第三章 アンガージュマンの思想と活動 

 

 第1節 アンガージュマン(社会参加)とは

 

 サルトルが「社会的状況」に目覚める発端となったのが第二次世界大戦だった、ということについては疑う余地がないように思われる。事実、「70歳の自画像」はそのことについて次のように語っている。

 

 「(それまで・・・)私は反ブルジョワ的かつ個人主義作家としての私の位置に心地よくおさまっていたんだ。こういうことがすべて吹き飛んでしまったのは、19399月のある日、一枚の召集令状を受け取ったからだ。突如、自分が社会的な存在であることを理解した。(・・・)世界の重みと、他の人間すべてに対する私の絆、他の人間すべての私に対する絆などを自覚するためには、召集をとおして私自身の自由の否定にぶつかる必要があったんだ。(注1):ただし( )内は引用者」

 

 このようにサルトルは、第二次世界大戦によって自らの個人的自由を圧殺する暴力的な状況に投げ込まれ、いやおうなく「社会的状況」というものに目覚めることになったのである。

 

 しかしながら、彼は決して「社会的・歴史的状況」、「その中に生きる社会的・歴史的人間」というものを一挙に全面的に把握したわけではない。そのことは、戦中の大著『存在と無』が個人的レヴェルでの人間存在の解明に終わっていて、社会的・歴史的状況についての解明がなされていないことからもわかる。認識はかなりの時間をかけて少しずつ深化していったと考えるべきであろう。

 

だが、ともかくも「社会的状況」に目覚めることによって、戦後彼が提唱した「アンガジュマン〈engagement〉(社会参加)」の思想も形成されていった、と考えられる。

 

それでは、このアンガージュマン(社会参加)の思想とはいかなるものであろうか。サルトルは1945年の「レ・タン・モデルヌ創刊の辞」、1947年の「文学とは何か?」において文学者のアンガージュマンについて述べている。だが、アンガージュマンというのは単に文学者の社会参加という意味ではなく、広く一般の人間にも通じる思想である。従って、ここではアンガージュマン(社会参加)の理論を一般化して見ていくことにしよう。

 

『存在と無』においてサルトルは、「人間は自らの“存在仕方”に関する限り全面的に責任がある」、と主張した。それでは、世界--存在であるところの人間にとって、ある存在仕方を実現するということはどのような意味を持つのであろうか。

 

人間は世界--存在として、「事物や他者の存在する世界(社会)」の中に投げ出されており、積極的にせよ消極的にせよ、そのような世界(社会)と何らかの仕方で関わりながら存在する。人間が存在するということは、好むか否かに関わりなく、何らかの立場を持ってそのような世界と関わって生きるということなのである。

 

サルトルは言っている。「たとえ石ころのように黙ってじっとしていても、われわれの受身の態度そのものが、すでに一つの行動である。未開のヒッタイト族について小説を書くことに生涯をささげる男がいたとしても、この男の棄権はそれ自身、一つの立場をとることである。(注2)」このように、社会に背を向けて生きる場合でさえも、それは社会に対する一つの関わり方であり、一つの社会的立場をとることなのである。

 

そして、自己の存在仕方についての全面的な責任者である人間は、社会に対する自らの関わり方、自らのとる社会的立場に対して責任がある。このような事実を認識し、自覚的に自らの立場決定をおこない、社会へと参加していくこと、そしてこの「立場決定」のありかたにはっきり責任をとっていくこと、これがサルトルの提唱するアンガジュマン(社会参加)なのである。

 

サルトルは、作家としてのアンガジュマンについて次のように言っている。

「作家は彼の時代の中に状況づけられている。(・・・)われわれは、われわれの生存しているそのことによって現代に働きかけているのである以上、われわれはこの行動が意志的であることを決意する。(注3)」「われわれの作家生活の中で、われわれの論説の中で、われわれの書物の中で、立場をとらねばならない。(注4)」

 

このようにアンガジュマン(社会参加)とは、「自らが現代社会によって状況づけられており、その中でいやおうなく一つの立場をとらざるを得ない」という認識から出発して、自覚的に自らの立場を決定し、社会に働きかけるということなのである。

 

それでは、サルトル自身はアンガジュマン(社会参加)において何を目指したのだろうか。彼は、「時代から逃げることによって時代を超越するのではなく、時代を変えるために時代を引き受けること(注5)」を提唱する。が、いかなる方向へ時代を変えようというのか。

 

彼は次のように言っている。「われわれが定めた遠大な目的は解放である。(・・・)人間は全的に解放されなければならない。(注6)」

 

戦中、戦後の体験によって彼は社会的状況(とりわけ自らの自由を圧殺する暴力的な状況)に目覚めていた。そして、社会的状況に目を開くことによって彼が見出したものは、「階級闘争や、植民地主義や、ユダヤ人排斥主義などなどの時代の不正(注7)」であった。

 

資本家による労働者の搾取と抑圧、フランスを含めた欧米資本主義国による植民地の支配と収奪、それによって生じる第三世界の飢餓、欧州におけるユダヤ人差別、米国における黒人差別、等々の暴力的状況であった。

 

以上のような、現代社会における様々な差別、抑圧、搾取、貧困、飢餓、等の現実に接したサルトルは、抑圧される側にある人々の全面的解放(社会的自由の実現)を目的としたのである。

 

「社会的自由」を実現しようという立場(例えば18世紀の啓蒙主義や社会主義の立場)からすると、社会全体が解放されて初めて個人も本当の意味でおのれの自由を実現できる。人間解放を目指すことにおいてサルトルが問題にするのは、明らかにこの社会的自由なのである。

 

だとすれば、彼が『存在と無』において解明した「実存的自由」とここでいう「社会的自由」との関係についてはどのように考えればいいのだろうか。

 

『存在と無』における自由というのは「意識の能動的活動性」のことであって、意識存在である人間は存在そのものにおいて自由であった。この自由は、「社会的自由」のように獲得し、実現しなければならないものではない。意識存在である人間は、自由であるより他のあり方を持たないからだ。

 

このように考えると、『存在と無』における実存的(存在論的)自由と、人間解放において目指される「社会的自由」とは別のものであると言えるであろう。

 

しかしながら、『存在と無』における人間の自由のとらえかたには、「個人的実存の次元」から「社会的次元」へと発展していくための多くの萌芽が見られるのである。というのは、『存在と無』における人間と言うのは決して外界から閉ざされた自我ではなかったし、人間の自由は決して自我のうちで完結する「内的自由」ではなかったからである。

