 題が徹底的に追求されなかったのはなぜであろうか。他 者を問題にする場合いかなる困難があったのであろう か。    理論的な厳密さを要求する近代哲学は、他者をめぐる 次のような難題を突破できずにきたのである。「意識主 体(認識主観)である私にとって、一切のものは〈私の 意識の対象〉としてあらわれる。したがって、私の意識 (主観)から出発して、私から独立した〈主体としての 他者〉の存在をとらえること、立証することは、(常識 に頼らず理論的な厳密さを追求する哲学においては)困 難である。」 

 

私は、私を取り囲む一切のものを対象化し把握すると ころの意識主体として確実に存在する。だがそうすると、 私にとって他者を含む一切は私の意識の対象としてあ らわれるのである。このことを突き詰めていくと、「主 体として存在するのは私だけであって、他者は私の意識の対象としてしか存在しない」という独我論に導かれる。 

 

常識としてではなく、哲学理論としてこのような独我 論を避けるためには、何としても〈意識主体としての他 者〉(私を含む一切のものを対象化・認識する主体としての他者)が把握されなければならない。それは、いか にすれば可能になるのだろうか。

 

サルトルによれば、「独我論をまぬかれる唯一の道は、 私の意識が自分の存在そのものにおいて、主体としての 他者の意識によって影響されているということを立証 することである。」そして、次のように述べる。「主観− 他者と私との根本的な結びつきは、〈他者によって見ら れる〉という私の不断の可能性に帰着しうるはずであ る。」(注 20   私は他者に見られることによって主体-他者の影響を 受ける。「見られるという体験」(この典型的なものが羞 恥を感じる体験)によって私が把握するのは対象として の他者ではなく主体としての他者なのである。他者によって見られるという体験、他者のまなざしを受けるとい う体験について一例をあげてみよう。 

 

今、私は嫉妬にかられて鍵穴から部屋の中を覗いている。中には自分の恋人と一人の男がいる。彼らは意識主 体としての私によって認識される対象としての他者で ある。ところが、私の背後で足音が聞こえた。背後に人 がいたのだ。

 

とたんに私は顔が熱くなり羞恥を感じる。何について の羞恥なのか。私は「主体としての他者によってまなざされ、対象化された自らの姿(私の対他存在)」につい て羞恥を感じるのである。私は(典型的には)このよう な羞恥という意識(=見られて恥ずかしいという意識) において、私を対象化する主体としての他者の存在を認知するのである。 

 

  サルトルは「この主体としての他者は、私の自由の限 界となる」と述べている。なぜであろうか。 

 

以前見てきたように対自(意識)としての私は自由な 存在であった。ところが、私から独立した意識主体としての他者(別の対自存在としての他者)が出現すること によって私の自由は根本的な変容を受ける。つまり、自 由な意識主体であったはずの私は、他者によって一個の 対象として意味づけられてしまうのである。

 

対自存在(主体的な意識存在)であった私は「対他存 在(他者にとっての対象である私)」へと変貌する。私 をどのように対象化し、意味づけるのか、それを決定するのは他者であって、私は自由にそれを選ぶことができ ない。

 

事実、私の主観的意図にかかわりなく、私は主体としての他者によって〈美人、醜男、卑劣漢、わがまま娘、 ユダヤ人、賤民、社会的名士〉等々として自由に対象化 され、意味づけられる。すべてこれらは他人にとっての 対象としての私の姿である。

 

 「それゆえ、ここにおいて私は(・・・)私の人格の全 面的な他有化にであう。私は私がそれであることを選んだのではない何者かである。」(注21

 

以上のように、自由な意識主体である他者にまなざされることによって、私は自由な対自存在から対他存在 (他者にとっての対象である私)へと変貌する。このこ とは私の自由の事実上の限界である。

 

さて、私はこのような「自由の限界」に対してどのような態度をとりうるのであろうか。  サルトルは、無関心、憎悪、欲情、サディズム等の態 度や、傲慢、虚栄、愛、サディズム等の様々な態度を扱 っている。

 

ここでは、無関心(無視)と虚栄という二つの態度を 取り上げていこう。 

まず、「主体としての他者」に対する無関心というの はいかなる態度であろうか。サルトルは次のように言っ ている。  「私は(・・・)他人のまなざしに対してまなざしを向 ける者として私を選び、他人の主観性の崩壊のうえに私 の主観性をうちたてることができる。われわれが他者に 対する無関心と名づけるであろうのは、この態度である。」(注 22

 

私は、己をまなざす主体としての他者のことなど全く 気にせず、まるで他者も一個の物にすぎないかのように ふるまう。「私は(・・・)他人の絶対的な主観性を無視する。」(注23 つまり、私をまなざし意味づける主観としての他者に 対して、私は逆にまなざし返すことによって他者を単なる対象(客体)とし、他者の主観性(他者の自由)を無 視、無効にしてしまう。これが他者に対する無関心という態度である。 

 

