人権思想と日本的精神風土

 

 人権思想と日本的精神風土

 

 湯浅誠は『反貧困』の末尾近くで次のように述べています。
 なぜ貧困が「あってはならない」のか。それは貧困状態にある人たちが「保護に値する」かわいそうで、立派な人たちだからではない。(・・・)立派でもなく、かわいくもない人たちは「保護に値しない」のなら、それはもう人権ではない。生を値踏みすべきではない。

 上記のように、貧困を克服すべきものと考える根拠として(生存権を含めた)「人権」を挙げるのは妥当な考え方でしょう。
 
さて、このような「人権思想」や万人平等思想も明らかに人間固有の「文化」であるわけですが、一体これらは、いついかにして人間社会の中に登場したのでしょうか。一般的には西洋近代の「自然権」思想から、といわれます。 

 しかしながら、竹内芳郎によれば歴史上初めてそれらを人類にもたらしたのは古代に誕生した「世界宗教(普遍宗教)」です。
 そもそも人類は、これまでどのような宗教生活を体験してきたのでしょうか。『文化の理論のために』の中で竹内は次のように述べます。

 まず「国家と文明」成立以前の部族共同体宗教(原始農耕宗教)、そのもっとも基本的な特徴は、ここでは宗教が共同体の与える社会規範形成と全く一体化している、という点にある。

(人々は作物の豊凶を大きく左右する自然の力を恐れ、あらゆる自然物に内在する「神」に向かって豊作を祈願したり、収穫を感謝する祭・儀式を行った。例:大和政権が成立する以前の「様々な自然神」への素朴な信仰)
(・・・)
 「国家と文明」が成立してくると、人類の宗教生活も一変する。(古代専制国家を支える国家宗教の出現、例:天武天皇が行った大嘗祭に象徴される「国家神道」や、中東で成立した「ユダヤ教」)
(・・・)
 国家と文明の成立期とは、人類が初めて金属器を手にして大量虐殺に乗り出し、(・・・)このとき、今まで自分を庇護してくれた共同体の莢から放り出され、日々大虐殺の脅威にさらされることとなった悲惨な民衆を、その裸で無力な〈個人〉の姿のままで救済してくれる宗教として登場したのが 「世界宗教」(普遍宗教)である。 (例:古代ローマ帝国で急速に広がったキリスト教)

                    〔以上『文化の理論のために361頁〜363頁( )内は引用者〕

 このように、竹内によれば、無力な個人をその悲惨な姿をそのまま栄光に逆転させる奇跡を行ったものは、「世界宗教」の力であり、世界宗教(普遍宗教)とともに「人権思想」もはじめて登場するようになるのです。

 「人権思想とは、人間の尊厳はその社会的役割などにはなく、かえってそれを脱ぎ捨てた裸のままの個体そのものにあるとするもので、(・・・)個体が個体としての自覚に達するためには、個体が裸のまま直接超越的普遍者(神)の前に立ち、普遍的価値を分与されるという、以前にもましてはるかに広大な社会的想像力が発動された(・・・)」、というわけです。

                     例:「新約聖書」の次の箇所

 さて、「自然権」の思想をもたらしたのは近代の「啓蒙思想」であると言われます。周知のようにこの「啓蒙思想」は中世の宗教を中心とする世界観をするどく批判・否定したものと見られがちですが、単なる「否定」ではありません。ヘーゲル(『精神現象学』)によれば、啓蒙は「信仰との対決を通して(宗教の持つ)絶対性・普遍性を自らのうちに取り込んでいった」のです。

 例えば「フランス人権宣言」は「至高存在」(「前文」に記載)の前で次のように宣言されたものです。
1、 人間は生まれながらにして自由かつ平等な権利を持っている。(・・・)
2、 あらゆる社会的結合の目的は天賦にして不可侵の人権を維持することにある。(・・・)

 そして、その基礎となった「アメリカ独立宣言」にも次のような記載があります。
 われわれは自明の真理として、全ての人は平等に造られ、造物主によって一定の奪いがたい天賦の人権を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる。