 

第一に、サルトルが解明した意識存在としての人間は常に「何ものかについての意識」として、外的対象(超越的対象)を目指すことなしに存在することはできなかった。常におのれの〈外部〉にある即自(事物)との関わりを持ち続ける存在、という人間(意識)のとらえ方は、彼の人間観(自由観)を個人的次元から社会的次元へと発展させていく萌芽だったといえるであろう。

 

第二の萌芽として挙げられるのは、『存在と無』において彼が人間存在につきまとう「事実性」を強調したことである。人間は世界--存在(身体)として、〈特定の場所に〉、〈変更不可能な過去をもって〉、〈特定の事物や他者に囲まれて存在する〉。

 

これらは人間が選んだのではない事実、いやおうなく人間存在につきまとう事実である。そして、これらの事実性は行動の次元で人間につきまとう「状況」として把握される。サルトルによれば、行動は人間の自由の表現なのであるが、この自由というのは常に「状況における自由」であり、抵抗する世界に拘束されたものとしてしか人間の自由は存在しなかったのである。

 

そして、これもまた、サルトルによる自由の把握が個人的実存のレヴェルから社会的人間のレヴェルへと発展していくための萌芽だったといえるであろう。

 

さらにサルトルは、自己を外部からまなざす主体としての他者を強調し、他者によってまなざされ、対象化されることによって成立する私の「対他存在」を強調した。美人、醜男、卑劣漢、わがまま娘等々、私は自らが選んだのではない意味を他者によって与えられる。自由な主体であったはずの私は、他者によって一個の対象として意味づけられる。これは私の自由の事実上の限界である。

 

だが、人間の自由というのは、この事実を承認し、何らかの仕方で自らの対他存在(他者の目に映る私の姿)を引き受けることによって成立するのである。このような主体としての他者(及び私の対他存在)の強調は、明らかに、サルトルが人間を社会的次元でとらえる第一歩となったのであり、彼の関心を実存的自由から社会的自由へと発展させる一つの契機となったのである。

 

確かに『存在と無』は、「社会的自由」と原理的に異なる「人間の存在論的自由」に関心を集中させ、それを正面から取り上げた哲学書であった。しかしながら、戦中・戦後の激動の体験を通して「社会的状況」に目を開いた彼は、もはやこのような「実存的自由」を絶対視することはできなくなったのである。

 

なぜなら彼は、社会的次元に決定的に目を向けることで、人間の個人的自由を疎外・抑圧し、事実上無効にしてしまうような「暴力性」を見出したからである。

 例えば資本家による労働者の搾取と抑圧、資本主義国による植民地の支配と収奪といった現実…。サルトルは言っている。

 「ある種の状況では二つに一つを選ぶほか余地のない場合がある。そして、二つのうちの一方は死なのである。(注7)

 このような暴力的状況においては、人間の個人的自由・選択の自由は疎外され、圧殺され、事実上無効にされてしまう。

 

 また、それ以外の場合にも、社会的状況・現実というものは乗り越えがたい重みを持って人間に迫ってくる。例えば、すでに存在する社会的・政治的諸機構や、「掟」、慣習、社会通念などは様々な場面において私がとる行動を規定する。もしも私がそれらを無視して行動するならば、私は人々によって「秩序からの逸脱者」として意味づけられ、社会から排除されてしまうであろう。

 

 戦時中に反戦を口にするものは「非国民」として社会から排除されていったことなどは暴力的状況のわかりやすい例であるが、「その場の雰囲気や秩序になじめないもの」が“村八分”にされるということは、決して珍しいことではない。

 

 このように、社会的状況・現実にしっかりと目を向けるならば、実存的自由(人間の自由な活動性)を疎外し圧殺するさまざまな暴力性が存在するのである。このような社会的状況の暴力性に目覚めることによって、サルトルは「人間の解放」、「社会的自由の実現」を重視する立場に至ったと考えられる。 

 

 確かにこの時点においても、サルトルは『存在と無』において主題にした「存在論的自由(実存的自由)」を全面的に放棄したわけでは決してない。そもそも人間が社会的自由の実現(解放)を目指して運動するためには、すでに人間が「何らかの目的を目指して行動する自由な存在」でなければならない。

 

 しかし、このような実存的自由の主張だけに固執することはできない。欧州におけるユダヤ人差別、米国などにおける黒人差別、資本家による労働者の搾取と抑圧、資本主義国による植民地の支配と収奪、それによって生じてきた第三世界の飢餓、等々現実にはさまざまな支配と抑圧が存在する。大戦後、サルトルはアンガジュマン(社会参加)を強く提唱したが、そこにおいて彼が目指したのは、抑圧される人々の側に立って人間の解放を実現することだったのである。

 

 1945年、彼はボーボワール、メルロポンティ、レイモン=アロンらをはじめとする数人の仲間とともに雑誌「レタンムデルヌ(現代)」を発刊し、鋭利な評論を矢継ぎ早に出した。この雑誌はまさに彼らがアンガジュマン(社会参加)を実現していくための武器、彼らが積極的に政治に参加することによって現実を変革するための武器だったのである。

 

 そして、事実サルトルは、「レタンムデルヌ(現代)創刊の辞」によって自らの立場を宣言したのち、ユダヤ人の差別、米国における黒人差別をはじめとして、人間による人間の支配、抑圧、差別といった現実に対する告発を行ったのである。

 

第2節 『唯物論と革命』

 

 それでは当時サルトルは、社会的・歴史的状況の全体を明確に、客観的に把握していたといえるのであろうか。答えは否である。この時点におけるサルトルの社会的・歴史的状況の客観的な認識・把握にはきわめて不十分なものがあった。このことは、彼がマルクス主義に対してとっていた態度、及び実際に行った政治活動について見てみれば明らかであるように思われる。

 

 まず、当時の彼は、マルクス主義に対してどのような姿勢をとっていたのであろうか。基本的立場について言えば、大戦直後のサルトルの立場とマルクス主義の立場はほぼ一致していたと言えるであろう。

 

 マルクス主義は国家による人民の支配、資本家による労働者の搾取と抑圧、帝国主義国による植民地の支配と収奪といった現実を直視し、抑圧される側の人々を解放するために歴史に働きかける理論であった。「社会主義社会を実現することによって人間の全面的な解放を目指すこと」この点についてサルトルは一貫してマルクス主義を支持している。

 

