生活指導運動の実践史

 

本稿(生活指導運動実践史)をまとめた理由は第一に、「生きづらさ」を抱えた少数者へのこだわりという視点(現代の「特別支援」や反貧困の視点を含む)から、生活指導運動と実践をあらためて振り返ることには意義があると考えたこと、第二に、ある研究者の提起に本気で応答したいと考えたことである。

「あちこちの団体が危機に陥っているのは、自分たちの実践史・研究史をつくりだせなかったことにあるのではないかと思います。歴史を全面的に消去しようとする嵐が吹き荒れる中では、頑固と言われても生活指導運動の実践の初志と一貫性が語られなければならないのではないですか。」

 

1、生きづらさを抱えた個人

 

 さて、基調発題本体でとりあげたいのは、生きづらさ(注1)を抱えた個人の存在と、そのような個人をも権利主体としていく教育のあり方である。それを探っていくうえで、生活指導運動の歴史と実践は多くの示唆をもたらすと考えている。その観点から、本稿では、多くの紙数を割いて生活指導運動の歴史と実践についてまとめたい。そして、基調本体では、そのような「実践の厚み」を踏まえ、「特別支援教育からはじめる学級・学校づくり」について、具体的実践を素材にしながら問題提起をしたい。

さて、過去から現在にかけて、どのような個人がどのような生きづらさを抱えているのだろうか?様々な場合が考えられるが、とりあえず、いくつかの問題(例えば児童虐待等)の背景として浮かび上がってきたてきた「貧困問題」について、その一端に触れておきたい。

日本において、経済状況が厳しい家庭の小中学生に学用品代や給食などを援助する「就学援助」の支給対象者の割合が、2012年度、全体の15.6%に上り過去最高を更新したことが文部科学省の調査で明らかになっている。また、国民生活基礎調査の結果、2012年度における「子どもの相対的貧困率」(世帯所得が中央値の50%未満の世帯で暮らす子どもの割合)は就学援助支給対象者とほぼ同率の16.3%(およそ6人に一人)でやはり過去最悪を更新した。さらに、これがひとり親家庭の貧困率になると実に54.6%、OECD諸国中最悪である。  

数字だけではとらえきれない現実について、NHKスペシャル『チャイルドプア』(注2)でも報道された。ディレクターの荒井直之によれば、子どもの貧困の実態は「川の岩陰で溺れた状態」である。そこまで行ってしまった現状から出発してそれを打開するためには、川の中に入って、本人と話をしながら「一つひとつ」必要なものを確認していくことが必要だという。さらに、番組では紹介されていないが、貧困・生活苦など「親世代の生きづらさ」は虐待などの形で子どもを直撃し、心に大きな傷を負う場合もすることもしばしばある。このように、「平和的な生存権(健康で文化的な生活を送る権利)」さえも実質的に保障されない中、「特別な支援」を切実に必要としている子どもたち、若者が少なくないのである。

 

注1:「生きづらさ」については(基調発題の冒頭でも 触れたが)、さしあたって、現実の中で体験する苦しみ、とりわけ「容易にのりこえられない深刻な苦しみやもがき」と定義しておきたい。

注2:番組は「2年間の車上生活で学習が遅れる中学生のさとしくん」、「学校や友達から孤立して生きる希望を失くした高校生のゆうこさん」、「経済的理由で母親を失ったショックで自立できない19歳のあつこさん」(登場人物は仮名)などの事例が放映されたが、『チャイルド・プア~社会を蝕む子どもの貧困~』(TOブックス)にその詳細がまとめられている。

 

2、生きづらさの背景と近年の運動の概観

 

1でふれたような「現実」の背景にあるものは何だろうか。多くの論者が指摘するように、このような「生きづらさ」の背景の一つとして、「構造改革」〔労働者派遣法対象業務の原則自由化(1999年)、製造業への解禁(2003年)、医療費被保険者本人3割負担(2003年)、後期高齢者医療制度(2008年)等の一連の改革〕がある。そのような政策も背景に、格差と貧困は大きく広がり、自殺者数は1998年から14年連続3万人を突破、20122013年も27千人台にのぼる。当然のことながら、このような厳しい状況は親・家庭を通じて子どもたちを直撃するのである。

ただ、このような意味での「生きづらさ」が1990年代に始まったのかといえば、そうとも言えない。例えば、『高校生活指導』75号に掲載された高生研第22回大会基調(1984年)には、「(その前年に)自殺者が25,000人を突破し戦後最高を記録した」、とある。第二次石油危機後の企業間競争や「臨調・行改路線」等を背景に生み出された「親世代の生きづらさ」が「子どもたちの生きづらさ」に直結していたことは確実だと思われる。

 さて、そのような状況のもとで、とりわけ深刻な状況に追い込まれるのは「社会的弱者」である。「窓際」に追い込まれやすい「不器用な」個人、厳しい社会情勢・家庭環境の中で傷つき苦しみを抱える個人、さらには発達障害も含めて障害のある個人は、自己受容がただでさえ困難であるにもかかわらず、ますます生きづらい状況に追い込まれていく。「生きづらさ」の行きつく先は湯浅誠の言う「自分自身からの排除(注1)である。

 以上、「社会的弱者」を追い込んでいく厳しい現実について見てきたが、それに対する反転の動きにも簡単に触れておきたい。

20067月にはNHKスペシャル「ワーキングプアT」が放映され、『朝日新聞』は「偽装請負、製造業で横行」「実質は派遣、簡単にクビ」という記事を一面で報じたが、これらをはじめとする様々な報道は、多くの人々が現状の問題を共有していくうえで大きな役割を果たした。
 そして、非正規労働者によるユニオンが各地で結成され、連合は07年に「非正規労働センター」を設立、全労連も08年に非正規雇用労働者全国センター」を発足させ、非正規労働者に対する働きかけ・取り組みを本格化。さらに、さまざまな団体・個人の連携のもと、「反貧困たすけあいネットワーク」結成され、活動を開始した。