 以上のように、近代以降確立されたと言われる人権思想の基礎には「世界宗教」(普遍宗教)があり、それを通して「あらゆる社会関係から離れた裸の〈個人〉」がはじめて救済の対象になったわけです。

(例えば「どの国の兵士か」に関わりなく治療活動を行う「国際赤十字運動」が欧州で広がっていった背景にキリスト教があったことは、明らかではないでしょうか。)

 欧米近代は「超越性の原理」(人権思想を含め「共同体の利害を超えた普遍的な原理」)を根拠に「市民革命」を通して社会を作り変えていったわけです


  しかし、日本ではどうでしょうか。竹内芳郎は次のように言っています。

  わが国の歴史の中では、こうした革命運動はほとんど形成されずにきてしまったが、その根本的な背景は「この国の特異な精神風土」
(前記事の後半)である。

 なぜ、いかにしてこのような「精神風土」が形成されていったのでしょうか。次回に「竹内理論」をまとめていきたいと思います。 

 

 前回「フランス人権宣言」と「アメリカ独立宣言」にも明記された「人権思想」を例示しましたが、その背景には世界宗教(普遍宗教)であるキリスト教がもたらした超越性の原理(個々の共同体を超えた普遍的な原理)が存在していることを述べました。

 そうはいっても、現実のキリスト教は権力と結びついて「魔女裁判」などさまざまな害悪をもたらしたのではないか、と主張する向きもあるかもしれません。しかし、啓蒙思想家たちは、そのようなキリスト教の問題点を承知していたからこそ、ヴォルテールのように激しくキリスト教会を批判する論者もあらわれたのです。

(キリスト教徒が歴史の中で様々な問題を引き起こしたのは事実ですが、そのような問題に対する「自己批判」が不断に形成されてきた点を竹内芳郎は大いに評価しています。

 なお、マルクス主義者であった竹内芳郎が『文化の理論のために』、『意味への渇き』などの文化論・宗教論を本格的に展開するようになったきっかけは こちらのコメント欄 をご参照ください)

 啓蒙思想は「至高存在」とか「造物主」という言葉・視点を持ち出しながらも「人権宣言」という形で、いわばキリスト教の信者でなくても受け入れられるような形へと「超越性の原理」を再構成していきました。 これは、宗教の持つ絶対性を取り込み、普遍化する作業だったともいえるでしょう。 

 さて、前回述べたように、「人権宣言」に代表される「原理が」、欧米における市民革命の基盤だったわけですが、なぜ日本においては古代から現代にいたるまで、そのような革命運動が起こらなかったのでしょうか。

 竹内芳郎はその背景として「共同体的、集団同調主義的な〈無‐超越性の〉日本的精神風土」を強調します。
 一言でいえば、この日本において権力者をも裁きうる「(共同体を超えた)普遍的な原理」社会の中で形成・共有されてこなかったのです。宗教的生活も含め、そのような「思想的・文化的伝統」が存在しないため、「人権思想」の定着なども困難を極めてきたと言えるでしょう。

(例えば学校現場で行われている「人権教育」も、普遍的な権利としての人権というよりも、「共同体的な思いやり」を伝えるものになっている場合が少なくないように思われます。)

 つまり、「人権思想」の系譜を見る限り、「普遍宗教」のもたらした「超越性の原理」(共同体の利害を超えた普遍的な原理)こそ、人権が生み出され定着していく際の重要なポイントだったのですが、日本においてはそのような条件が決定的に欠けているのです

 いや、日本にも万人平等主義を柱とした「世界宗教」(普遍宗教)である仏教、のみならずキリスト教も伝播してきたではないか、と言えるかもしれません。しかしながら、そのように伝播してきた「普遍宗教」は「共同体的な自閉性」を「開いた精神によって」突破し乗り越えるという本来の役割を果たすことなく現在にいたっているのです

