M君への手紙2   1996年 

 

前回のM君の手紙や吉本隆明の文章を読んで、ふと思い出したのはキルケゴールの姿勢でした。

「大切なことは、私にとって真理であるような真理を見いだすこと」、「認識は、生きたものとして私のうちに取り入れられているのでなければならない」「(わたしが求めていたのは)完全に人間的な生を営むことであって、単に認識の生を営むことではなかった」

 

自分が前世紀のキルケゴール(及びニーチェ)から感じ、共感を覚えたのは、自分自身の感性から出発し、自分の言葉で物を言う姿勢、集団的同調主義に与しない断固たる姿勢でした。

 

孤立を恐れることなくそのような姿勢を貫いた彼らは、当時の思潮やマスコミに対する批判も含めて、普通では考えられないほどの深い洞察をめぐらすことができたということはご存じのとおり。当時とは比較にならないほど情報の氾濫する現在において、そのような姿勢はいっそう貴重になっているのではないか、と思う今日この頃です。

 

 安全圏からものを言うだけで日常の自分自身の具体的な姿勢については不問にするという「評論家」的態度のいかがわしさ,等身大で考え行動することの大切さについてもその通りだと思います。

 

 そしてまた、マスコミの世論操作に心から怒りを感じてきた自分としては、大衆がマスコミに振り回されてしまわないことを切に願ってきました。M君の「危険な」考えについては、率直に言って自分自身も共有しています。

 

手紙やエッセイのなかに盛り込まれている吉本隆明やM君の視点,直観についても「なるほど」と思わせられる部分はいくつもあります。しかし、その中にいくつかの危険性や疑問を感じることも事実です。一言で言うと「“上空飛行的・評論家的独断”にかわっていわば“直観的独断”に陥る危険性です。(具体的には以下にまとめておいたので参照して下さい)

 

@自分自身の感性を信頼し過ぎ、簡単にものごとを「断定」してしまう危険性

 たとえば吉本隆明は「コメの話とはなにか」のなかで、国鉄の解体(分割・民営化)を批判する論者に対して「国家経営よりも資本経営のほうが進歩的で、いいに決まっている」と断定するが、むしろ自分はそこに「安全圏から批評する評論家的態度」を感じる。

 

理念や図式ではなく「現実に行われた国鉄の解体」は、国労組合員に対する人権蹂躙(例えば転職を拒否する組合員に対して、一日中4m四方のスペースの中で何もせずに時を過ごすことを強制するなど),さまざまな精神的拷問によって自殺者を続出させた現実と切り離してはありえなかった。そのような現実は、「進歩という観点から巨視的に見れば」無視してさしつかえないとでもいうのだろうか。

 

 確かに、一方で民営化そのものには効率化・接客態度の改善等、プラス面も存在することは認める。だが他方では、時速250q以上で長距離区間を行き来する“のぞみ”の運転手を2名から1名に削減するなど“資本の論理”に基づく“合理化”によって安全性が犠牲にされている面も確実にある。(運転手に何かあったときは?!) また、“合理化”の名のもとに国労(=資本の論理に対して「別の視点」を対置する団体)の組合員に対して行われた人権蹂躙の実態はどのようなものであったのか。「断定」の前に、そのようなことも含めて事実確認することが必要ではないか。

 

Aマスコミの影響から自由であるつもりでも、現実にはかなり影響されていないか? 国鉄を偽装倒産させ、新会社をつくるということを名目に国鉄労働組合に潰滅的な打撃を与えること、これが中曾根首相(当時)の意図であり現実に行ったことであると自分は思っている。それを後押ししたのがマスコミだったのではないか。

 

 ヤミ手当,カラ出張など「国鉄労働者悪玉」キャンペーンからはじまって「民営化することによって改革を!」というのは、まさにマスコミの主張だった。しかし、その過程で行われていた国家を挙げての不当労働行為(国労組合員に対する差別),人権蹂躙に対して全くスポットを当てなかったところにマスコミの犯罪性がある。一つの側面を捨象して「資本経営のほうがいいに決まっている、」と事も無げに断定する吉本の態度は、マスコミに影響された評論家的部分がおおいにありはしないか。

 

 また、社会党批判を「非自民連立政権に参加した時点」よりも「村山政権の時期」に集中させる吉本は、「一方では非自民政権への参加(→社会党の変質)をあおりながら、村山政権成立後の社会党の“変節”は批判する」というマスコミのご都合主義的な報道に影響されていないか。マスコミの総体を自由な視点から批判している、と夢想する事よりも、影響を自覚する事が大切ではないか。