他方、障害者福祉の分野でも、戦後、障害者団体や保護者・教育関係者によって様々な運動が展開されてきた。憲法第26条には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とある。この条文は、憲法成立の当初は「普通教育を受ける能力のないものについては保障されなくても仕方がない」という解釈が一般的であった。ところが、障害児への教育保障を求める運動を通して、「能力に応じて」という言葉を「能力の面で困難を抱える児童・生徒にはいっそう厚く支援し教育を保障する」という方向へ解釈するという「解釈改憲」が行われ、1979年の養護学校設立義務化を皮切りに、現在の特別支援教育の体制がつくられてきたのだという。(注2)

そしてこの間、高生研においても、第47回全国大会の問題別分科会で1、「反貧困」の高校教育(湯浅誠、竹内常一、井沼淳一郎)と3、「特別なニーズ」を持つ家族への支援(楠凡之、小野田正利)が同時進行で開かれたのが象徴的だが、機関誌『高校生活指導』においても180号(2009年春号)の特集:「“反貧困”の高校教育」や、181号(2009年夏号)の特集:「特別支援教育が提起するもの」など、まさに「生きづらさ」を抱える個人と社会を意識した問題提起・実践を行ってきたのである。

 

注1:『反貧困』(岩波新書)61頁

 自分自身からの排除とは「自分の尊厳を守れずに、自分を大切に思えない状態」、「『生きていても、どうせいいことは何一つない』という心理状態」、「何のために生き抜くのか、それに何の意味があるのか、何のために働くのか、そこにどんな意義があるのか、そうした『あたりまえ』のことが見えなくなってしまう状態。」

注2:この事情については『自治体から創る特別支援教育』渡辺昭男・新井英靖編著(クリエイツかもがわ)に詳しい。

 

3、生活指導運動の初心

 

2、では「生きづらさ」の現実に向き合う運動、近年の高生研の取り組みに触れてきたが、このような視点・取り組みは近年に固有のものなのだろうか。決してそうではない。実は、そのような「生きづらさ」に向き合う営みこそ「生活指導運動の初心」ではないのか。私は、そのような初心に学びつつ理論と実践を積み上げていくところにこそ生活指導運動の前進があるのではないか、と考える。『生活指導辞典』※は、そのような初心も含め、丁寧にまとめられているところにも大きな意義があると思われるが、同書の記述も参考にしながら「生活指導運動の初心」に触れておきたい。

生活指導とは「子どもたちが自分たちの生活に取り組み、それをよりよいものに発展させていく過程に参加・関与していく」営み(『生活指導辞典』)だが、多くの論者が指摘するように「生活指導運動」の源流は「生活綴方教育」である。この「綴方教育」は、生活を綴ることで、自分の生活をありのままに見つめるよう促し、そこから見出せる問題を学級の皆で共有し、綴方をもとにした集団討議=「生活勉強」によって深めていくというものだった。

そして、しばしばその「生活勉強」の主題となったもの、初期の生活指導運動が、その歴史の中で格闘してきたものは、まさに貧困という現実だった。 

「学区制をとった戦前の日本の小学校には、貧富の差をはじめ、さまざまな個性や生活上の課題をもった子どもが入学してきた。」

「例えば(・・・)坂本龍之輔は、当時の小学校教育にあっては異色の『貧民小学校』としての運営を行い、比較的多かった軽度の知的発達障害の子どもたちの学習方法の開発や基本的生活習慣の改善を子ども個人はもとより、授業料免除や教科書や学用品の貸与など世帯単位で指導・支援していった。」(注1)

(貧困状態にある子どもや、軽度の知的障害のある子どもの現実に向き合う坂本の教育実践には、「教育と福祉の出会い」の萌芽が見出せるであろう。:引用者)

「坂本に限らず、戦前の生活指導の源流に位置づけられる峰地光重や(・・・)生活綴方教師たちに程度の差はあれ共通する視点は(・・・)子どもたちが、多くの場合貧しさゆえに自ら矮小化した自己像をもって社会に出ていくことへのアンチテーゼとして、まず自己の生活において自立し、同じような状況の人々への共感と共同の意思を創り出すことの重要性を認識していた点にある。それは、言い換えれば、『生活そのものが人間を自立させ、世界を開く』という視点である。この視点こそが、こんにちの生活指導を根底で支える思想的原点の一つに他ならない。」(注2)

また、戦後になって注目を浴びた『山びこ学校』の実践(注3)。無着成恭は子どもたちの綴方をもとに「百姓はなぜ割損なのか」、「なぜ貧しさから抜けられないのか」といったテーマで調査や学級討議を組織しているが、このような子どもたちの議論を通して彼は、「新しい時代の息吹を感じ、子どもたちの、(・・・)貧乏を運命とあきらめる道徳にガンと反抗して貧乏を乗り超えていく道徳へと移りつつある勢いに圧倒されるのでした」と述べている。

以上のように、生活指導運動の初心が子どもたちの「生きづらさ」に連帯して「貧困等の現実」と向き合うものであったことを示す実例は枚挙にいとまがない。戦前、教育が国家主義一色に染まっていく時代の流れに抗しつつ、このような具体的生活にこだわりぬく実践・運動が展開されたことは、現代の我々に対しても多くの示唆と励ましをもたらすものではないだろうか。(注4)

※:『生活指導辞典』(エイデル研究所)。同書は生活指導・対人援助の原点を丁寧に掘り起こしつつ、過去から現在にかけての実践と研究を踏まえて様々なテーマに関する説明や見解がしっかりまとめられている。執筆者68名、参照されている文献の豊富さと時間的広がり、視点の鋭さなど考えあわせると、注目すべき一冊である。