 しかしながら、マルクス主義は単に「搾取や抑圧の現実をとらえ、人間の解放を目指す」といった理念にとどまるものではない。それは、社会的・歴史的現実の構造をできる限り深く把握し、そうすることによって有効な仕方で歴史に働きかけ、社会を変革しようという理論である。

 

 そして、社会的・歴史的現実を総体としては把握していくための武器が史的唯物論なのである。それは、生産様式(農奴制生産様式、資本制生産様式等々)が、つまり社会の経済的構造が社会や歴史を根底から規定するという理論(作業仮説)である。そして、社会変革の客観的条件というものも、生産力増大によって生じる生産様式内部の矛盾という形で形成されるものとみなされる。

 

 当時のサルトルは、この史的唯物論に対してどのような態度をとったのであろうか。1946年に発表された『唯物論と革命』を見れば明らかである。

 彼はマルクス主義の唯物論を「客観性の神話」として、はっきりと拒否したのである。曰く、マルクス主義の唯物論は、人間の歴史を含めて一切を物質の運動に還元し、世界全体を一元論的に解釈していく。そこでは人間の歴史的営みも含めてすべては物質の運動の客観的過程として(決定論的に)説明されてしまう。

 

このような「客観性の神話」による説明では、人間の主体性が無視され、革命行動における人間の自由な実践が把握されないままに終わる。マルクス主義の唯物論は、革命の哲学としてはまったく不適格なのである。

 

このようにサルトルは、マルクス主義の唯物論を拒否し、革命における主体的かつ自由な投企の重要性を強調する。「もしも、革命が可能でなければならないならば、人間は(…)単なる事実とは異なって将来を準備する実践的能力、したがってまた、現在を越え、自分の状況の覆いを剥ぐ実践的能力を持っていなければならない。(…)革命者が現在を越えるのは、自らを前方に投げることによってであり、企ての中に自ら入り込むことによってである。(注8)

 

つまり、革命者は、将来実現されるべき目標(たとえば人間解放)に向かって自らを投企するのであり、この将来の目標に照らして現在の状況を開示するのである。このようにサルトルは革命行動における人間の主体的かつ自由な投企を強調するのであるが、要するに彼は、「唯物論」よりも『存在と無』で展開された「実存主義哲学」こそが、革命の哲学にふさわしいと主張するのである。

 

以上われわれは、サルトルによる唯物論批判および彼の提示する「革命の哲学」について見てきたが、これらは、この当時におけるサルトルのマルクス認識の浅さ、歴史的状況に対する認識の甘さを物語っているように思われる。

 

まず、マルクス主義の唯物論について彼は「機械的唯物論」、「客観性の神話」として、頭から拒否している。確かに、当時の教条主義的マルクス主義者たちは、サルトルの批判に値するような機械的唯物論者であったといってよい。しかしながら先に述べたように、史的唯物論とは、社会的・歴史的現実の意味や構造をできるだけ深く把握し、そうすることによって有効な仕方で歴史に働きかけるための武器なのである。

 

 サルトルはこのような史的唯物論の核心を全く見逃していたのであり、彼の革命の哲学も、歴史をつくる人間の主体的投企を一方的に強調しただけで、歴史的現実の客観的把握という面を全く欠落させていたのである。

 

確かに社会革命における人間の主体的実践の重要性を否定することはできない。しかし、真に歴史をつくるためには、歴史に対する人間の主体的働きかけを強調するだけでは不十分であって、まず、自ら歴史に立ち戻ることによって歴史的現実に深く問いかけ、歴史の持つ客観的な意味・構造、およびその中で自らの行動が持つ客観的な意味を把握しなければならない。

 

 そのための武器が史的唯物論なのであって、もしそれを批判しようと思うならば、歴史的現実を徹底的に把握するための有効性という見地からそれを検討していくのでなければならない。しかしながらサルトルは、マルクス主義の史的唯物論を「客観性の神話」として戯画化して描き、人間の主体性を一方的に強調することによってそれを批判していたにすぎないのである。 

 

以上のようにこの当時のサルトルは、いまだマルクス主義に対する認識が浅く、社会的・歴史的状況に対する認識も不十分であったといえる。そして、彼の現実認識の甘さは実際の政治活動にも現れているようである。

 

1948年になって、サルトルは非共産党的左翼知識人の政党〈革命的民主連合〉(RDR)を結成した。その目的は、共産党に加盟していない社会主義勢力を結集し、米ソ二大陣営から独立した中立欧州連邦を築きあげようとするものであった。この組織はめいめい政治的立場を変えず、ただ、民主的な方法で社会革命を推進するために一致団結すればいいとされた。

 

さて、なぜサルトルは既成の共産党とは別の組織を創ったのであろうか。それには外的要因もある。当時はスターリンの硬外交時代で、各国共産党の排他的傾向も著しい時代だった。サルトルは、ソ連およびフランス共産党の、外部への不信を基にした排他的傾向、固定的・抑圧的官僚制機構に対しては、自由の名において否定する立場を取っていた。〈革命的民主連合〉結成の意図というのは、既成の共産党とは別の、自由で開かれた組織を創ることでもあった。

 

しかしながら、〈革命的民主連合〉は結局大衆の支持を得ることができず、内部分裂し、結成から一年足らずで瓦解してしまったのである。

 

この段階におけるサルトルは、ソ連および共産党のあり方を自分の頭のなかにある理想的社会主義の名において批判していた。〈革命的民主連合〉というのも、社会的・歴史的状況の客観的把握にもとづく現実的な有効性を持った組織なのではなく、理想・理念ばかりが先行していたといえる。

 

以上のように見てみると、1940年代後半においては、現実の社会的・歴史的状況における彼の認識は、まだまだ不十分なものであったことがわかるだろう。

 

当時、アンガジュマン(社会参加)の実践においてサルトルが強調していたのは「社会への自覚的・主体的働きかけ」ということであった。しかしながら、アンガジュマンが有効なものになるためには、社会的・歴史的状況に対する客観的認識、そして、自らが行う行動の客観的な意味(現実的な有効性等)を把握することが必要である。

 

この点における不十分さが、彼の論文「唯物論と革命」や、彼の政治活動に現れているのである。その結果、「唯物論と革命」はマルクス主義者による批判にさらされ、革命的民主連合は結成後一年足らずで瓦解した。このことは、サルトルにとって手痛い挫折であった。

 