 前記事で、1,部族共同体宗教(原始農耕宗教)→2,(古代専制国家を支える)国家宗教→3,世界宗教(普遍宗教)という宗教の変遷を見てきましたが、全世界的な視野に立つと、1から2、2から3の間には明確な断絶がありましたとりわけ3、世界宗教は2、国家宗教のもつ自閉性をその「超越性の原理」で切断し乗り越えていったところに歴史的な意義があります

 しかし、日本のばあいはどうでしょうか? 
 まず、1と2の明確な断絶が存在しないのです
 例えば「自然神」に対して豊かな収穫を感謝する祭祀であった新嘗祭(原始農耕宗教の行事)をすべて古代の大王が(天武天皇の時代)統合し
「大嘗祭」としたことに象徴されます。つまり、部族共同体における原始農耕宗教の「自然神への信仰」を大和政権は「国家宗教」へと統合していったわけです。
 
 一般的には(外来の)権力・支配を正当化する役割を持つ「国家宗教」ですが、「記紀神話」の場合、アマテラスという、もともとは稲作農耕の豊饒女神と思われる神がそのまま天皇家の始祖神とされ、結局、原始農耕宗教を統合・吸収するかたちで原始宗教と国家宗教がけじめなく連結してしまいました

 そして、そのような国家宗教としての神道(天皇教)の性格について竹内芳郎は次のように言うのです。 
 「メソポタミアの純粋な国家宗教とは異なって、上からの圧政よりも下からの帰順、〈原始宗教〉いらいの共同体帰嚮(ききょう)〔共同体帰属意識〕を基盤とする柔構造性を持つこと、普遍宗教とは異なる〈無‐超越性〉に基づくつよい自閉的性格、異分子排除性を持つこと。」

 これが、現在も続く「集団同調的精神風土」の形成に深く関わると竹内芳郎は考えるのですが、さらに決定的だったのは、3の「世界宗教」が2の「国家宗教」のもつ自閉性をその「開いた精神」で突破し乗り越えていくことに失敗したことです

 「我が国に流入した最有力の普遍宗教としての仏教の著しい特徴は、鎌倉仏教の始祖たちを例外として、ほぼ完全に王権に従属し、(最初から民衆レベルではなく国家から国家へ伝えられたこともあるが・・・)国家宗教としての「神道(天皇教)」を超越性の原理で切断し乗り越えることに全く失敗してしまった」というわけです。

 次回は鎌倉仏教や、「加賀の一向一揆」など一部の例外にも目を向けながら、「閉じた共同体」と「ナショナリズム」、戦後の問題にも触れてみたいと思います。  

 

万人平等思想と共同体

 

  さて、現実の社会に王権(専制的な権力)が成立し、権力的な上下関係や差別がはびこる時、「普遍宗教」はその万人平等思想、人権思想から「反権力的」な性格を身に帯び時には革命運動・民衆反乱の思想的基盤として働くことになります。

〔例えばキリスト教を基盤にしたドイツ農民戦争、道家の大道=大同思想を基盤にした中国農民反乱など〕

 

 日本の場合、仏教がそのような役割を果たしたことはほとんどなかったわけですが、竹内芳郎は唯一の例外として鎌倉仏教を挙げています。ここでは「一向一揆」を生み出した浄土真宗をとりあげておきましょう。(浄土真宗の親鸞は法然の教えを徹底したものと理解できます。)

 

 親鸞もその師であった法然も「念仏」をひたすら唱えることを誰にでもできる「易業」として選択するわけですが、その理由づけとして「一切衆生をして平等に往生せしむるため」という万人平等性を挙げています。〔まさに「普遍宗教」の面目躍如!〕

 

 『歎異抄』の中にも次のような挿話があります。「善信(親鸞)が信心も、(法然)上人のご信心も一つなり」という親鸞の発言に、思い上がりもはなはだしいとばかり、相弟子たち満場騒然となる中、ひとり法然はこの発言を全的に支持して「源空(法然)が信心も(・・・)善信房の信心も如来よりたまはりたる信心なり。(・・・)されば、ただ一つなり、」と断じたといいます。

 

 そこから出発して「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と言い放ち、弟子づくり、寺づくり、教団づくりをすべて否定して、弥陀の前での「同信、同行、同朋」の人間関係に徹していったのは、親鸞の方でした。(法然は人々に対して人師の立場を取っていた)