 

注1:『生活指導辞典』 62頁 「貧困問題と生活指導の思想」 注2:同  

注3:『山びこ学校』(岩波文庫)あとがき

注4:「生活綴方教育」の初心を確認することが、現代のわれわれにとってどのような意味を持つのか疑問視する向きもあるかもしれない。確かに、現代において、全く別の状況の中で活用しうるかどうかが問題だ、という見方もできよう。それについて言うと私自身は、「綴方教育の初志は受け継ぎうるものであり、その発想や方法について応用・活用することが十分可能だ」、と考えている。

例えば、(本人にその意図がなかったとしても)1990年代に吉田和子が展開した「権利としての学習」は「綴方教育」の真髄を受け継いでいるかに思われる。吉田は、無自覚であったり、見えなくさせられてしまっている現実生活の事実の共有化を強調する。「生徒たちが経験している生活を語らせ」、「自分の生活現実を見据え、それを現代社会の問題と結びつけてとらえなおすちから」を獲得できるよう授業を創造していくのである。具体的には、家族について語りつつ少数者の側から現実を問い直す「家族への自由」の授業実践や、労動基準法「残業時間の世界から何が見えるか」(ここでは保護者の労働についても語られる)などに取り組んでいる。

これに関しては、機関誌191号掲載の「“授業実践”と“生活指導実践”を統合する吉田基調」を参照されたい。

 

4、戦後の生活指導運動に影響を与えた「集団主義教育」(注1)

 

さらに、戦後の生活指導運動が大きな影響を受けた、マカレンコの『教育詩』に登場する少年たちは、すべて法律違反の経験者として施設(コローニャ)に送られてきた個人である。マカレンコはその実践の中で、彼らが施設に送られてきた過去については一切問題にしていないが、そのような過去の中に「そうなってしまった何らかの背景」があったことは疑いない。『教育詩』で描かれているのは、「生きづらさ」や様々な問題を抱えた少年たちが「民主的な集団の自己教育力」を通して成長していく実践だったことにも注目すべきであろう。

そして、「喜びを組織する遊びと文化と自治活動」を統一的に発展させていった彼の「集団主義教育」は現代においてもしっかり受け継いでいけるものであると考える。(注2)

マカレンコの「集団主義教育」という言葉は「高生研の指標」からもはるか昔に消えてしまったが、大切なことは、言葉にまとわりつく悪い印象を払拭するためになし崩し的に用語を消し去ることではなく、その時代において大きな影響を与えた理由・歴史的な意義を確認しながら前進していくことであると思われる。

注1:ロシア革命後のウクライナにおいて未成年の法律違反者を収容した労働・自治の少年施設でかれらの再教育に取り組んだマカレンコが理論化した教育方法。彼の著書『教育詩』の実践内容については注2にゆずる。

注2:『教育詩』(拙文を抜粋して内容紹介としたいが、あえて個人的体験に触れておくと、『教育詩』は「教員を辞めるか、それとも続けるか」、真剣に思い悩んだ私自身のその後の人生を左右するほど決定的な影響を受けた著書であった。

 

〔以下抜粋〕

彼らは農作業、演劇などを含むさまざまな「部隊ごとの活動」や、施設内での問題をテーマに「指揮官会議(ソビエト)」、そして、その上位の決定機関である「総会」で徹底議論しながら集団的実践をすすめていく。(・・・)

さて、マカレンコにとっても一番苦しい時期、コローニャは「笑いも喜びもない」ものにおちこんだという時期に、彼は何と軍事教練をはじめる。

「コロニストはこういうことには乗気になった。作業を終えてから毎日一時間か二時間ばかり、広い正方形の庭で全コローニャをあげて教練をおこなった。(…)子どもたちはこの遊びが大好きになり、まもなくわれわれの手にほんものの銃が与えられた。」@

意外にもこの「軍事教練」が発展して、コローニャの全メンバーが総会民主主義にもとづく集団を形成していくのである。実際、メンバー(コロニスト)はいくつもの「部隊」に編成され、部隊ごとに任命された指揮官が指揮官会議で農作業や演劇活動等の方針を議論・提起していく。各部隊の指揮官は一切特権を与えられないが、その部隊の活動については全面的な責任を持つ、という体制がつくられ動いていくのである。さらに、この集団は必要に応じて「混成部隊」といわれる臨時の作業部隊を次々に形成し、それが重要な役割を果たす。このような一定期間内の臨時作業の中で、「常設部隊」の指揮官はしばしば「混成部隊」の指揮官の指導を受けることになるのである。(・・・)(まさに対等平等でダイナミックな集団が形成された)。

しかしながら、組織はあっても動かない(動きを止めてしまう)集団は山ほど存在する。なぜ、コローニャという集団はこれほどまでに生き生きと活動し、個人を成長させることができたのか。(・・・)

コローニャが集団として生き生きと活動し続けたのは、そこに「喜びと展望」があったからである。マカレンによれば「けっこうな食事からも、サーカス見物からも、池の掃除からもはじめられる」が、コロニストたちが最高の「展望」である人格の価値に目を開いた大きな機会は、「ゴーリキーの夕べ」だったという。

「わたしはゴーリキーの生活と創作について子どもたちに語った。(…)数人の子どもが『少年時代』の一説を読んだ。」A「マクシム・ゴーリキーの生活はまるで私たちの生活の一部になった。彼の物語の部分部分は(…)人間の価値の尺度となった。」B

(…)「ゴーリキーの夕べ」は、人格の価値に目を開かせただけでなく、コローニャにおける集団活動の土台である「文化と遊び」を創り出していたとも考えられるのである。(「夕べ」ではゴーリキーの作品と同時に『トム・ソーヤーの冒険』のような冒険物語も朗読されていた。)