 

B独断的な立場から“仮想敵”をたたく、という姿勢に陥る危険性

 集団的同調主義に大きな問題点があるということは言うまでもないが、他方で、孤立を恐れず非同調を貫くという態度は、充分な事実確認や自己検証を怠れば自己満足な独断論に陥る可能性が常にある。

 

 そして、いかがわしい部分や問題点をすべて“仮想敵”に押しつけ攻撃する、という姿勢の危険性は、集団的同調主義にまさるとも劣らないのではないか。吉本の姿勢のなかにもそのような危険性を感じないではいられない。自分の目から見ると吉本は評論家やジャーナリストを“仮想敵”にしてしまっているように思えるが、上空飛行的な論を展開してしまう危険性や、その時々の思潮や現実に影響されてメッセージの創造が規制され限定される危険性は、マスコミや一般的な“評論家”だけでなく吉本自身(もちろん我々自身のなかにも)おおいにあるのだ。

 

そのような前提に立って自分自身のうちにある問題点を事実に照らして検証しよう、という姿勢があまり感じられない、とおもうのは私だけか?

〔例えば「○○のいうことは“評論家”やマスコミのいうことと同じで大衆から遊離している、」といった批判の仕方(以前の口論)にも、同様の危険性を感じる。〕

 

 組合が県教委の主事を仮想敵として攻撃する、ということは往々にしてあるが、それは大いに問題だと思うようになった。限定された立場のなかで、できることをやっていくしかない、という点では我々も県教委の主事も同じなのだ。

 

さまざまな制約のなかで少しでも現実を改善していこう、という姿勢を持った主事はけっこうたくさんいる。

 

 そして、巨大な会社のなかで働く新聞記者についても同じことが言えるのではないだろうか。共産党が少し議席を増やした背景には、大衆のバランス感覚だけでなく、マスコミ内部で働く人のバランス感覚も存在しているように思える。

 

(少なくとも従来の「共産党を意図的に排除するような報道」はかげをひそめた)

 

C異議申し立てが、“共通の了解”に全く向かわない危険性

 左翼のメルクマールは、安全圏にいて何かを批判するということではなく、職場のなかで例えば上司に対して「それはおかしい」と異議申し立てできるかどうかだ、という主張はよくわかる。ただ、この「異議申し立て」はあくまでも出発点であって、何らかの改善やコミュニケーションの成立を目指すのであれば、“共通の了解”部分を広げていくことが大切ではないかと思われる。しかし、吉本にはその努力が不充分な面はないだろうか。

 

 吉本隆明は「コメの話とはなにか」のなかで井上ひさしの口調が「農政担当者」のそれであると断定し、かれの主張には一から十まで反対であるという。

 

確かに一方では吉本の主張のなかに賛成できる内容はいくつもある。例えば、「架空の観念的な名目だけの(自由化)反対論」ではなく「農民の腹の足しになる条件を獲得すること」こそが大切だ、といった主張。しかし、井上ひさしや共産党が全くそのような視点を持っていないとは思わないし、この点においては、共通の了解を創っていくことは充分可能ではないか、と思う。

 

 また、「工業はモノをつくるとき、たくさんの不利益を工場の外に出すのにひきかえ、農業はタベモノをつくりながら、数えきれないほどの利益を外に出す」という井上ひさしの主張を「生活は工業の製品の利益を受けている」ことを理由に全面否定する記述がある。これなどは、極論のさいたるもので「それならば、工業の恩恵を受けている現代人は工業による環境汚染について語ることは全く許されなくなるのか?」と言いたくなる。

 

 そもそも文化的存在である人間は、自然を加工し、自然のなかにないものを作っていくことなしには生存できない。しかし、できるかぎり自然をそこなうことなく、自然を加工していく知恵は大切であり、従来の工業や企業的農業よりも、家族農業のなかにそのような知恵や配慮がたくさん含まれていたことについては、ほとんど疑い得ないのではないか。

 

従って大切なことは一方を善、他方を悪と規定することではなくいかにすれば工業もそのような知恵を取り込んでいけるのか、ということだと思われる。この点についても、充分共通の了解は可能だと思うのだが。

 

率直に言って、吉本にはもう少し“共通了解に向けての営み”を等身大で追求してほしい、というのが自分の感想だ。

 

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