しかしながら、このような挫折に屈することなく、挫折さえもひとつの踏み台にして前進しようとするところにサルトル固有の積極的な姿勢があるといえよう。彼は、それを契機として歴史や経済の研究に着手し、少しずつマルクス主義や社会的・歴史的状況に対する認識を深めていくのである。

 

ただ、そのためにはかなりの時間が必要だったようである。1949年の革命的民主連合崩壊から1951年までに彼がひとつも作品を残していないことが、そのことを物語っている。

 

第3節         『聖ジュネ』

 

 1952年になってサルトルは『聖ジュネ』を発表した。この著作によってわれわれは、それまで人間の主体性という一面を強調してきたサルトルが、人間の対象性(対象としての人間の姿〔=対他存在〕、人間の行動がとる客観的な意味)に対する認識を深化させていったことを知ることができる。

 

 『聖ジュネ』というのは、『花のノートルダム』や『泥棒日記』の作者であるジャン=ジュネの作品と生涯を、サルトル独自の「実存的精神分析」という方法を用いて、徹底的に解明したものである。だが、本稿ではとてもその詳しい内容にまで立ち入る余裕はない。ここでは『聖ジュネ』の最終章「ジュネ善用のための祈り」を中心に見ていくことにしよう。

 

 彼はそこで、人間は「自己にとっての主体であると同時に、他者にとっての客体(対象物)である」という事実を強調する。言い換えるならば、人間は何らかの目的を目指して行動する主体であると同時に、他者によって対象化され意味づけられる客体である、という事実を強調するのである。

 

 そして、主体としての私は、特に「羞恥」といった意識によって、他者によってまなざされ客体化した私の姿(=対他存在)を感じる。たとえば職業上の失敗や粗忽な失策、過ちややりそこないの際に私たちは羞恥、孤独という意識のさなかで他者によってまなざされた自己の客体制(対他存在)を感じるのである。

 

 「突然他人たちが私たちを見ており、私たちは対象物(客体)になり変わっている。私たちは自分が見つめられているのを感じ、自分が赤くなりまた青くなるのを感じる(注9)」

 

 そして、このように他者によって見られた対象(客体)としての私と、主体としての私との間には、常にいくばくかの分離が存在する。特に、わたしは主観的には善意でありながら、人々の目から見れば客観的には悪人である、という場合などがそうである。

 

 「孤独の体験」とは、このような「主観と客観との分離」によって生じる体験なのである。サルトルは言っている。「人間は過失を犯し、しかも同時に身に道理を持つときこそ孤独である(注10)。」「諸君は自分がもはや、すべての人々の目に、罪深い対象物(客体)に過ぎないものとなりはて、しかも一方、諸君の良心〔意識〕がどう考えてみても自己肯定をやめないことを身に味わい知るならば、孤独となるだろう(注11)。

 

 自らが主観的には純粋な善意によって行動しながら、同時に客観的には「有罪」である場合、人間はいかなる態度をとるべきなのであろうか。サルトルは、ジャン・ジュネとブハーリン(注)との二人がとった態度について述べている。

(注:ロシアの政治家、トロツキストであるとしてスターリンの命令で銃殺された。)

 

 ジャン・ジュネは捨て子であった。彼は、ある農家に引き取られて、農村特有の保守的世界観(土地を持つ農民の嫡出子として存在することが善であり、この善なる存在だけが正当な権利を持って財を所有できる、という世界観)を素直に受け入れて育つ。

 

 だが、捨て子であるジュネは、誰の嫡出子でもないし、何一つ所有していない。ジュネは、このような不快な現実を子どもらしい仕方で解決しようとする。誰の嫡出子でもない彼は自分が神の嫡出子であると信じることによって自らを根拠づけ、何も所有していない彼は、家のものを盗んで所有することによって自らをその所有者たらしめた。

 

 要するに彼は、「神の嫡出子として正当な権利を持って財を所有する子どもを演じたのである。当時彼には自分が罪を犯しているという意識は全くなかった。

 

 ところがある日のこと、「財布の中の手がつかまえられた。誰かが部屋に入ってきて彼を眺めているのだ。(・・・)ひとつの声が公然と宣告する〈お前は泥棒だ〉と(注12)

 ジュネは仰天して「そんな意図はないのだ」、と陳弁に努めるが彼には反駁できない巧弁によって圧倒される。

 

 彼は盗みを働いた。だから彼は泥棒である。捨て子であるジュネは、人々によって、本質的に泥棒である存在として意味づけられてしまう。従順で天涯孤独なジュネは、その意味づけを拒否することはできない。

 

 さらに、農村の人々はジュネを本質的な泥棒・悪人として農村社会から排除しようとする。彼らはジュネを悪人として追放することによって自分たちが善人であることを確認するのである。それはまさにジュネにとって絶望的な状況であった。

 

 しかし、「彼の峻厳にして荒涼たる魂は、恥辱を受けてもそれを超えて生きる意志と、打ち勝つ信念とを持っている(注13)。」そして「彼は生きることを選びすべての人に向かっていった。僕は泥棒になるぞ、と(注14)。」

 

 こうしてジュネは泥棒として、悪人として生きることを決意する。そして、これ以降彼は、泥棒として、悪人として生き抜くために、あらゆる状況に抗して様々な努力を試みるのである。

 

 以上が、自らの「客体性」に対してジュネの取った態度である。彼は、他者によって意味づけられた自己の客体性(=泥棒)を引き受け、泥棒として生き抜くことを決意する。この決意こそが、あの絶望的な状況において自らの自由(主体性)を回復するためにジュネの取りえた唯一の道なのである。

 

 これに対してブハーリンの場合は次のようなものであった(注15)

 革命家ブハーリンはロシア革命後、反スターリン路線をとった。スターリンは一国社会主義をとなえ、まずソビエト一国に革命をとどめ、少しでも早くソビエト連邦の国力を充実させることを目指したのである。

 

 だが、当時、欧米資本主義国の干渉と包囲に抗してソ連が生き延びていくためには、何よりもまず、一国社会主義路線によって国力を充実させることが必要だったのであり、ブハーリンの世界革命路線は、現実に破滅的なものだった。

 

 スターリンに反対した彼は、革命に対する裏切り者として投獄される。国家によって「裏切り者」とされたブハーリンだが、彼が主観的に望んだのは、世界的規模で革命を成功させることであって、決して革命を裏切ろうとしたのではない。

 