そして、そもそも、集団的活動の出発点になった軍事教練自体が「遊び」だったことにも注目すべきだろう。(・・・)以上のように、当初、展望の見えない現実に苦しみ悩み続けたマカレンコは、コロニストとともにそれを突き抜け、「喜びを組織する遊びと文化と自治活動」を統一的に発展させていく。活動的・前進的になればなるほど、一人ひとりが個性的に成長していく素晴らしい集団を形成していくのである。

〔@〜Bは『教育詩』からの引用〕

 

5、学園民主化闘争を経て

 

故鞠川了諦は高生研運動の原初の時代(1960年代)、全国で展開された学園民主化闘争が「一定の革新的な思想(意識)に動機づけられ、価値づけられた行動」を重視していたこと、その意味では〈意識→行動〉という枠組みが支配的であったことに注目する。そして、これを批判的に学びつつ提起された「訓練論的生活指導」が〈行動→意識〉の(具体的行動を通して意識が形成されるという)回路に注目し、「実践の総体から(生徒相互のかかわりを中心とした)行動を方法的モメント(契機)として抽出し、行動訓練の形式を自治的集団をつくり民主主義を教える系統的な方法として提起した」ことを指摘する。(注)

さらに、発足当初、主としてホームルームを舞台に展開されていた高生研の教育実践が、全校生徒集団としての生徒会をも実践の視野に置くこととなった点に注目するのである。

これ以降「生活指導」実践はHR・学年・全校集団づくりを有機的に関連させながら、さまざまな注目すべき実践を生み出した。そして、それは同時に受験競争が激化するなかで増大した「問題行動」や「不登校」などに象徴される子どもたちの「生きづらさ」を克服していく視点を確実に含んでいたのである。

さらに、高生研第21回大会基調は「人格的自立と歴史選択の可能性」を遠大な展望として掲げたが、これは「よりよい時代・社会を創造するために現実に批判的に介入し、歴史に参加していく力」と人格的自立を不可分のものとして追求していたことを意味している。「高い自殺率」や「貧困」、「環境破壊」など、まさに現代に続くさまざまな問題の克服を、実践や運動の射程に入れていたといえる。

:『高校生活指導』100号の鞠川論文( )内は引用者

 

6、生活指導と政治教育 

 

 さて、ここで生活指導と生徒指導について確認しておきたい。

「生活指導は子どもたちがみずから学校や学級の現状を変革する取り組みをとおして人間的に成長するよう促すことをねらいとするのに対し、生徒指導は個々の子どもの問題の個別的な解決をとおして現状への適応を促すことをねらいとする傾向がある(・・・)。」(注1)

ここでは生活指導が「個人的な適応」ではなく「集団を変革し、社会環境を変革する方向性」を持っていることに注目しておきたい。本基調発題後半の中心的な主題となる「特別支援教育と学級・学校づくり」を進めていくためにもこの視点は重要であろう。そして、「集団を変革し、社会環境を変革する方向性」を大切にするからこそ、生活指導運動は政治教育を重視してきたのである。 

「政治は公共善(全ての個人にとっての善:引用者)を求める集団的な意思決定の営みであり、また、そうした集団的な意思決定に関与する諸個人の社会的営為(実践)である。したがって、政治教育の目的は、公共善を主体的に判断し、その公共善理解を集団の意思決定に反映させようとする主権者(政治的市民)を育てることである。(・・・)他方、生活指導は、民主的で共同的な生活(社会関係)を自らの必要と要求に基づいて作り出そうとする個人を励まし、そのプロセスを通じて、社会の民主的な形成者となる自律した人間を育てる営みである。実際の指導過程は、@生活現実のリアルな把握、A対話・討論・討議を通しての価値論争(=公共善の探求)、B民主的で共同的な諸集団の形成(集団づくり)を重視する(・・・)」(注2)

まさに、政治と政治教育・生活指導と集団づくりの関係を明確に指摘したものではないだろうか。このような原点は、しっかり確認(再確認)していく必要があると思われる。

 

注1:『生活指導辞典』74頁 生活指導と生徒指導

注2:『生活指導辞典』72頁 生活指導と道徳教育、政治教育

 

7、集団づくりと統一性・異質性

 

 「6、生活指導と政治教育」の最後の引用=「民主的で共同的な諸集団の形成(集団づくり)を重視する」に関しては、次のような疑問が生じうる。「集団の統一性を追求するあまり、個人に対して集団が抑圧的に働くことはないのか」、「『生きづらさ』を抱えた個人や、集団を苦手とする個人を軽視することにならないか」、といった疑問である。しかしながら、原理的には「様々な個人が存在する中、社会や集団による『不当な圧力』を最小限(またはゼロ)にしていくためにこそ、『公共善(=共生の作法)を求める集団的な意思決定の営み』が大切なのだ、」と言わなければならない。人間が社会生活を送るに際しては「ルールや法」が必要であり、それを全てのメンバーにとって意味あるもの(少数者も尊重される、全員にとって「よいもの」)にしていくためにこそ討議と合意が必要なのだ。 

 現実の「集団づくり」は比較的取り組みやすい形で(例えば「文化祭クラス催し」に関する議論・決定・実行や「球技大会に向けての取り組み」、「全校集団づくりとしての生徒会活動」などを通して)行われてきた。ここでは、1980年代の軌保学峰実践(「教室を水族館にする取り組み」注1)について、(実践の流れ全体は割愛するが、)文化祭の原案作成に関わる部分だけ紹介しておきたい。

文化祭クラス企画を考える班討議で「学校の歴史」、「酒・たばこ・シンナー」という案を出した生徒たちに対して軌保は、「しっかり真面目に考えて議論したことは素晴らしいことだけど、それで本当に面白いの?」という問いかけをする。そして、この学級討議を受けて開いた班長会では、軌保が提示した「教室中を水族館にしよう」という原案を練り上げて、上記二案とともに学級に提出していくことになる。