しかしながら「それにもかかわらず、自由としての他 人と〈他有化された私〉としての私の対象性とは、そこ に存在する。」(24) いかに徹底した無関心の態度(自分に対する他人の見方 など気にする必要はないという態度)をとってみたとこ ろで、私をまなざし対象化する自由な主体(他者)が存在するという事実は微動もしないのである。

 

ここでみてきた無関心という態度は、この動かしがたい事実に目をおおうことによってのみ成立する。そのことを暗黙のうちに知っているために、私は他者に対して 全く無関心であろうとしても、いくばくかの〈居心地の 悪さ〉を感じないわけにはいかないのである。 (「自分に対する他者の目など気にしない」と意識すればするほど、気になってしまう。これは、しばしば経験 することであろう。) 

 

他方、他者に対する虚栄というのはいかなる態度であ ろうか。サルトルは次のように言っている。「虚栄において私は自分が対象である限りにおいて他者に働きかけようとする。」私の対象的な姿としての「この美、こ の力、この精神を、私はあえて逆用することによって讃 嘆の感情もしくは愛の感情を、他者に受動的に帯びさせ ようとする。」(25) 

 

つまり、虚栄という態度が目指すことは、自由な主体 としての他者に、私を(美人、人格者、社会的名士等々 の)讃嘆すべき対象として認めさせることなのである。 だが、私は自分が讃嘆すべき対象であることを無理やり に他者に認めさせることはできない。虚栄という態度において私は、あくまでも主体としての他者が自由に私を 讃嘆すべき対象として認めてくれることを目指すから である。   

 

私の対象性(美人、人格者、社会的名士等々)は他者 が自由に讃嘆すべきこととして認めてくれるのでなければ意味がない。そこで私は(虚栄という態度において) 主体としての他者の前で、讃嘆すべき対象としての自己 を演ずるのである。

 

しかしながら、讃嘆すべきか軽蔑すべきか、私をどの ように見るか(意味づけるか)ということは、やはり他 者の自由である。こうして、虚栄という態度(自由な主 体である他者に私を讃嘆すべき対象として認めさせよ うとする態度)はそれ自体のうちに矛盾を含んでいるわ けである。

 

以上、無関心と虚栄という二つの態度について見てき たが、人間はいかなる態度をとろうとも、私を対象化し 意味づける「主体としての他者が存在するという事実」 から逃れることはできない。とすれば、私にはいかなる 道が残されているのであろうか。  この事実を承認することである。私を対象化する「主 体としての他者の自由」を承認し、私の対象性(対他存 在)を、他者の目から見た私の姿として承認することで ある。 

 

 「この承認は、もしそれが他者の自由についての自由 な承認でなければ、何ら意味を持たないであろう。(・・・) 他者を自由に承認することによって、私は私の対他存在 を、それがいかなるものであるにせよ、身に引き受け る。」「他者を承認するという自由な企ては、私の対他存 在の自由な承認と異なるものではない、」(注26)と。

 

私を対象化する自由な主観としての他者の承認、私の 対象性(対他存在)の引き受け、ということについて例 をあげてみよう。  私がある人に〈わがままな人間だ〉と言われたとする。 これに対して私は「それはあなたの見方がおかしいの だ」と応えるかもしれない。この場合私は、私を対象化 する主観である他者の自由を否定し、私の対象性(対他 存在)を拒否しようとしているのである。

 

  それでは、他者の自由を承認し、私の対他存在を引き 受けるということはどういうことなのか。それは自由な 認識主観である相手の目から見れば自分はわがままな 人間であるということを認め、その承認から出発して自 己の存在仕方を選ぶ、ということなのである。 (例えば、その承認を自己反省の契機、さらには自己変 革の契機にするということ。)

 

このように他者の自由を承認し、私の対他存在を引き 受けることによって、「私の自由は、いわばふたたび自 己自身の限界を取り返す」(注27 なぜか。  対他存在を引き受けるということは、単に物が物でし かないように自己の対象性(例えば〈わがままな人間〉 であること)を受け入れることでなく、それをなんらか の仕方で超えていくことであり、対他存在の自由な承認 から出発して自己の存在し方を自由に選ぶことだからである。

 

このとき私は、「私を対象化する他者の自由と、自己 の存在し方を選ぶ私の自由をともに肯定すること」がで きる。以上のように、対自存在としての私の自由は、他 者の自由からくる限界(対他存在)さえもそれを自分の ものとして自分の責任において引き受けるところに成立するわけである。

 

最後に、他者の問題に関連して、社会的に意味づけられた道具や技術・文化の問題について触れておこう。 私は自由に自らの存在し方を選び、自ら生み出す目的に 照らして周りの事物を対象化し、意味づける。しかし、 私の周りにあるのは自然の山や岩ばかりではない。 私は「すでに意味をになった一つの世界に拘束されて いる」(注 28

 

私は、私が与えたのではない意味をすでに他者によって与えられている道具(日用品、道路標識、駅、乗り物 など)に取り囲まれているのである。「使用法、指示、 命令、禁止、掲示板などは、私が誰でもいい誰かである かぎりにおいて私に語りかける。(…)私は、誰でもいい誰かの諸目標に従い、誰でもいい誰かの技術によって それらの目標を実現する」 