しかしながら、欧米資本主義国の猛烈な包囲に抗して困難な革命を遂行しなければならないというソ連の限界状況においては、主観的には誠実な行為も客観的には革命に対する裏切りとして責任を問われる。

 

当時のソビエト連邦では、「反対者を弾圧することによって危局をまぬかれうる」と信じられていたのである。(ちょうど、フランス革命において「ジャコバン政権」が、内外の危機に抗して国内の反対者を弾圧したように・・・)

 

「確かに、彼は裏切る意思はなかった。しかし、それだけでは不十分であったのだ(注16)。」

 数年後、革命家ブハーリンは獄中から引き出されて世界の情勢を知るのであるが、彼は自分の見通しが誤っていて、破滅的なものであったことを自ら悟るのである。

「かくして彼は自分の裏切り行為を告白する(注17)」

彼は、主観的な裏切りの罪(スパイ行為やサボタージュの罪)を負わされることは拒否するのであるが、自己が行った行為の客観的有罪性をはっきり認め、革命裁判の死刑判決に自ら同意するのである。

 

「ここには責任についての厳しい考え方がみられるが、責任とは人が意欲したことではなく、事実の光に照らしてみて自分がやってのけたことに気づくことなのだ(注18)」

 

以上、自らが主観的に意欲したところのものと、他者の目から見た自らの客観的な姿との間の絶望的な分離に対してジュネとブハーリンのとった態度を見てきた。彼らは、自己の主体性と客体性の分離をごまかすことなく生きぬいたのであり、自己の客体性(対他存在)を敢然と引き受けることによって、逆に自己の主体性を守り通したのである。

 

さて、ジュネとブハーリンの体験をどのように見るべきなのか。われわれとは全く無縁で特殊なものと見るべきであろうか。否、けっしてそうではない。愚かしい戦争の脅威、資本主義国による第三世界の収奪等々、現代の世界はさまざまな不正に満ちており、われわれは皆この不正の共犯者なのだ。

 

「私たちはいつの時代にもまさってはっきりと不正を見とどける。(…)私たちは(…)覆面の未来人たちが、現に私たちを裁きつつあることを感じている。(…)これら未来の目にとっては、私たちの時代は対象物と化すだろう。しかも、有罪の対象物に(注19)。

 

つまり、未来の人々の眼から見れば、われわれは現代社会における様々な不正の共犯者として、客観的には皆有罪なのである。とするならば、われわれは「ブハーリンたるか、それともジュネとなるか、いずれかを選ばざるを得ない。ブハーリンとは言い換えれば殉教にまで押しすすめられたともにあらんとする私たちの意志であり、ジュネとは〈受難劇〉にまで押しすすめられた私たちの孤独である(注20)。」

 

われわれは、ジュネやブハーリンがそうしたように現代人としての自らの客体性(客観的有罪性)を引き受けて生きぬかなければならないのである。そしてサルトルは、「現代人が誰しも、ともに取るべき決意とは、現在ただいまのこの歴史の瞬間に身をおいて、いっさいの状況に対抗して、敗者のがんばりを持ってこの歴史の一瞬を意欲することだ(注20)」と言い切っている。

 

第4節 「共産主義者と平和」

 

 (いくつかの問題点を含みながらも)大きく変わったのは、ソ連および共産党に対するサルトルの態度である。

 彼は、それまでしていたような態度(理想の社会主義の名において、ソ連およびフランス共産党の現状を頭から否定するという態度)を改めて、社会主義社会実現のためにフランシス共産党が現実に果たしている役割を評価するようになる。

 

 当時のフランス共産党は(日本共産党の場合とは異なって)大多数の労働者の支持を得ており、労働者の政治闘争を指導する持続的組織として労働者を集団として統一し、全国の労働者の力を結集していく上で大きな役割を果たしていた。

 社会主義社会の実現を目指してフランス共産党が現実に果たしている役割を評価することによって、サルトルは共産党へ接近していく。

 

 ただ、彼に共産党への接近には外的要因も作用していたようである。NATOの成立、マーシャルプランに実施、朝鮮戦争勃発によって、既成社会主義国に対する欧米諸国(特に米国)の攻撃的性格、反平和的性格が明らかになり、それに対してソビエト連邦および各国共産党が世界的平和運動に合流して言ったという事情も、共産党への彼の接近を促したのであろう。

 

 ソ連、およびフランス共産党に対する当時の彼の態度は「共産主義者と平和」という彼の論文を見れば明らかである。

 

 1952年5月、西側諸国は一方的に対西独平和契約条約を結び、西ドイツの再軍備とNATO全体の軍事力の強化を進めることによって、社会主義国に対する圧力を強めようとしていた。

 5月28日、フランス共産党およびその指導下にある労働総同盟は、これらの動きに反対して大規模なデモを組織したが、権力によって弾圧され、共産党副書記長デュクロが不法逮捕された。

 

 ついで、6月4日、共産党系の労働総同盟は、デュクロ不法逮捕への抗議ゼネストを組織したが、労働者の参加が得られず失敗に終わった。反共右翼系の新聞はこれを見て一斉に喝采し、これこそは労働者(階級)による共産党の否認であるとして反共宣伝にやっきになった。

 

 サルトルは、「共産主義者と平和」を書くことによって、反共右翼系新聞による攻撃に対して共産党を擁護したのである。彼は、ほぼ次にように言っている。

 デュクロ不法逮捕への抗議ゼネストが失敗したのは、決して集団としての労働者階級が共産党を否認したからではなく、個々の労働者が自らの政治に対する無力さに絶望し、集団としての活動性を失って、個々バラバラで無力な大衆の状態へ陥っていたからである。

 

もし仮に(集団としての労働者階級が共産党を否認したといえるとすれば、それは労働者が党の外で党に反対して別の統一を形成したときでなければならない。しかし、事実としてそのようなことは起こらなかったし、起こり得ない事情にある。

 

なぜならば、現状において、労働者を一つの集団として統一し、全国の労働者の力を結集できるのは、フランス共産党およびその指導下にある労働総同盟だけだからである。あるがままの労働者は、個々バラバラの砂のごとき大衆に過ぎないのであって、階級としての統一性は決して自然発生的に生み出されるものではない。

 

「惰性的な大衆」である労働者を活動的な集団(活動的な階級)にまで統一し結集する役割を現に果たしているのは、共産党および労働組合の活動家なのである。

「活動家の運動は、客体としての大衆におよぼされて、客体としての大衆を主体としてのプロレタリアートに変形する(注23)」

 