この際、指導上の留意点として軌保が意識していたのは、「教室中を水族館にしよう」というだけの原案では、学級に出しても討議にならない、という点である。それでは、最終的に班長会はどのような原案を作成したのだろうか。「3週間で生き物400匹を飾る水族館をつくりたい。フナでもコイでもエビでも何でもいいので、自分の身の回りにいる(水に住む)生き物を1人10匹は最低集めましょう」という原案である。確かにこれは、一つの組織、仕事が明確で、実現できるかどうか具体的に討議できる内容になっている。(注)

ここでは、このような取り組みが集団内の「異質性」を浮かび上がらせる側面をもっていることを強調したい。現実に、集団の中には「魚に触ることができない個人」や「運動部の強化合宿で活動に参加できない個人」等、様々な個人が存在する。だが、「教室中を水族館にしよう」というだけの原案であれば、そのような個人は発言する必要がない。「自分は活動に関わらないでおこう」と心の中で思っていればすむ。

しかしながら、活動内容・役割の明確な「組織原案」が学級に提示された場合、そのような個人は発言しないわけにはいかなくなる。軌保は「嫌な者が嫌と言えるような討議をすること」の重要性を強調するが、その言葉の通り、原則的な「集団づくり」実践は、集団内に「色々な個人がいること」(集団内の異質性)を浮かび上がらせる取り組みなのである。

また、球技大会に向けての(別の)実践において軌保は、「現在走るどころか歩くこともできない個人がどのような形で球技大会に参加できるのか」、生徒に問いかけ学級内で一緒に考えていくような取り組みも指導している。このような「学級内に様々な個人がいること」を意識した集団づくりは、基調の主題である「特別支援からはじめる学級・学校づくり」に関しても重要な意味を持つのではないだろうか。

 

:このような原案を軌保は「組織原案」と呼んでいる。なお、軌保の学級で企画・実行された「教室を水族館にする取り組み」は、旧『月刊HR』に実践記録が掲載されているが、上記の要約・紹介は、鳥取高生研大会における軌保の講演記録に拠るものである。

 

8、集団づくりと個人指導

 

 1980年代の実践(軌保実践のごく一部)を紹介したが、確かに、いつでも集団と個人との関係は予定調和的にうまくいくものではない。現実の集団(例えばルールが職員集団によって既に決められている学校)においては、民主的・集団的な「公共善」の追求が理想的に行われるわけではないため、集団による個人への抑圧は生じうる。現実の学級においても「いじめ」などの形で集団内の個人への圧力がしばしば生じる。それでは高生研はそのような「社会的弱者」、「傷ついた個人」を支援し権利主体として尊厳を回復するような実践に取り組んでいないのだろうか。決してそうではない。

 ここでは、第22回大会基調の中で注目された実践を紹介しておきたい。その学級集団に属している「弱者」(生きづらさを抱えた生徒)への個人指導と集団指導を展開した実践である。かなり分量があるが、以下に引用しておきたい。

 秋の修学旅行の間、いじめの対象にされたK子が登校拒否状態になったのを登校させるまでにいたる指導過程をまとめたものである。そこでまず担任は電話・訪問等による個人指導を展開する。同時に彼ははかばかしくないK子の状態も含めて、その都度クラス全員に報告する。はじめはクラスの生徒たちは「無関心でさりげない」様子だったが、何回かするうちに静かに(集中して)報告を聞くようになる。その頃から私的なグループがK子に関わることを申し出、これに女子のリーダー(班長、副班長)が加わるようになる。

その間にそれらの私的な勢力は、K子をそのように追い込んだクラスが、以前と変わらないものではK子をもどす意味がないことを発見する。そこでK子へのさまざまなはたらきかけを、それまで傍観者となっていた男子全員を含めたクラス全体の取り組みにするよう総会に提起した。かなりの討議のすえの決定は、男子のかかわりを積極的にした。この間にK子は前進〜後退のもがきを繰り返しつつ、ついに前進を画していく。ここでの個人指導の徹底は、クラスの表情を変え、総会の決定を生み、そこで集団指導に明確に転化する。

この指導過程におけるK子の内面の変化を、担任佐藤は次のようにまとめていく。〜「@修学旅行でみんなに嫌われている、自分が見ても嫌な自分の性格を思い知る。Aそんな自分を、学校や登校途中で他人にさらすことへの恐怖、集団生活への自信喪失。B学校へ行きたい、行くべきだ、行かなくてはならないと考える自分と、学校集団に自信を喪失し、恐怖におびえる自分とのたたかい。Cそんな状態の自分に親や教師、大人、友人は、分かり切った道理を説く。ますます弱い自分に失望。D教科書を焼き、親に抵抗することで、弱くはない自分を発見。E他人にどう思われようが私は私、かけがえのない自分を大切にしよう」〜まさにひとりの生徒の人格的自立の道行きを物語る。(注1)

上に紹介した実践例なども、「社会的弱者」、「傷ついた個人」を支援し権利主体として尊厳を回復する実践であると思われる。この実践は、第22回大会基調のなかで「(担任による)個人指導の徹底は、クラスの表情を変え、総会の決定を生み、そこで集団指導に明確に転化する、( )は引用者」とあるように、個人指導と集団づくりを結びつけた実践として取り上げられていた。確かに、K子のような生きづらさを抱えた子どもの「人格的自立」を、そしてK子と周囲の子どもたちとの相互変革・相互承認を実現していくためには、上記のような個人指導と集団づくりの組み合わせが有効だと考えられる。(注2)

そしてまた、いじめの対象となる「学級内の弱者」(そのような「生きづらさ」を抱えた個人)が周囲のクラスメイトに支えられながら、それまで何も言えなかった自分を乗り越え、「いじめられた体験」を訴えることを通して、「学級の力の組換え」を実現していくという「集団づくり実践」もこれまでいくつも報告されてきたのである。(注3)