 このような(現世における)徹底した万人平等主義と「反権力的態度は、鎌倉仏教の中でもとくにこの派に際立っておりであればこそ、まさにこの派から百年間にもおよぶわが国空前絶後の大民衆反乱"一向一揆"がおこった」というわけです。           〔以上、『意味への渇き』316頁〜327頁より〕

 

 竹内によれば、一向一揆に限らず、歴史に残る「民衆反乱」や「革命運動」の多くは、対等平等な「原始共同体」のエートスの復活を志向しています。ただし、その志向は「原始共同体」についての直接的な記憶ではなく、普遍宗教の開いた万人平等思想を基盤としているのです。

(例えば、一向一揆の内部組織も浄土真宗の「ご同朋」思想に基づく「講」を中心とする門徒たちの平等な寄り合だった。) 

 

 竹内芳郎は、一貫して日本の「共同体的、集団同調的精神風土」を問題にしていますが、共同体自体を悪としているわけでは決してありません

 問題は「支配者」、「上位の統一者」を冠した共同体(典型的なものは古代専制国家)であり、竹内はこれを対等平等な原始共同体と区別して「第二次共同体」と呼んでいます。そして、古代専制国家における支配の特徴を、「共同体帰嚮(ききょう)〔共同体帰属意識〕による支配の体系」としているのです。

 

 実は、この考察は『国家と文明』においてすでに展開されていたものです。『国家と文明』が解明していた「古代専制国家」の具体例と特徴を見ていただければ、「帝王が担う精神労働(公共的役割)」として「共同体繁栄のための公的呪術」(=「国家宗教」に関わる祭祀)があったこと、「共同体原理」で国家が形成されていたことを確認することができます。

 

 そのような考察(国家論)は近現代史と何らかのかかわりがあるのでしょうか。竹内は次のように述べています。

 「(帝国主義)国家間の対抗・摩擦がいよいよ激しさを加えると、近代国家ももはや〈外面国家〉などに甘んじているわけにはゆかなくなり、(・・・)どうあっても国民の内面からの国家への忠誠をかちとってくることが必要となる。その極端な形態がまさにナチズムであって、これは近代市民社会のまっただなかで(・・・)まことに人工的な手つきで〈血と土〉の共同体的心情を復権せしめようと狂奔する。そうすると、不思議なことに、近代市民社会のある要素と古代専制国家の要素とがすさまじい共鳴現象を起こす

 

 戦争に国民を駆り立てる必要性から「第二次共同体」を掘り起こす傾向、これは日本のファシズム体制においても「国家神道」を基盤とする「忠君愛国」思想として(それに抵抗するようなものは「非国民として排除する」といった集団同調的な共同体意識として)全面開花するわけです。

 

 しかし問題は、それを自己批判的に総括できるかどうかだ、ということを竹内芳郎は強調します。 

国家神道を軸とした戦時体制への加担について、)戦後、プロテスタント系の「日本キリスト教団」が「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を発表し、また浄土真宗系の「東本願寺」が(・・・)アジア人民を含む全戦没者たちのための「追弔法会」を催し、その場で侵略戦争加担の罪責を謝したこと、確かに異例事(他の教団は一切ほうかむりしたまま)であり、ともかくも異彩を放つ快挙ではあった。

 

 けれども、そうしたことが行われたのは、前者では敗戦後22年も経った1967年のこと、後者にいたっては(・・・)87年のことでしかなかった。 第二次大戦中、同じくナチの暴虐に屈服を余儀なくされたドイツの教会が、敗戦とおなじ45年に早くも「シュトゥットガルト罪責告白」を、つづいて47年にはさらに「ダルムシュタット宣言」を発表したのと比較するとき、(・・・)わが宗教界すべてに通ずる無責任体質の底深さに慄然とならずにはいられない。(・・・)

 