ここで言う主体としてのプロレタリアートというのは、共通の目的を目指して活動する集団としての労働者階級のことである。そして、サルトルによれば、このような共通の目的を目指す共同の実践は、党や組合によって指導される政治闘争という形で行われる。

 

共産党および労働組合こそが、大衆としての労働者を「共通の目的を目指して活動する集団としてのプロレタリアートへ」統一するのである。そして又、プロレタリアートという活動的集団は、ともすればバラバラな大衆へと転落する傾向があるからこそ、持続的指導機関としての党や組合が必要なのである。(※)

 

以上のようにサルトルは、当時の共産党が現実に果たしている役割を評価し、党を擁護した。

それでは、当時の彼は、ソ連に対してどのような態度をとったのであろうか。

以前のように、理想の社会主義の名においてソ連の現状を頭から否定するという態度は変化している。

 

かれは、社会主義を目指して行われた現実の運動としてロシア革命の歴史的意義をはっきりと認め、ソ連の現状がたとえ国家主義的に偏向したものであれ、ロシア革命の伝統は受け継がれているとして、現実の社会主義国であるソ連の意義を認めるのである。

 

それでは彼は、ソ連のスターリン主義に対してはどのような態度をとったのだろうか。ルフォールとの論争で、サルトルはほぼ次のように言っている。

 

スターリン主義は、権力が過度に集中した抑圧的な官僚主義であるが、これを理想の社会主義の名において頭から断罪するのは間違いである。まず、歴史にたちもどり、歴史に問いかけることによって、スターリン主義を生み出した様々な歴史的条件(現実的な状況)を把握し、そうすることでスターリン主義を克服していく方向へ歴史を動かしていくのでなければならない。

 

以上、1952〜55年当時におけるサルトルのソビエト連邦(およびフランス共産党)に対する態度を見てきた。理想の社会主義の名において断罪するという従来の態度を修正し、彼は共産党およびソ連が現実に果たしている意義を評価することで、反共主義者の攻撃に対してフランス共産党を擁護したのである。

 

このような、サルトルの共産党への接近は、それまでの仲間(非共産的左翼知識人)を彼からいっせいに離反する結果をもたらした。

しかしながら、「共産主義者と平和」においてサルトルが、抽象的に社会主義を論じるのではなく、議論を現実的状況、現実的実践に結び付けていく態度を取っていたことは明らかである。

この点において、1940年代と比べると、明らかに社会的歴史的状況・現実に対する認識が深化しているのである。

 

このようにサルトルは、社会主義社会を目指していくうえで、フランス共産党が現実に果たしている役割を評価したのであるが、無批判に共産党を支持したわけでは決してない。

「改良主義と物神」(注25)という論文によって彼は共産党の非民主的な官僚主義と偏狭な教条主義を批判した。

 

当時のフランス共産党はスターリン主義の影響もあって、自由な批判討論を拒否する非民主的な性格を持っていたのである。このようなスターリン主義的傾向に関して、サルトルと共産党幹部の見解は対立していた。

 

サルトルと共産党とのこの対立、分裂は1956年のハンガリー動乱におけるソ連の軍事介入をめぐって極限にまで達し、彼は再び共産党から距離を置くことになるのである。

 

(※)で示されるようなサルトルの主張自体にも、確かに「党が労働者大衆を指導し、大衆が党の権威を正当化する」という予定調和的な楽観主義がにじみ出ている。長谷川宏は『同時代人 サルトル』のなかで、「このようなサルトルの予定調和の論理は、ためらいなくスターリニズムと呼べるものであった、」と批判している。

 長谷川宏によれば、サルトル自身がそのような見方を乗り越えていくのは、ハンガリー動乱後「スターリンの亡霊」を書き、『弁証法的理性批判』を書いた段階である。

 

第5節 「スターリンの亡霊」

 

サルトルは1956年のハンガリー動乱において軍事介入したソ連と、それを称揚したフランス共産党を激しく非難した。その後、やや間をおいて書かれた「スターリンの亡霊」において彼は、ハンガリー事件およびそれを生み出した根本的な背景である「スターリン主義」について、徹底的な歴史的解明を行ったのである。

 

サルトルは、ハンガリーにおける反乱は、「国家権力によって抑圧された労働者のうっ積した不満のあらわれ」ととらえた。そして、反乱の当初それは単に政治に対する民主化を要求したものであったが、混乱と矛盾によって右傾化していったものと見ている。

 

 彼は、ソ連の軍事介入に対して、ハンガリー労働者への不信・猜疑心にもとづいた外交政策であると批判する。だが、いったいハンガリー国内での矛盾(抑圧的な政治)および外部への不信をもとにしたソ連の外交政策の根底にあるものは何か。それはスターリン主義である。

 

スターリン主義というのは、1930年前後よりスターリン統治下のソ連で生まれた「権力の過度に集中した国家体制」、「非民主的な権威主義、官僚主義」、「相互不信にもとづく独裁的な政治」のことである。ハンガリー内部の矛盾(抑圧的な政治体制)、不信を基にしたソ連の外交政策、これらの根底にあるのはスターリン主義なのである。

 

このようなスターリン主義はいかにして生まれたのか。サルトルはマルクス主義の「史的唯物論」をもとにして、ソ連における生産力の問題、および基礎的な社会構造の問題を考察しながらスターリン主義の歴史的解明を行うのである。

 

資本の「根源的蓄積」を実現し、生産力を高めていくためには大量の労働力が必要であり、多かれ少なかれ労働者の犠牲を必要とする。このことは初期の資本主義においても、初期の社会主義においても共通して言えることである。特に、革命直後のソ連は、資本主義国によって包囲され、武力侵入の絶えざる脅威にさらされており、経済封鎖にもかかわらず、一刻も早く工業化を進め、防備を固めなければならなかった。

 

ソ連の指導者たちは、急速な工業化を進めるためには計画化が不可欠なものと考え、それを進めていくために官僚制機構(専門家と技術者と行政官を含む)を整備した。だが、急速に資本を蓄積し、計画的な工業化を実現していくためには労働者の犠牲を必要とする。それはなぜか。

 

「一言で言えば、労働者は直接的利益を得ようとして消費物資の生産の発展を要求する。しかし、いま彼の住む社会は、まず重工業を持たなければ滅亡してしまうような段階にあるのだ(注26)。」

 