 

このような、すでに意味をもった諸々の道具・技術と いうのは私の自由を否定するのであろうか。決してそう ではない。道具・技術を私にとって実際に意味あらしめるのは、それを使う私の自由な行動だからである。確かに私はそれらの道具を自分勝手な仕方で使用することはできない。しかし、「ここでは自由の限界が問 題なのではない。むしろ反対に、対自(人間)が自由で あるべきであるのはこれこれのこの世界のうちにおい てであり、対自が自己を選ばなければならないのは、それらの事情を考慮してであって、ほしいままにではない」(注 29 

 

つまりここでは〈自由は状況においてのみ存在する〉 というサルトルの言葉を思い起こせば充分なのである。

 

自由と責任 

 

自由と状況に関する以上の考察から、何が帰結するで あろうか。 「状況における自由」である人間にとって、存在する ということはすなわち自己を選ぶということであり、選 ばないことは不可能である。したがって、人間はおのれ の存在し方に関する限り全面的に責任がある。これが、 これまでの考察の帰結である。

 

さらに、サルトルは次のように言う。    

「対自(人間)は、自分の置かれている状況がいかなるのもであるにせよ、(そこにおいて)自己を存在させ るところのものでもあるがゆえに、対自はこの状況を、 その逆行率がいかにたえ難いものであっても、それをも 含めて全面的に引き受けなければならない」(注 30)「そ れゆえ、わが身を嘆くことを考えるなどは、心得違いも はなはだしい。というのは、外来の何ものも、われわれ が感じるところのもの、われわれが生きるところのもの、 もしくは、われわれがそれであるところのものを決定し はしなかったからである」(注31)と。 

以上のように、人間は一切の逃げ口上を失う。人間は 自己の存在し方に対してのみならず、己の状況に対して も責任者である。そして、以上のことは『存在と無』の 実存的人間観の当然の帰結なのである。  

 

  サルトルの『想像力の問題』及び『存在と無』につい て、われわれは〈自由と状況〉という観点からその内容 を見てきた。この二著を通していえることは、サルトル による〈自由と状況〉の把握が、抽象的・本質的な段階 からしだいに具体的段階へと発展していることである。 すなわち、自由な意識と現実世界との関わりの解明が、 しだいに具体的なものになっているということである。 そして、それに応じて現実的な状況の拘束性についての 記述も具体化されていく。 

 

しかしながら、真に具体的な仕方で〈自由と状況〉の 解明を行うためには、彼の用いた現象学的方法というの が一つの制限になっていたことは否めない。現象学において問題にされるのは常に主体的意識体験である。した がって彼においては、人間をとりまく現実の状況はあく までも「私の自由によって成立するところの私の状況」 としてとらえられていた。 

 

つまり、『存在と無』においてサルトルは、明らかに 「人間の自由の確証」に重きを置いており、歴史的社会 的状況についてはほとんど考察していなかったといっていい。現実の社会的歴史的状況というのは、人間にと って、すでに何らかの意味を持って重く乗り越えがたい ものとして存在する。人間はこのような状況によって深く規定され、時には疎外される状況の中で自由が事実上 無効にされるような体験にもぶつかる。

 

だとすれば、人間を個人的実存としてとらえ、状況を わたしの状況としてとらえるだけでは全く不充分なの である。しかしながら、このような弱点はサルトル自身 によってしだいに克服されていく。『存在と無』以後の サルトルの思想・活動をたどっていくと、様々な曲折を 経ながらも、社会的・歴史的状況に目覚め、それに対する認識をしだいに深化させていくという歩みが見られるのである。

 

このようなサルトルの歩みの根幹をなすのが彼のアンガジュマン(参加)の思想と活動であった。社会的現実・状況へのアンガジュマンという思想と実践によって 彼はしだいに社会的・歴史的状況に目覚め、それに対す る認識を深化させていく。

 

   そして、そのような実践と認識の拡大は、『存在と無』 の哲学を大きく乗りこえた第二の哲学的大著『弁証法的理性批判』へと集大成していく。この著書において彼は、 社会的・歴史的状況における人間、そして社会と歴史の 可知性を真正面から理論化し「弁証法的全体化の哲学」 を結実させていくのである。

 

 

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  (人文書院版のものは発行社名を省略する) 

1、『存在と無 V 14

2、『存在と無 V 25

3、『存在と無 V 111

4、『存在と無 V 24

5、『存在と無 V 58

6、『存在と無 V 31

7、『実存主義とは何か』17

8、『実存主義とは何か』43

9、『存在と無 V 119

10、『存在と無 V 120

11、『存在と無 V 123

12、『存在と無 V 134

13、『存在と無 V 136

14、『存在と無 V 111

15、『存在と無 V 144

16、『存在と無 V 146

17、『存在と無 V 151

18、『存在と無 V 157

1931『存在と無 V       

 

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