学級内でいじめ・排除の対象になりやすい弱者を、「生きづらさを抱えた個人」を支援し、権利主体として尊厳を回復していく実践というのは、まさに生活指導運動が目指し続けてきたものだと言えるのではないだろうか。

 

注1:『高校生活指導』75号 第22回大会基調(140頁)

注2高生研第37回大会基調「いじめから始まった」(土居和江)なども、学級における議論を通して集団内の人間関係を変革し、相互承認を生み出していくという優れた取り組みである。

注3:例えば、『高校生活指導』75号で報告された「自分の中にある恐ろしいものは何か!」(軌保学峰)など。実践分析で指摘されたいくつかの問題点にもかかわらず、同実践は、いじめられていた個人が学級全員の前で発言していること、それを通して対等平等な関係へ大きく前進していることが注目に値する。

 

9、「生きづらさ」の葛藤をどう考えるか?  

 

さて、重要な問題提起をいくつも見出せる第22回大会基調であるが、「T,指導の出発点〜生徒の存在把握〜」の冒頭で四つの問題状況〔(1)非行・・・、(2)怠・退学・・・、(3)登校拒否・・・、(4)親たちの自殺・・・等〕に触れたのち、2 問題状況と主体(個)のとらえ方として、(1)否定的様相の下に働く肯定的なもの、(2)自己脱皮への求めとしての〈もがき〉を指摘する。(注1)

ここで述べられている「否定的様相の下に働く肯定的なもの」と、「もがき」に関して、基調提案者の鞠川は、「肯定的なもの=成長しようとする力」、「否定的様相をもたらすもの=それをおしひしぐ力」ととらえ、だからこそ〈もがき〉が生まれる、という整理をしているが(注2)、とらえ方の適切さについては若干疑問がある。確かに様々な厳しい現実の中で多くの個人が〈もがき〉苦しんでいる状況はまちがいなく存在する。しかし、上記の鞠川の整理については、あえて以下のように言い直したい。(特に、今次基調発題のテーマに引きつけて)言い直すとすれば、まず、否定的様相をもたらすものは、貧困・差別・生徒同士のミクロな権力関係をはじめ人間を「生きづらさ」へ、さらには「自分自身からの排除」へと向かわせていく様々な圧力や広義の暴力である。確かに、そこへ投げ込まれた個人が葛藤する理由は「肯定的なもの=成長しようとする力」があるからだ、という見方もできるが、むしろ「自分の尊厳を守れずに、自分を大切に思えない状態(=自分自身から排除された状態)」にあってもなお、自分自身を価値あるものとして受け入れたいという切なる願いを持っているからこそ、人間は激しく葛藤する、というべきではないだろうか。

そのように考えると、上記の〈もがき〉は、まさに現実の「生きづらさ」を抱えた個人が、それにもかかわらず自分自身を受け入れ肯定しようとして直面する葛藤であるとも言える。なお、第22回大会基調には例示されていないが、「障害、とりわけ周りからは明確に分かりにくい発達障害など」のある個人が直面する葛藤も、似かよった〈もがき〉=「生きづらさ」の中で自分自身を価値あるものとして肯定したいという〈もがき〉だと言えるのではないだろうか。

 

注1:『高校生活指導』75号 第22回大会基調(120〜123頁)

注2:『高校生活指導』75号  同 上  (122頁)

 

10、「学校差別」と「久保田実践」 

 

もちろん、そのように自己を肯定したいと切に願いながらも、「生きづらく」困難な状況の中で〈もがく〉場合というのは様々にありうる。ここでは、久保田武嗣(注1)の実践にでてくるS子の象徴的な言葉を紹介したい。

「私にとって城南高校とは、何だったのかを考えてみよう。中学時代から、それは、ひじょうに、印象の悪い学校であった。エンジ色のネクタイをしている人を見ると、『ねえ、あれ、城南高校』と言った具合に偏見の目で見ていたのだ。人間を人間として見ていなかったのだ。しかし、私は希望していた学校に落ち、考えてもみなかったこの学校に入ることになり、一挙に、その立場が逆転してしまった。その立場に立って、はじめて、その悲しみを知ったのである。高校が人生のすべてであると思い絶望して、この城南高校に通っていた。エンジ色のネクタイが嫌で、嫌で、何度、取って帰ったか分からない。どうして、こんなに目立つ色をしているのだろう。黒とか柑なら目立たないのに。この色は、世間に私は馬鹿ですと言っているようなものだ」。  


 担任の久保田が、それまでの取り組みを振り返りながら色々S子と話をした後で、彼女が班ノートに書いた文章を手直ししたもの、それが卒業文集に残された次の文章である。 
 「私にとって城南高校とは、心を鍛えてくれた場所だろうか。悲しみの中から人間とは何であるかを教えてくれた場所だろうか。何事も相手の立場に立って考えなければ、真の気持ちは分からないこと。友だちの大切さ、努力を惜しまずに前進するすばらしさ。相手を思う優しさ。プラス強さ。人間は1人の力で生きているのではないこと。人間は成績などで計りしれないこと。この学校であればこそ学べたことだ。もし、ストレートに公立高校に入っていたら、どんな人間になっていただろう。人間とは何なのかを得たことによって、城南高校である悲しみが消えたのだ。この学校を誇りに思って生きていけるだろう。そう、私にとって城南高校とは、人間のすばらしさを教えてくれ、心の翼をくれた場所。この翼を大きく、果てしなく広げていきたい。はばたく鳥のように」(注2)。S子は、この言葉を残して卒業していったのだという。 

 