そのため、物資の不足にもかかわらず、消費財に対する労働者の直接的欲求は抑えられ、重工業の生産財に対する投資が行われる。「社会主義建設が遠い将来にもたらす利益は、労働者階級の直接の利益と対立した(注27)」のである。このような矛盾によって、政治的指導者・官僚と労働者大衆との間に溝ができ、相互の不信が生まれた。

 

第二の矛盾は、「労働者および政府」と農民との間の対立である。「労働者は、農産物価格の引き下げと強権による安定によってしか、賃金の不足を補うことはできない。(注28)」

つまり、労働者は農産物価格の引き下げを(政府に対して)要求することによってそれを高く売ろうとする農民と対立したのである。

そして又、人口の増加に応じて農業生産力の増大が必要となるのであるが、「農業の能率を高めるために農場の集団化を行おうとする政府」とそれに抵抗する農民とが対立する。

 

このように、ソビエト連邦では、(資本主義国による経済封鎖を受けながら)、工業および農業の生産力増大をおしすすめていくために、専門家と技術者と行政官を含む巨大な官僚制機構を整備したのである。しかし、この官僚機構は計画化をおし進めようとすればするほど直接の利益を目標とする大衆との溝を深めていくことになるのである。

 

以上が資本主義国によって包囲され、たえざる武力侵入の脅威にさらされていた革命後のソ連国内における矛盾である。「かくして外部からの危険と内部からの抵抗とが、指導者たちに、崩すことのできない統一を必要ならしめる(注29)。」

 

このような事情の下で社会主義建設を進めていくために独裁的な官僚制が強化され、強権によって人々を服従させる恐怖政治がしかれたのである。このような体制下では、少しでも中央の指導者に反対するものはスパイの疑いがかけられ弾圧される。かくして、相互不信にもとづく非人間的な関係が社会全体を支配した。

 

(さらに、欧米諸国に対する根底的な不信に基づくスターリン主義的な外交政策もこのような状況を背景に生まれたのである。)

 

以上のように、スターリン主義は様々な歴史的条件によって強いられてうまれた。「〈一国社会主義〉あるいはスターリン主義は、社会主義の偏向ではない。それは、環境によって強制された迂回なのである(注30)。」

 

それでは何が問題なのか。「スターリン主義(あるいは『一国社会主義』)が歴史的条件によって強いられた『必要悪』だった」ことを自覚せずに行われたこと(=ソ連が、第二次世界大戦後、歴史的条件の全く異なる東欧諸国に対して自国と同様の超工業化と官僚機構の整備を強制したこと)である。

 

ソ連のスターリン主義的な強圧的外交によって、東欧諸国の内部には「権力の過度に集中した非民主的な官僚政治」が成立させられ、それが後のハンガリー動乱にもつながっていく「根本的な問題」だったのである。

 

ところで、ソ連におけるスターリン主義成立の条件は、その後、変わっているのであろうか。サルトルによれば変わっている。第一に1949年、中国共産党が自力で社会主義国(中華人民共和国)を成立させたことである。「中国共産党の勝利は、ソ連を孤立状態からひきだし、その代わりに、すくなくとも一国との間に、真の社会主義的関係を打ち立てるべくソ連を促したのである(注31)。」

 

それまで、スターリン主義的な根底的不信を基礎にしていたソ連の外交は、はじめて信頼と寛容の上に打ち立てられることが可能になった。

 

第二にソ連国内の生産力が増大したことがある。「経済封鎖は、もはや恐れるに足りず、ソ連は世界第二の工業国にのしあがった(注32)。」このことによって、(重工業重視にもかかわらず)しだいに労働者大衆の生活水準は向上し、社会主義建設と大衆の直接的欲求との経済的矛盾は緩和された。

 

農民も機械化の恩恵を受け、次第に政府を支持するようになった。このように、政府(官僚組織)と大衆の間の溝は次第に埋められ、非人間的な相互不信の関係から脱して、信頼にもとづく民主的な関係を打ち立てることが可能になったのである。

 

以上のように「非スターリン化」の歴史的条件は整ってきた。だが、ハンガリー動乱におけるソ連の軍事介入は、ソ連の外交や政策がいまだにスターリン主義的な不信(労働者大衆への不信、他国への不信)に基づくものであることを示している。

 

「非スターリン化」の歴史的条件が整ってきたにもかかわらず、現在のソ連は「スターリンの亡霊」に支配されている。サルトルは、まさにそのことを非難するのである。

 

最後に彼は、ハンガリーへのソ連の軍事的介入を無批判に支持したフランス共産党(スターリン主義の影響で非民主的・官僚主義的性格を持っていたフランス共産党)に対して次のように呼びかける。

 

第一に、ソ連にひたすら追従していく従来の態度を改め、自由の精神を取り戻してソ連と対等にならなければならない。第二に、党内の非民主的で閉鎖的な性格を一掃し、共産党を民主的、開放的にしなければならない。共産党はこのような党内の改革を通じて社会党との交流もはかり、フランスにおける全左翼の統一を目指すべきである。

 

「われわれは、12年間もコミュニストとの論争を続けている。(・・・・・・)しかし、われわれの目的は常に変わらなかった。わが国を救いうる唯一のもの、すなわち左翼の統一を実現するため、われわれの微力を合わせること、これが目的である(注33)。」

 

以上のように、「スターリンの亡霊」におけるサルトルのソ連および共産党に対する批判が、「理想の社会主義の名において断罪する」といった1940年代に行ったような「非歴史的批判」から、いかに遠くへだたっているか、ということは明らかであろう。彼は深く歴史に問いかけ、歴史を解明することによってソ連および共産党を批判するのである。

 

特に注目すべきは、スターリン主義に対するサルトルの歴史的解明である。彼は、スターリン主義の歴史的成立を、マルクス主義の史的唯物論の立場に立って、「ソ連における生産力の発展、基礎的な社会構造」を土台にして解明したのである。

 

人間の歴史を、生産力、生産様式、社会構造といったものを土台にして解明していくという史的唯物論の真髄が、サルトルによって(教条主義的マルキストよりもはるかに)見事な形で活かされた、というべきであろう。

 

「スターリンの亡霊」によって明らかにわかることは、サルトルが社会的・歴史的状況に対する認識を深化させたということであり、マルクス主義の史的唯物論に対する理解を深化させたということである。

 

そして、社会的・歴史的状況に対する認識の深まり、「史的唯物論」に対する認識の深まりをもとにして、彼は『存在と無』における自らの哲学を乗り越え、あらたな哲学的大著『弁証法的理性批判』を世に出すのである。