 けだし、おのれの過去を(国家や共同体を超えた普遍的な視点で)率直に検証する能力のない者に、おのれの新たな未来を設計する能力なぞあるはずのないことは、あまりにも明らかであるからだ。                                 〔『意味への渇き』 364頁〕

 しかしながら、上記の指摘を受け止めなければならないのは「宗教界」だけなのでしょうか? 考えるべき点は数多くあると思われるのです。 

             

日本的精神風土(問題と展望)

 

 この間、『国家と文明』(まとめ2)にいただいたMr. Hot Cakeさんのコメントなどから出発して色々考察してきました。
 
>「自己責任論」、これは貧困が本来自己責任から来ているのではなく、制度的なひずみから来ていることに目を向けないで制度を固定化してその中で所謂成功者に入ることを汲々とし、それがイコール「勝ち組・負け組」…大嫌いな言葉です…というグループ分けを生み出していることを知りながら敢えて他人を押しのける競争社会を作り出している

 全くそのとおりだと思います。『岩盤を穿つ』で湯浅誠も同趣旨のことを述べています。

 そして、日本における「共同体的・集団同調的 精神風土」(おそらくそれには
「人権思想と日本的精神風土」「万人平等思想と共同体」で触れたような背景がある)は上記のような問題点を拡大してきたように思われるのです。

 戦後においても進められた「企業社会における農村共同体化」、そして「企業別組合」(企業丸抱えの労働組合)の形成に関連して竹内芳郎は次のように述べています。

 日本では近代国家それ自体が共同体原理を核心的なイデオロギーとしみずから一つの強力な共同体となり変ってそこで「一君万民」思想を徹底化させたからこそ、中間の諸共同体を破壊できたのだ(・・・)。

  この点で大いに参考になるのは、熊沢誠 『日本の労働者像』であって、そこには、日本の企業が一方では労働者たちをその出身の家族や郷土の旧共同体から切り離してバラバラにしておきながら、他方では自ら一つの疑似共同体となってそのバラバラになった労働者たちを共同体的に統合してゆくさまが、見事に描き出されている


 いわば日本大企業における、共同体的集団同調主義と激越な個人間競争主義との複合体 (・・・以下略 『天皇教的精神風土との対決』) を指摘するのです。
 
 このような「日本的精神風土」、「企業文化」を背景に、日本の労働組合は基本的に「企業別労働組合」となっていったのだと思われます。(なお、企業別組合の源流を「大日本産業報国会」に求める考え方もあるようです。)

 確かに戦後、かなりの期間労働運動に大きな影響を与えていた「総評」は、社会主義思想の影響も受けながら「階級的労働運動」を掲げて運動をおこないました。しかしながら、既成「社会主義国家」が抱える問題の大きさが誰の目にも明らかになっていくにつれて、「階級的労働運動」は後退し、産業別ならぬ「企業丸抱えの労働組合・運動」がますます主流になっていったのは必然の流れだったように思われるのです。            

 もっとも、そのような運動の問題点が現れたのは何も総評が解体した後ではなく、それよりもはるか以前、「公害による生命の破壊」に抗議する地域住民運動に対して「敵対的な役割」を労働組合が演じていた段階から問題が明らかになっていたといえるでしょう。

 竹内芳郎は上位の統一者を戴いた閉鎖的な共同体のことを「平等な原始共同体」と区別して「第二次共同体」と名づけていますが、「企業丸抱えの労働組合」などはその典型でしょう。そのような「第二次共同体」ではなく「対等平等な市民的共同体」を打ち立てることの必要性に関しては、竹内芳郎の主張に賛同する人も多いと思うのですが、それはいかにして可能になるのでしょうか。

 「日本の集団同調主義的精神風土に抗して討論文化(討論民主主義)を確立していく」という実践はその不可欠な条件であるように思われます

 その展望を切り開いていくヒントとなる実践として、1、スウェーデンで実践されている「討議民主主義」、

 

2、『どんとこい貧困!』で湯浅誠が提示している視点と実践

3、現在、教育現場で注目され取り組まれつつある「討議を取り入れた授業実践」、などの3つについてこれから少し時間をかけて述べていきたいと思います。