以上のように、S子は、自分自身の中で「他者に語れないままわだかまっていた体験」を言葉にすると同時に、「城南高校での自分自身と本気で向き合うこと」「そこで得られた体験の意味を真剣に振り返ること」で自分にとって「城南高校は心の翼をくれた場所」「この学校を誇りに思って生きていけるだろう」という言葉を発している。


 S子が「自らを振り返り」「言葉を発することができた」背景にはS子自身が久保田とかかわりながらつかみ取った「総合的な力」「体験そのものに培われた力」があったと考えられる。
 S子が「言葉」を発していくきっかけは、「三年時の進路指導」だった、という。久保田がS子と進路の話をしたところ、どうも話がおかしい。そこで思い切って「なぜ大学に行きたいんだ」と聞いたところ「城南高校を最終学歴から消したい」という本音を引き出す。久保田は「そのような考えを乗り越えるためにこそ、いままでさまざまなことに取り組み、価値のある体験をしてきたのではかったのか」とS子に迫る。そして、さまざまな話をした後で、S子自身も高校生活を本気で振り返りつつ発した言葉が、上記の言葉だったのだ。(注3)このような言葉を、つむぎだすことができた要因としては次のことが考えられる。 

 

1、久保田がS子と真剣に向き合い、「自分自身の体験を振り返り、その価値を確認していくよう」強く迫ったこと。(S子と向き合い「対決」を行ったこと。)
2、S子自身が「赤点学級」(注4)や「学園祭」(注5)など(学級活動や行事)を通して新たな人間関係をつくり、仲間への見方を変えることができたことも含め「その価値を確信できるような豊かな体験」を得ていたこと、である。

 

問題行動を起こさないS子も見えないところではげしくもがいていたわけであるが、「指導の難しい子どもたち」の多くは「いらいらする自分」「傷つき情けないと思っている自分」と、「誇りを持って生きたいと思っているもうひとりの自分」との間で激しくもがき、葛藤しているように思われる。そのような個人と向き合いながら久保田が行った一種の「対決」や、「豊かな体験」を得るための「舞台」を創っていく取り組みは、今もなお、われわれに多くの示唆を与えてくれるのではないだろうか。

 

注1:勤務校は上田西高校〔旧城南高校〕であるが、その長期にわたる学校づくり実践は高生研第38回大会紀要「私学における学校づくりと生活指導運動」で報告されている)

注2:久保田武嗣 講演記録(大阪私教連) 注3も同様

注4:赤点学級は久保田が学級に呼びかけ組織した朝の学習会。勉強ができるS子は「小先生」になって数学を1週間教えるが、その取り組みを通して「ただのガリ勉」だと思われていたS子に対する周りの見方が変わり、「いつも問題を起こす落第候補生」に対するS子の見方も大きく変わっていく。
注5:学園祭の一般公開決定を受けて城南高校生徒会は3000人の来校を目標とする。その中で久保田の学級は1割(300人)を引き受けようと決議し、竹で作った玩具や作り方を展示することで子どもを集めようと取り組んだ結果、532人の来場者を得て感激する。
 

11、18歳を市民に

 

さて、「私学における学校づくりと生活指導運動」の中で久保田は「権利としての自治」を発展させる観点からは次の(…)実践をあげたい、として「禁止踏み切りを通学路にかえる」取り組みを紹介する。

 

正式には駅から学校まで15分かかる通学路。禁止されている近道を利用すると8分という現実。幅90センチの作業道で、加えてオイルターミナルの入れ替え線が交差する禁止踏み切り危険度が高いためJR関係(当時)から厳重に禁止され続けてきた踏み切り。しかし、観光により通行が許されている地元の人びとの存在と便利さから、毎朝多くの生徒が通行し、駅とのトラブルが絶えない。「西高生通るべからず」の駅側の立看板に対して生徒会は全校生をまとめ、踏み切り通行の自主的ルールを確立し、それを条件に駅側と交渉を重ねた。そして、自分たちが踏み切り指導を徹底させることを条件にJR側に踏み切り通過を認めさせ、さらに学校・PTAと共に交渉を発展させて、将来の“跨線橋”建設と駅前開発、通学路整備の展望までつなげた取り組みは、全校集団が「世界に向かい世界を変えた」自治本来の闘いとして重要であった。


 この取り組みは現在さらに発展し、生徒会は「D−プロジェクト」(ドリーム・ステーション・パーク・プロジェクト)(注1)を発足させ、上田市長との交渉、地元自治会との共同など多面的に活動を組織した。そして、自由横断道路と駅前広場を早期に完成させること、その広場づくり活動に上田西高生の意志を反映させる権利を要求し、学校ぐるみ地域づくりに参加していく活動に広げつつある。(注2)

 

さて、上記報告の最後に出てきた「D−プロジェクト」(ドリーム・ステーション・パーク・プロジェクト)は素晴らしい駅前公園の完成、高校生と地域住民が公園を用いて協同で創り上げるイベントの継続、という形で具体化される。注目されるのは、このような取り組みを通して「社会は変えられる」と確信を持って発言する高校生が登場することである。まさに、「18歳を市民にする」すぐれた実践だと言えるが、「民主的で共同的な生活(社会関係)を自らの必要と要求に基づいてつくり出そうとする個人を励まし、そのプロセスを通じて、社会の民主的な形成者となる自律した人間を育てる営み」(注3)、という意味における「生活指導」、「集団づくり」の典型でもある。

 

ただ、この実践で特に私が強調したいのは、このような事業によって不利益を受ける少数者を視野に入れた取り組みである。(注4)上田西高生の「自由通路(跨線橋)をつくるなら(従来の)踏み切りは閉鎖する」、これがしなの鉄道の原則だったという。自由通路は上田西高生にとっては確かに便利だが、踏み切り閉鎖によって、少数ではあっても不便になる地元の既得権を持つ人々(例えば、足の不自由な人たちや、毎日一輪車を押して踏切を渡っている人たち)が存在するのである。そのような現実にどう対応するのがいいのか、真剣に議論した生徒たちは、「エレベーターを設置して跨線橋に上り下りできる施設をつくる」ことを提案することになる。(注4)