 

『弁証法的理性批判』において彼は、実存主義とマルクス主義の統合を成しとげ、真に具体的な〈構造的・歴史的人間学〉を構築しようとしたのである。

 

(本文は以上)

 

 

 

〔補足1〕

 

 われわれは、サルトルにおけるアンガジュマンの深化の過程を、マルクス主義や共産党に対する彼の関わり方を中心にたどってきた。

 だが、サルトルの実際の政治活動は実に多方面にわたっている。特に彼は、平和運動を強力に行っているが、彼の平和運動には決して現状維持的要素はなく、欧米資本主義国からの、植民地の民族解放運動なしには真の平和はありえないことを強調する。

 フランス本国が直接かかわったアルジェリア戦争における植民地解放運動の断固たる支持(これは、サルトルの生命そのものを危険にさらす大きなリスクをともなっていたが・・・)、そして、ベトナムの戦争犯罪を裁く国際法廷(「ラッセル法廷」)を開催し、米国の戦争犯罪を全世界に向かって明らかにしていったことなどは有名である。

 それ以外にも彼は、ユダヤ人問題、フランコ治下の抵抗者の問題、米国の黒人問題、アンリ・マルタン事件など、あらゆる機会をとらえて「人間の抑圧」に対する告発を行っている。いずれにしても、歴史としての現代に全力で体当たりし、己の政治的・思想的態度をそのつど決定していく「現代の証人」としての彼の姿には、敬服すべきものがあるといえよう。

 

 〔補足2〕

 

 「スターリンの亡霊」においてサルトルは、ルフォールとの論争で主張した以下の立場に立っているといえる。

 「スターリン主義は、権力が過度に集中した抑圧的な官僚主義であるが、これを理想の社会主義の名において頭から断罪するのは間違いである。まず、歴史にたちもどり、歴史に問いかけることによって、スターリン主義を生み出した様々な歴史的条件(現実的な状況)を把握し、そうすることでスターリン主義を克服していく方向へ歴史を動かしていくのでなければならない。」

 

 つまり、この段階におけるサルトルは、既成社会主義国や共産党内部で「スターリン主義を克服していく」ことが可能であると考え、その方向へ自らを賭けたのである。しかしながら、フランスにおける学生反乱(5月革命)以後、彼は一見、アンガジュマンの第一段階であった「RDR(革命的民主連合)」結成当時における主張への〈先祖帰り〉と見えるような発言をしている。

 

 以下は『文化と革命』(竹内芳郎著)の「変貌するサルトル――1968年〈5月〉以後」からの引用である。

 

 「社会主義と自由の結合」、「完全な民主主義に依拠する社会主義の新しい概念」がめざされ、〈自由〉の概念こそ〈階級〉概念よりもさらに重要で根源的なものだとして、いたるところで自由が強調されるようになっている。

 

 また、ソ連など既成社会主義国に対しても「〈一国社会主義〉あるいはスターリン主義は、社会主義の偏向ではない。それは、環境によって強制された迂回なのである(注30)」といった第二段階以降に特徴的な思考は影をひそめ、逆に、「スターリン主義から出発して社会主義に到達することは不可能である」、「今日何かを救うことができるとすれば、それは(革命ないし社会主義建設を既成社会主義とは)別のやり方ではじめることによってのみ可能です」、と断定されるようになっている。

 

 さらにまた、「マルクス主義はそれを産んだ状況がまだ乗り超えられていないため、のり超えることのできない現代の哲学だ」とする(・・・)マルクス主義観もかなり姿を変えて、「今日必要なのは、マルクス主義を考慮に入れつつもこれを乗り超える思想、これを投げ棄て、再び拾い上げ、おのれのうちに含みこむ思想だ、と私は思う。これが、真の社会主義に到達するための条件なのだ」、と主張されるようになっている。(・・・)

 

 けれども、これを一見そう見えるとおり単なる〈先祖帰り〉とのみみることは、大きな誤りを犯すことになるだろう。彼が見ているものはやはり第二段階以降と同じく歴史としての現代の状況であって、たとえ内容的には第一段階にみられたとおなじ自由とか民主主義とかであっても、それらは(・・・)道徳的価値または形而上学的原理として持ち出されているのではなく、あくまで歴史のなかでの現代の状況からの切迫した要請として主張されているのだ。

 

 すなわち、高度資本主義社会の客観的構造自体の変貌にもとづいて、いまや革命の論点は変わった。かつてのような物質的〈欲求〉を核としたものから自己権力と自主管理の〈自由〉を中心としたものへ、〈所有〉の問題から〈権力〉の問題へ、〈窮乏化〉への抵抗から〈疎外〉の克服へ、といった具合に。

 

 このような革命を目指すあらたな社会主義社会にとって、ソ連をはじめとする既成の社会主義は、もはやモデルとしての意義を完全に失った(196頁〜198頁)引用は以上。

 

 なお、私自身は竹内芳郎の『国家と文明』こそが、上記の赤字にあたる思想であると考えている。(竹内は『資本論』や「史的唯物論」、さらには『弁証法的理性批判』で展開されている理論を徹底的に理解吸収した上で、それらを再構成し乗り越えていったと思われる。)

 

〔注〕

1、『シチュアシオン]』鈴木道彦訳 167頁

2、『シチュアシオンU』加藤周一、白井健三郎訳 10頁

3、    同                 

4、    同                231頁

5、    同                197頁

6、    同                 17頁

7、    同                 21頁

8、『シチュアシオンV』佐藤 訳       152頁

9、『聖ジュネ(下)』白井浩司、平井啓之訳   445頁

10、    同          

11、    同                446頁

12、『聖ジュネ(上)』              35頁

13、    同                 88頁

14、    同                 92頁

15、『ヒューマニズムとテロル』でメルロ=ポンティはブハーリンの裁判について詳細に分析しており、サルトルの考察はそれに依拠している。

16、『聖ジュネ(下)』             448頁

17、    同                449頁

18、    同                448頁

19、    同                456頁

20、    同                458頁

21、    同                457頁

22、『シチュアシオン\』鈴木道彦訳        81頁

23、『シチュアシオンU』白井健三郎訳      281頁

24、『シチュアシオンZ』白井健三郎訳 所載

25、    同            所載

26、    同                177頁

27、    同                177頁

28、    同                180頁

29、    同                183頁

30、    同                187頁

31、    同                200頁

32、    同                201頁

33、    同                241頁

 

 

 

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