 

このような討議を通じて生徒たちは、「自分たちにとっての利益」をこえて、地域に住む「少数者」も含めた「公共善」とは何か、(真の「公共性」とは何か)、を追求していくことになるのである。「政治教育の目的は、公共善を主体的に判断し、その公共善理解を集団の意思決定に反映させようとする主権者(政治的市民)を育てることである」(注6)とすれば、まさに素晴らしい政治教育の実践だといえよう。それと同時に、この実践を主導した久保田が、「原則的な学級集団づくり」・「学年・学校集団づくり」を大切にする実践家であったことは、ここでも強調しておきたい。

 

以上、多くの紙数を割いて「生活指導運動の歴史と実践」を振り返るとともに、少数者(とりわけ「生きづらさ」を抱えた個人)へのこだわりこそが、運動と実践における重要な関心であり続けたことを見てきた。戦前の『生活綴り方教育』から21世紀にまたがる「私学における学校づくりと生活指導運動」等に至るまで、「生きづらさ」に苦しむ少数者を決して排除しない公教育の追求こそが、生活指導運動の一貫した志であり実践だったのである。現在、そのような運動の歴史・実践から学べることは極めて大きなものがあると考える。「誰も排除することのない対等平等な関係」を形成する集団の教育力に着目したこのような生活指導運動の積み上げは、現在において再評価されていく必然性があると考える。

 

このように私自身、これまでの歴史の中で生活指導運動の生み出した実践に学ぶ意義はいくら強調してもしすぎることはないと考えている。しかしながら最後に、これまでの実践と運動に対する重大な疑問を提示しておかなければならない。

 

先に引用した通り、「子どもたちがみずから学校や学級の現状を変革する取り組みをとおして人間的に成長するよう促す」(注5)という生活指導のねらいはいいとしても、子どもたちの取り組みや「集団づくり」実践が、本当に学校の現状を変革するものになってきたのか、という疑問である。

 

確かにそのような問題意識が、運動・実践の中になかったわけではない。

例えば、@職員会議等における民主的な議論を中心にしてすすめる「学校づくり」、「教職員集団づくり」という発想。久保田報告「私学における学校づくりと生活指導運動」においても、現場における民主的で徹底した議論が「学校づくり」につながっていった事実は、十分に見いだせる。(注6)だが、多くの現場において、生徒の日常的な「活動」や「実態」と呼応しながら、職員一人ひとりの姿勢を問い、職員集団さらには学校を変革する「学校づくり」が進められてきたのか、と言えば否といわなければならない。 

 

また、A高生研運動の中から生み出されていった「教育としての自治から権利としての自治へ」という問題提起と実践。これも、学校の在り方に対する生徒自身の「意見表明権」を抜きにして、本当の自治や生活指導・集団づくりは語れない、という問題意識のもと、様々に取り組まれてきた。

しかしながら、これを代表する「学校協議会」実践なども、結局は教職員集団で合意できる範囲内という限定がつきまとっており、学校体制や教職員集団の在り方に関する根本的な問い直しにつながったかどうか、という点についてはやはり疑わしい。

 

 それでは、学校のありかたを教職員集団として根本から変革していくような実践は存在しないのだろうか。実は、近年の学校づくり実践の中にも極めて興味深い報告がある。第47回全国大会基調発題「〈弱さ〉で支え合う関係を学校に」(注7)で問題提起の柱となった礒山報告「授業公開がつくる同僚性」(注8)である。

 

「ベテランも若手もみんな授業で困っていた。(・・・)教師同士がつながりあう(つながりあわねばならない)必然性があった(注9)」、という一文からもうかがえるように、これは、「教職員一人ひとりが困っている現実」、「一人ひとりの〈弱さ〉」から出発して進めていく「学校づくり」だった。従来のそれ(勤務年数の長いベテランが強いリーダーシップを発揮して進める実践)とは異なる「新しい学校づくり」の展望を垣間見せるものであったといえる。

 

それでは、教職員ではなく「生徒自身の弱さ」や「生きづらさ」を軸に進めていく「学校づくり(変革)」の可能性はないのだろうか。確かにそれは、これまでの生活指導運動・実践の中でも弱い部分であったと思われる。しかしながら、近年進められつつある「特別支援教育と学級・学校づくり」実践の中に、「新しい学校づくり」(教職員個々人の姿勢を問うと同時に学校の在り方を問い直していく取り組み)の展望が見いだせると考えている。

 

注1:『高校生活指導』153号 高校生が目を輝かせる実践は生まれたか

   高校生が地域とともに取り組む「夢の駅前公園計画」D−pro(久保田武嗣) 

注2:高生研第38回全国大会紀要「私学における学校づくりと生活指導運動」( 同 )

注3:『生活指導辞典』72頁 生活指導と道徳教育、政治教育 

注4:この部分は、『高校生活指導』153号の記録とともに、報告者本人から取り組み・議論の状況を聞き取ってまとめたものである。

注5:『生活指導辞典』74頁 生活指導と生徒指導

注6:久保田の勤務校で生徒が起こした「大事件」を契機に行われた議論、「一糸乱れぬ教職員の統一した指導が生徒の心に届いていない現実」、「生徒たちにとってどのような指導が必要なのか」に関する徹底した議論が行われたほか、「○○先生に学ぶ」というテーマの緩やかな学習会の組織等「久保田報告」から学べることは数多くある。しかしながら、同様の学校づくり実践が、運動の中でなかなか広がっていかなかったことも事実である。

注7:『高校生活指導』181号 

注8:『高校生活指導』177号    注9:   同    70

 

教育のページ